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決意の徒 第二章・蠢動(2)
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「先輩は、他人のことは千里眼でもご自身のこととなるとからっきしですね。いいですか、あの映画での存在感は目加戸家の御令嬢の比ではありません」
相良の指摘は的を射ていた。神村のことになると、という条件付きながら、同様のことを坂根好之からも言われたことがあった。
作品は悲恋物語だったので、坂根秀樹との恋愛真っ只中の目加戸瑠津より、不幸を絵に描いたような境遇にあった森岡の方が印象深かったのかもしれない。
「先輩には、まるでアイドルのようにファンクラブまで結成されたというではありませんか」
相良は目を輝かせて言った。
確かに、廊下などを歩いていると、ひそひそ話をする女生徒の視線を感じるようになった。
後年行われた同窓会で、誰かがそのようなことを言ったので、なるほどと得心した記憶があった。三年次には同級生だけでなく、下級生の間にも広まったほどだという。
「そのうち、良くも悪くも名物教諭だった藤波先生との交誼や、なぜか用務員と親しくなり、昼休み時間は用務員室でくつろいでおられたこと、親友である坂根先輩のために悪名を轟かせていた上級生と直談判して、屈服させたというではありませんか」
明日に希望が持てなかった森岡にしてみれば、ただ己の欲するままに淡々と生きていただけであったのだが、不良上級生だろうが名物教師だろうが、何者にも媚びない姿勢がクールに映っていたということらしい。反対に、森岡はどのような人物であろうと見下すこともなかった。
ここで相良の語調が変わった。
「ああ、あの用務員ですがね。後でわかったことですが、とんでもない人物でしたよ」
「やはりそうだったか」
「気づいていましたか」
「お互いに詳しい身上は黙っていたが、用務員にしては『気』が違ったな」
森岡は、幼少の頃より祖父洋吾郎の胡坐の上に座りながら、多くの要人と接していた。肌に感じる用務員の気は、彼らと同質かそれ以上だった記憶していた。
「誰だ」
「白仁田邦夫氏です」
「白仁田、どこかで聞いた名だな」
森岡は遠い記憶を辿った。そして三十年もの昔の若い面影が浮かんだ。
「唐橋大蔵氏の秘書だった人だな」
「名前だけでわかりましたか」
「いや、幼い頃何度か会っている。当時は思い出せなかったが、名前を聞いて記憶が重なった。
――なるほど、俺が灘屋の身内と知って良くして下さったのか。
詳しい身上は話していなかったが、名前から悟ったのだろうと思った。森岡は高校時代を想起し、何かと親身になってくれた厚情に心の中で手を合わせた。
唐橋大蔵は政権与党の重鎮だった。
森岡の祖父洋吾郎とは長年の盟友で、洋吾郎は島根半島界隈の票の取り纏めに尽力していた。だがトンネル工事の陳情に絡み、島根の首領である設楽幸右衛門基法の子飼いで、後に首相を務めた竹山中との板挟みに遭い、不本意ながら唐橋大蔵を引退に追い込む結果を招いていた。
白仁田邦夫は唐橋大蔵の政策秘書として辣腕を振るっていた切れ者秘書だった人物で、唐橋に随行して灘屋も訪れていたのである。
「何度か会っているですと……、さすがは島根半島界隈随一の名家ですね」
「そんなことまで知っていたのか」
はい、と相良は自慢げな笑みを浮かべた。
「しかし、大物政治家の秘書だった人物がどうして用務員などに」
「落ちぶれたのか、というのでしょう」
「いや、職業に貴賎は無いと思っているが、あまりに境遇が違い過ぎるだろう」
「唐橋大蔵氏が引退した後、しばらくは息子の大紀氏の秘書していたようですが、奥様が亡くなられたのを機に、余生は誰に気兼ねをすることもなく、ただのんびりと暮らしたいと思われたそうです」
なるほど、と森岡が呟いた。
「おそらく、ずいぶんと世の中の裏を垣間見て来られただろうから、素性を隠して生きたいという気持ちもわからなくはないな」
「当時の校長とは同級生で帝都大学でも一緒だったらしいので、無理が通ったのでしょう」
と、相良も同調すると、
「そして、極めつけはウイニットを起業し現在に至っている。納得して貰えましたか」
「世の中には物好きが多いというのはわかった」
森岡は素っ気なく言った。
「もっとも、私のような天真宗に関わる者にとってみれば、そのようなことは些末ですがね」
「何が言いたい」
「御前様や神村上人とお付き合いのある、いやお二人が懐刀と頼りにされる先輩は、憧れの的というより雲上人だということです」
そう言った相良は大きな溜息を吐いた。
「俺のことはもういい。それより、ずいぶんと話が横に逸れた。お前とはいつもそうだ」
森岡は自分で話を切り出しておきながら、悪態を吐いた。
「それで、北海道には何があるというのだ」
責めを押し付けられた相良は不服な顔をしながらも、
「人間国宝の北大路無楽斉氏がおられます」
「人間国宝だと、わからんなあ」
「あれえ、これもまた珍しい。先輩にしては勘が鈍いなあ」
相良は鬱憤を晴らすかの嘲笑した。
普段であれば立腹する森岡だが、どうも目の前の相良には調子を狂わされて怒る気にもならない。
――これもまた、一種の人徳なのだろう。案外、良い坊主になるかもしれない。
などと思いながら、
「参った」
と、森岡は軽く頭を下げて降参の意志を示した。
相良は得意げな顔で、
「瑞真寺がこちらの期待通りに動き出した節があります」
と小さく顎を引いた。
森岡の脳が激しく作動した。もし相良の推量どおり、瑞真寺の御本尊が国真寺に移っていたと仮定すると、瑞真寺が長年開帳を拒んできたのは御本尊が不在だからということになる。それが日本仏教会事務局から出展の要請があった途端、北大路無楽斉という人間国宝の名が出た。
「その人間国宝は仏師なのだな」
相良は答える代わりに不敵な笑みを返した。
「御本尊の偽物を作るなど、半信半疑だったが……」
森岡は何とも複雑な表情で言った。
「面白くなってきましたね、先輩」
相良が目を輝かせた。
「瑞真寺が仏像製作を依頼した証拠はあるのか」
「それを確かめに北海道へ誘ったのです」
「北大路氏に会えるのだな」
「すでに面会のお願いはしてあります。返事はまだですが、とりあえず行ってみませんか」
腕時計に目をやった森岡は、
「よし。ではこのまま大阪に引き返そう。夕方発の千歳空港行には間に合う」
と、相良の提案を即座に受け入れた。
相良の指摘は的を射ていた。神村のことになると、という条件付きながら、同様のことを坂根好之からも言われたことがあった。
作品は悲恋物語だったので、坂根秀樹との恋愛真っ只中の目加戸瑠津より、不幸を絵に描いたような境遇にあった森岡の方が印象深かったのかもしれない。
「先輩には、まるでアイドルのようにファンクラブまで結成されたというではありませんか」
相良は目を輝かせて言った。
確かに、廊下などを歩いていると、ひそひそ話をする女生徒の視線を感じるようになった。
後年行われた同窓会で、誰かがそのようなことを言ったので、なるほどと得心した記憶があった。三年次には同級生だけでなく、下級生の間にも広まったほどだという。
「そのうち、良くも悪くも名物教諭だった藤波先生との交誼や、なぜか用務員と親しくなり、昼休み時間は用務員室でくつろいでおられたこと、親友である坂根先輩のために悪名を轟かせていた上級生と直談判して、屈服させたというではありませんか」
明日に希望が持てなかった森岡にしてみれば、ただ己の欲するままに淡々と生きていただけであったのだが、不良上級生だろうが名物教師だろうが、何者にも媚びない姿勢がクールに映っていたということらしい。反対に、森岡はどのような人物であろうと見下すこともなかった。
ここで相良の語調が変わった。
「ああ、あの用務員ですがね。後でわかったことですが、とんでもない人物でしたよ」
「やはりそうだったか」
「気づいていましたか」
「お互いに詳しい身上は黙っていたが、用務員にしては『気』が違ったな」
森岡は、幼少の頃より祖父洋吾郎の胡坐の上に座りながら、多くの要人と接していた。肌に感じる用務員の気は、彼らと同質かそれ以上だった記憶していた。
「誰だ」
「白仁田邦夫氏です」
「白仁田、どこかで聞いた名だな」
森岡は遠い記憶を辿った。そして三十年もの昔の若い面影が浮かんだ。
「唐橋大蔵氏の秘書だった人だな」
「名前だけでわかりましたか」
「いや、幼い頃何度か会っている。当時は思い出せなかったが、名前を聞いて記憶が重なった。
――なるほど、俺が灘屋の身内と知って良くして下さったのか。
詳しい身上は話していなかったが、名前から悟ったのだろうと思った。森岡は高校時代を想起し、何かと親身になってくれた厚情に心の中で手を合わせた。
唐橋大蔵は政権与党の重鎮だった。
森岡の祖父洋吾郎とは長年の盟友で、洋吾郎は島根半島界隈の票の取り纏めに尽力していた。だがトンネル工事の陳情に絡み、島根の首領である設楽幸右衛門基法の子飼いで、後に首相を務めた竹山中との板挟みに遭い、不本意ながら唐橋大蔵を引退に追い込む結果を招いていた。
白仁田邦夫は唐橋大蔵の政策秘書として辣腕を振るっていた切れ者秘書だった人物で、唐橋に随行して灘屋も訪れていたのである。
「何度か会っているですと……、さすがは島根半島界隈随一の名家ですね」
「そんなことまで知っていたのか」
はい、と相良は自慢げな笑みを浮かべた。
「しかし、大物政治家の秘書だった人物がどうして用務員などに」
「落ちぶれたのか、というのでしょう」
「いや、職業に貴賎は無いと思っているが、あまりに境遇が違い過ぎるだろう」
「唐橋大蔵氏が引退した後、しばらくは息子の大紀氏の秘書していたようですが、奥様が亡くなられたのを機に、余生は誰に気兼ねをすることもなく、ただのんびりと暮らしたいと思われたそうです」
なるほど、と森岡が呟いた。
「おそらく、ずいぶんと世の中の裏を垣間見て来られただろうから、素性を隠して生きたいという気持ちもわからなくはないな」
「当時の校長とは同級生で帝都大学でも一緒だったらしいので、無理が通ったのでしょう」
と、相良も同調すると、
「そして、極めつけはウイニットを起業し現在に至っている。納得して貰えましたか」
「世の中には物好きが多いというのはわかった」
森岡は素っ気なく言った。
「もっとも、私のような天真宗に関わる者にとってみれば、そのようなことは些末ですがね」
「何が言いたい」
「御前様や神村上人とお付き合いのある、いやお二人が懐刀と頼りにされる先輩は、憧れの的というより雲上人だということです」
そう言った相良は大きな溜息を吐いた。
「俺のことはもういい。それより、ずいぶんと話が横に逸れた。お前とはいつもそうだ」
森岡は自分で話を切り出しておきながら、悪態を吐いた。
「それで、北海道には何があるというのだ」
責めを押し付けられた相良は不服な顔をしながらも、
「人間国宝の北大路無楽斉氏がおられます」
「人間国宝だと、わからんなあ」
「あれえ、これもまた珍しい。先輩にしては勘が鈍いなあ」
相良は鬱憤を晴らすかの嘲笑した。
普段であれば立腹する森岡だが、どうも目の前の相良には調子を狂わされて怒る気にもならない。
――これもまた、一種の人徳なのだろう。案外、良い坊主になるかもしれない。
などと思いながら、
「参った」
と、森岡は軽く頭を下げて降参の意志を示した。
相良は得意げな顔で、
「瑞真寺がこちらの期待通りに動き出した節があります」
と小さく顎を引いた。
森岡の脳が激しく作動した。もし相良の推量どおり、瑞真寺の御本尊が国真寺に移っていたと仮定すると、瑞真寺が長年開帳を拒んできたのは御本尊が不在だからということになる。それが日本仏教会事務局から出展の要請があった途端、北大路無楽斉という人間国宝の名が出た。
「その人間国宝は仏師なのだな」
相良は答える代わりに不敵な笑みを返した。
「御本尊の偽物を作るなど、半信半疑だったが……」
森岡は何とも複雑な表情で言った。
「面白くなってきましたね、先輩」
相良が目を輝かせた。
「瑞真寺が仏像製作を依頼した証拠はあるのか」
「それを確かめに北海道へ誘ったのです」
「北大路氏に会えるのだな」
「すでに面会のお願いはしてあります。返事はまだですが、とりあえず行ってみませんか」
腕時計に目をやった森岡は、
「よし。ではこのまま大阪に引き返そう。夕方発の千歳空港行には間に合う」
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