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本編第一章

継母の実家にお邪魔します4

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 そして、今である。

 サロンは応接室より一回り広い、モスグリーンの色で統一された瀟洒な部屋だった。広めの窓を背景に、黒いグランドピアノが鎮座している。周りには優雅な応接セットがあるところをみると、ここで親しい人を呼んでミニコンサートでも開いているのかもしれない。

 教授は部屋につくなり、壁際の本棚に向かった。何やらまさぐっていたかと思うと、棚から1冊の古びた楽譜を取り出した。それを私に手渡す。

「これであっているかね」
「はい」

 それは私が練習している楽譜だった。この世界では一般的な教本で、ピアノを習う人なら誰もが知っているものだ。

「なんでも好きなものを弾いてみなさい」
「……はい」

 ここまできてNOと言う勇気は私には持てない。大人しく楽譜をぱらぱらとめくる。何度も言うが、私のピアノの腕はたぶん普通だ。うまい子というのはこの年でも大人顔負けの演奏をする。前世で聞いた幼稚園児の演奏に度肝を抜かれた強烈な印象が頭を過ぎる。あの子くらいうまければ、こんな緊張する場面でも堂々としていられるのかもしれないが、私は残念ながらズブの素人。くそぅ、そもそもなんでチートとかつかなかったんだ。

 悔しく思いながら、なぜ教授は私に突然ピアノを弾けなんて言い出したのかと考える。そしてあっさり答えに行きついてしまった。要は私に文句がつけたいのかもしれない。プロになるほどではなかったが、ピアノを上手に弾きこなしていたという継母。その継母の足元にも及ばない私の実力を見て、「おまえは私の孫でもカトレアの娘でもない」と通牒を突き付けたいのかもしれない、と。

 それなら私ができることはひとつだ。堂々と下手な演奏を披露し、彼の思惑どおり馬鹿にされてやる。それでこの話は終わりだ。私がそのことを忘れて、継母に何も告げなければ、何もなかったことにできる。ただピアノはもう、弾きたくなくなるかもしれないけれど。

 そう思いながら私はひとつの曲を選んだ。継母が子どもの頃一番好きだったという軽快なワルツだ。運指もそれほど大変でないし、転調もないから弾きやすい。

 該当のページを開くと、黄ばんだ楽譜の中につたない文字を見つけた。「“くれっしぇんど”をだいじに!!!」と二重線まで引いてある。

 誰かが使っていたものなのだろうかとその文字を指でなぞっていると、楽譜に影が射した。見上げると大柄な教授の静かな茶色い瞳があった。

「カトレアが書いたものだな」
「え? おかあさまの字ってことは……これ、おかあさまの楽譜ですか!?」
「……あぁ」

 私は驚いてもう一度まじまじと楽譜を見た。継母は今43歳。彼女がこれを使っていたとすれば40年近く前のものということになる。

「あの、そんな大切なもの、お借りできません」

 教授ともなればいくらでも新しいものが手に入ったはず。それでもなおこの古びた楽譜を手元に置いていたということは、大切に保管していたからにほかならない。少なくとも赤の他人の私が手にとっていいものではない。

 だが教授は手近なソファに早々に腰掛け、静かにピアノを指差した。その指が物語ることは明白だ。

 私は自分の手が震えるのを感じた。この人に嫌われても仕方ない、そう思っていた。私の立場は、私の努力ではどうにも変えられない。

 だけどもし私のピアノの実力で何かが変わるなら……そんなことありえないのかもしれないけれど、もし、わずかでも教授の耳に届くものが出せたら。それで事態が少しでもいい方向に進むなら、私は今、最大限の努力をしたい。継母の楽譜を胸に抱きしめ、そう思った。

 ゆっくりとピアノに近づく。椅子を引いて腰掛ける。幸い椅子の高さはちょうどよかった。私の前に誰か子どもが弾いていたのだろうか。私の身長ではペダルに足はまだ届かない。この曲はペダルなしで弾ける曲だ。
 
 大きく息を吸い込んだ後、私はG音を勢いよく弾いた。





 で、どうなったかというとーーー。

 私の演奏を聞いた教授は曲が終わったあとも身動ぎひとつせず、不審に思った私が顔をあげると、その頬には感涙の跡がーーーなんて奇跡的な展開にはならず。

 ミスタッチもしっかり3回ほど詰め合わせたTHE素人お子ちゃま的な演奏が終わると、教授はすぐさま指導を開始した。

「まず最初のG音だが、そこはもう少し強くしていい。記号こそメゾフォルテだが、次の音がピアノになるということは強弱をしっかりという意味になる。メリハリをつけるように。やってみなさい」
「は、はい」

 文字通り、可もなく不可もなく“指導”だった。

「君は左の薬指がほかの指に比べて弱いようだね。心持ち強く押すよう意識した方がいい」
「わ、わかりました」
「毎日の運指の練習が大切だ。どの音も均一になるよう、注意しなさい。それから2ページ目だが……」

 下手くそと罵られることも、指をムチで打たれることもなく、ガチな指導が淡々と続き、何度目かの引き直しを命じられた頃。

「そろそろ終わりにしてはいかがです?」

 いささか呆れ気味の教授夫人のノックの音で、ピアノレッスンは幕を閉じた。

 



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