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古都の変 第四章・調略(4)
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同じ日の夜である。
森岡と谷川東良は、斐川角、坂東に続き、一色の支持も取り付けた旨を神村に報告し、勝利の祝杯を挙げるため、ロンドに繰り出していた。
神村がロンドに足を運んだのは、意外にもこの夜が初めてであった。
「ママ。この方が噂の神村上人様や。俺なんかと違って、もうすぐ大本山の貫主となられる、大変にお偉い方やからな、ちゃんとしてや」
谷川東良が、いかにも勿体ぶって紹介した。
「お初にお目に掛かります、山尾茜と申します。御高名は、かねがね谷川様より伺っております。何時お会いできるかと、楽しみにしておりました」
茜は恭しく挨拶した。
「私の方も、貴女が大変な美形だと聞かされていたので楽しみにしていました。なるほど、評判どおりの別嬪さんだ。私が十年若かったら、口説きたいぐらいだね」
神村も満面の笑みを浮かべて返した。
「まあ。神村先生でも、そのようなご冗談をおっしゃられるのですね」
思わぬ誉め言葉に上気した茜は、
「それにしても、大変失礼ですが、ご身分をお伺いしなければ、お坊さんというより、お茶か書道の先生といった文化人のようにお見受け致しますわ」
といっそう嫣然とした笑みを浮かべた。
神村が夜に外出するときは、ほとんどが羽織袴だった。夏は着流しのときもあったが、それも数えるほどである。ましてスーツ姿にいたっては、森岡ですら二、三度しか見たことがなかった。
四、五センチのロマンスグレーの頭髪を自然に後ろに流し、白檀扇子で風を創る姿はとても粋で、お茶の宗匠か書道の大家、あるいは能や狂言といった伝統芸能の達人といった趣があった。
神村は情勢が好転したことも手伝ってか、珍しくも軽口を叩いてみせたのだが、それも一時のことに過ぎなかった。
前祝にと、ドン・ペリニョンで乾杯をした際、
「この度は、本当にお世話になりました。二人にあらためてお礼を言います」
と述べたときには、いつもの生真面目な彼に戻っていた。
「いやあ、私はたいしたことはしていません。今回は、森岡君の功績が大きかったですよ。まさに八面六臂の活躍とはこのことか、というような働きでした」
神村の言葉を受けて、谷川東良は歯の浮くような追従をしたが、森岡は良く心得たもので、
「とんでもないです。私は谷川上人のお供をしていただけですから」
と当り前のように謙遜した。
神村を前にした森岡にすれば、それは決まり事だったのだが、このときばかりは、いつもと様子が違っていた。
神村があらたまって、
「いや。森岡君、そうではないだろう。すまないね、君にはずいぶんと散財させてしまったようだ」
と頭を下げたのだ。
森岡には衝撃の光景だった。
初めて見た師の姿に、心は千々に乱れ、やがて罪悪感に支配されて行った。
「先生、何をなさるのですか。現在(いま)の私が有るのは先生のお陰です。私にはこういうことでしかご恩返しができないのですから、たかだか金のことで私如きに頭などお下げにならないで下さい」
その言葉は、真に彼の偽らざる気持ちではあったが、その一方で、
――此度の件は、己の存在価値を知らしめる絶好の機会になった。
という邪まな心が芽生えていたのも事実だった。彼はその心の歪みを、神村に見透かされたような気がしたのである。
もう一人、複雑な胸中に揺れる者がいた。二人のやり取りを興味深く見ていた茜である。
彼女の胸にはある疑問が浮かんでいた。そして、是非ともそれを紐解きたいという欲求に駆られていたのだが、さすがに初見の神村に問うことはできず、
「神村先生と谷川さんは、古いお付き合いですの」
と、まずは無難な問いに止めた。
「そうやな。初めて神村上人にお会いしたのは、俺が幼稚園の頃やったから、四十六、七年前というとこかな」
谷川が古い記憶を辿った。
「そんなに長いお付き合いなのですか」
「私の生まれは、鳥取県の米子という街で、森岡君の故郷にも程近いのだが、父は次男でね、私が八歳のとき、大阪の天王寺に寺を開山したのを機に、引っ越して来たのです」
神村も遠い昔を懐かしむように言った。
「父親同士が兄弟弟子でな、お互いの寺院も近かったもんで、それ以後、行き来することが多くなったんや」
「谷川上人のお父上が尽力して下さって、父は小さな自坊を持てたのだが、経王寺に比べ、彼の寺院は室町時代初期から続く立派なものでね、父がしょっちゅう宗務を手伝っていた関係で、私たちは良く一緒に遊んだものだった」
「そういう経緯があって、二人は兄弟のように育ったんや。ほんま、絵に描いたような賢兄愚弟だったけどな」
谷川は自嘲の笑みを浮かべて言った。
「なるほどね」
茜はまじまじと見つめた。
「なんやママ、その目は。どうせ『同じ宗教家やのに、えらい違いや』と、思っとるんやろ? そうや、俺なんかと違って、神村上人は宗門を支えて行くお方。言うたら宗門にとっては宝のような人やからな、違って当然や」
谷川は大仰にふくれっ面をしてみせた。
「でも、それで納得しました」
「なんの納得や?」
「谷川さんが夜な夜な豪遊できる理由です」
「それは森岡君がスポンサーやからや」
「いいえ、それ以前もですよ」
「まあな、寺の金は死ぬまで兄が手離さんだろうし、ちょろまかした布施で夜遊びをしるぐらいが関の山や」
谷川は自らを蔑むように言った。
「まあまあ、そんなに僻まないで下さい。谷川さんは谷川さんで、良い所がたくさんあるのですから」
「それは、大そう有り難い慰めやな」
谷川はそう言うと、
あはは……と高笑いし、皆の笑いを誘った。
それから暫く、ロンドでは懐かしい昔話に花が咲き、たおやかに時は流れて行った。
森岡と谷川東良は、斐川角、坂東に続き、一色の支持も取り付けた旨を神村に報告し、勝利の祝杯を挙げるため、ロンドに繰り出していた。
神村がロンドに足を運んだのは、意外にもこの夜が初めてであった。
「ママ。この方が噂の神村上人様や。俺なんかと違って、もうすぐ大本山の貫主となられる、大変にお偉い方やからな、ちゃんとしてや」
谷川東良が、いかにも勿体ぶって紹介した。
「お初にお目に掛かります、山尾茜と申します。御高名は、かねがね谷川様より伺っております。何時お会いできるかと、楽しみにしておりました」
茜は恭しく挨拶した。
「私の方も、貴女が大変な美形だと聞かされていたので楽しみにしていました。なるほど、評判どおりの別嬪さんだ。私が十年若かったら、口説きたいぐらいだね」
神村も満面の笑みを浮かべて返した。
「まあ。神村先生でも、そのようなご冗談をおっしゃられるのですね」
思わぬ誉め言葉に上気した茜は、
「それにしても、大変失礼ですが、ご身分をお伺いしなければ、お坊さんというより、お茶か書道の先生といった文化人のようにお見受け致しますわ」
といっそう嫣然とした笑みを浮かべた。
神村が夜に外出するときは、ほとんどが羽織袴だった。夏は着流しのときもあったが、それも数えるほどである。ましてスーツ姿にいたっては、森岡ですら二、三度しか見たことがなかった。
四、五センチのロマンスグレーの頭髪を自然に後ろに流し、白檀扇子で風を創る姿はとても粋で、お茶の宗匠か書道の大家、あるいは能や狂言といった伝統芸能の達人といった趣があった。
神村は情勢が好転したことも手伝ってか、珍しくも軽口を叩いてみせたのだが、それも一時のことに過ぎなかった。
前祝にと、ドン・ペリニョンで乾杯をした際、
「この度は、本当にお世話になりました。二人にあらためてお礼を言います」
と述べたときには、いつもの生真面目な彼に戻っていた。
「いやあ、私はたいしたことはしていません。今回は、森岡君の功績が大きかったですよ。まさに八面六臂の活躍とはこのことか、というような働きでした」
神村の言葉を受けて、谷川東良は歯の浮くような追従をしたが、森岡は良く心得たもので、
「とんでもないです。私は谷川上人のお供をしていただけですから」
と当り前のように謙遜した。
神村を前にした森岡にすれば、それは決まり事だったのだが、このときばかりは、いつもと様子が違っていた。
神村があらたまって、
「いや。森岡君、そうではないだろう。すまないね、君にはずいぶんと散財させてしまったようだ」
と頭を下げたのだ。
森岡には衝撃の光景だった。
初めて見た師の姿に、心は千々に乱れ、やがて罪悪感に支配されて行った。
「先生、何をなさるのですか。現在(いま)の私が有るのは先生のお陰です。私にはこういうことでしかご恩返しができないのですから、たかだか金のことで私如きに頭などお下げにならないで下さい」
その言葉は、真に彼の偽らざる気持ちではあったが、その一方で、
――此度の件は、己の存在価値を知らしめる絶好の機会になった。
という邪まな心が芽生えていたのも事実だった。彼はその心の歪みを、神村に見透かされたような気がしたのである。
もう一人、複雑な胸中に揺れる者がいた。二人のやり取りを興味深く見ていた茜である。
彼女の胸にはある疑問が浮かんでいた。そして、是非ともそれを紐解きたいという欲求に駆られていたのだが、さすがに初見の神村に問うことはできず、
「神村先生と谷川さんは、古いお付き合いですの」
と、まずは無難な問いに止めた。
「そうやな。初めて神村上人にお会いしたのは、俺が幼稚園の頃やったから、四十六、七年前というとこかな」
谷川が古い記憶を辿った。
「そんなに長いお付き合いなのですか」
「私の生まれは、鳥取県の米子という街で、森岡君の故郷にも程近いのだが、父は次男でね、私が八歳のとき、大阪の天王寺に寺を開山したのを機に、引っ越して来たのです」
神村も遠い昔を懐かしむように言った。
「父親同士が兄弟弟子でな、お互いの寺院も近かったもんで、それ以後、行き来することが多くなったんや」
「谷川上人のお父上が尽力して下さって、父は小さな自坊を持てたのだが、経王寺に比べ、彼の寺院は室町時代初期から続く立派なものでね、父がしょっちゅう宗務を手伝っていた関係で、私たちは良く一緒に遊んだものだった」
「そういう経緯があって、二人は兄弟のように育ったんや。ほんま、絵に描いたような賢兄愚弟だったけどな」
谷川は自嘲の笑みを浮かべて言った。
「なるほどね」
茜はまじまじと見つめた。
「なんやママ、その目は。どうせ『同じ宗教家やのに、えらい違いや』と、思っとるんやろ? そうや、俺なんかと違って、神村上人は宗門を支えて行くお方。言うたら宗門にとっては宝のような人やからな、違って当然や」
谷川は大仰にふくれっ面をしてみせた。
「でも、それで納得しました」
「なんの納得や?」
「谷川さんが夜な夜な豪遊できる理由です」
「それは森岡君がスポンサーやからや」
「いいえ、それ以前もですよ」
「まあな、寺の金は死ぬまで兄が手離さんだろうし、ちょろまかした布施で夜遊びをしるぐらいが関の山や」
谷川は自らを蔑むように言った。
「まあまあ、そんなに僻まないで下さい。谷川さんは谷川さんで、良い所がたくさんあるのですから」
「それは、大そう有り難い慰めやな」
谷川はそう言うと、
あはは……と高笑いし、皆の笑いを誘った。
それから暫く、ロンドでは懐かしい昔話に花が咲き、たおやかに時は流れて行った。
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