黒い聖域

久遠

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古都の変 第一章・乱雲(6)

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 神村正遠と谷川東良は、宗教人として正反対の道を歩んでいた。
 神村の生家は、ごくありふれた地方の末寺だったが、少年の頃より英邁の誉れ高く、総本山の滝の坊に入坊してからは、中原是遠の薫陶によって一気にその才能が開花した。しかも、仏道を究めるべく、死人も出ることのある百日荒行を十二度も敢行し、堂に籠もった日数は、有に千二百日を越えていた。
 天真宗における荒行とは、堂に籠もっての読経や瞑想、水行、観行を繰り返す修行のことを言い、その間の食事は朝夕の二回、共に一汁一菜である。
 荒行挑戦の年齢に制限はないが、最低限の経典を諳んじていることが必須であった。導師の判断で不適格とされた者は、容赦なくその場で退山を命じられ、通算三度の退山を命じられた者は、再度の荒行に挑む資格を失うことになった。
 これは自身と家門の名誉を著しく傷付けるものであり、余程の自信と覚悟がなければ、挑むことの適わない厳しい修行であった。
 導師とは、一般には人々に信仰心を持たせ、仏道に導く者を言い、法要や葬儀などでは中心になって取り仕切る者を指すが、荒行におけるそれは教授と考えればわかり易いだろう。
 さて天真宗の記録によれば、七百年を超える歴史の中で、千日荒行を達成した者は、神村を含め僅かに七名に過ぎなかった。千日荒行といって、百日荒行を十回達成すれば良い、という単純なものではない。
 毎回同じ内容の修行が繰り返されるのではなく、達成回数が増すに従って、読経しながら山野を歩く踏破回峰行(とうはかいほうぎょう)や、滝行といった新たな苦行が加わる。さらに睡眠時間を削り、より長く堂に籠もったり、水行の回数を増やしたりと、過酷さは極まるのである。
 しかも荒行は、正月明けから春先までの、酷寒の時期に実施される。特に踏破回峰行は、白衣の上に簡易の僧衣を一枚だけ纏い、素足に草鞋という出で立ちで積雪の山野を歩かなければならない。
 当然、命を落とす危険に晒されることも多くなり、落伍者も続出することになった。そこで、大抵の者は大本山・本山の貫主就任の資格が得られる五回で打ち切ってしまい、その先の修行に挑む者は極稀なのである。
 七百年を超える歴史の中で、千日荒行を達成した者が、僅か七名しかいないのはそのためであった。
 神村正遠は、その千日荒行を百三十年ぶりに達成したため、宗祖栄真大聖人の生まれ代わりとも、稀代の傑物とも評されているのである。
 これに対して、同じ末寺でも室町時代初期から続く由緒ある名門の寺院に生まれた谷川東良は、恵まれた環境に育ちながら、荒行は若い頃のたった一度切りで、今やどっぷりと世俗の垢にまみれて生きていた。形ばかりの遊学を繰り返し、修行はおざなり、挙句に酒色におぼれ、放蕩無頼に生きて来ていた。
 ただ、その甲斐あってというべきか、純粋培養の神村とは異なり、世事に明るく、人情の機微に通じ、智謀に長けていた。皮肉にも、それがこの度の謀には好都合だといえたのである。
 また、兄東顕が関西寺院会の会長という要職の立場にあり、兄の名代と称すれば、いかなる寺院であっても容易く面会を求めることができ、情報も手に入れ易かった。
 そして極めつけは、神村とは父親同士が兄弟弟子、東良本人も小学校から高校ま五年年後輩という、親子二代に亘って親交を深め、信頼が醸成されている間柄ということである。
 まさに谷川東良は、此度の参謀役にはこれ以上ない打って付けの人物というわけなのだ。
「そこでだ。寝返らせる上人が決まった後には……何だ、その……」
 急に谷川の歯切れが悪くなった。
 すでに自身の役割も察していた森岡は、その先の言葉を奪った。
「私が用意致します。如何ほどですか」
「そ、そうか……そうだな、一億、いやできれば二億ほどかな……署名捺印だけなら、一寺院あたり二百万ほどで済んだが、選挙となると最低でも一桁上の二、三千万ぐらいは掛かるやろうし……相手の出方によってはさらに上乗せせにゃならんかもしれん。なんせ、久保さんも前回の『金の出し惜しみをして敗れた』という苦い経験から、今回は相当張り込むやろうからなあ。それに、味方にもそれなりの配慮もせにゃならんやろ。相手もこちらに手を延ばしてくるかもしれんしな」
 谷川東良は時折目を逸らして、いかにも気まずそうに言い訳をしたが、森岡はあっさりと申し入れを受諾した。
「承知しました。それでは、三億用意しましょう。付け届けの他に、接待など色々物入りになるでしょう。全て私個人の金で用立てますので、入用ができましたら遠慮なくおっしゃって下さい」
「三億、それも個人の金ですと……そうですか、金が必要になったら連絡します」 
 意表を突かれた東良は、思わず丁寧な言葉にあらためてしまった。神村から薄々聞いていたとはいえ、森岡が全く躊躇することなく、しかも一億円も上乗せするという想像以上の気前の良さに、度肝を抜かれたのである。
 しかし、すぐに気を取り直し、
「せやけど、単純に金を積めばええというもんではないからな。何しろ宗教の世界やからな、偏屈な奴もおるし、常人には考えられんプライドを持っている上人もおる。それに、人も見抜かにゃならんが、袖の下も慎重にせにゃならん。やり方を間違えると、これもまたとんでもないことになる。まあ、それがわしの腕の見せ所ではあるけどな」
 と己の存在価値を誇示した。
 あはは……と森岡は心の中で笑った。
 子供じみた谷川東良が可笑しくて仕方がなかった。もとより彼にすれば、谷川東良と手柄を競い合おうなどという気は毛頭なく、むしろ神村の役に立つ好機と純粋に喜んでいた。
 神村が、何事も無くすんなりと貫主の座に就けば、就任後の本妙寺の事業にいくら金を出しても、それなりの貢献でしかなかったであろう。他に出資者が現れればなおさらである。
 しかし、敗れれば捨て金となるやもしれぬ金など提供する者は皆無であろう。森岡は、そのリスキーな資金を提供することで、神村の力になっているという喜びを実感したいのである。彼は、もし自身の金の力で神村を貫主に押し上げることができれば、それこそ本望だと思っていた。
 彼はまた、神村の経歴に一つとして傷を付けたくないとも欲していた。神村には、ただひたすら真っ直ぐに、宗門の頂点を目指し王道を歩んで欲しいと願っていた。
 その神村を、こんなところで躓かせるわけにはいかなかった。そのためなら、彼はどんな泥でも被ろうと覚悟していた。汚く醜い仕事は、全て自分が引き受けようと腹を決めていたのである。
「よし。話が一段落したところで、さっさと料理を平らげてしまい、新地にでも行こうか」
 金の見通しが付いたからか、谷川東良は声高に言い、高級料理を口の中にかき込んだ。。
 とりあえず、東良が投票権を持つ各寺院の思惑を探る事と、今後は連絡を密にすることを決めて、話に切りを付けた。
 食事を終えた一行は、東良が馴染みとしている北新地の高級クラブ「ロンド」へ繰り出すことになった。
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