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 大学に着いた奈緒は、講義の前に飲み物を買おうと食堂の売店へと向かった。少し早めに晴翔の家を出たせいか、まだ前の時限の講義中で、食堂にもほとんど人の姿はない。
 飲み物を買って、時間潰しに図書館にでも行こうかと考えながら歩いていると、不意に聞き覚えのある声が耳に飛び込んできた。
 それは晴翔の友人たちの声で、恋人という立場上、奈緒も一応の面識がある。
 食堂の端、柱の向こうに彼らはいるらしい。
 どうやら晴翔はいないようなので、奈緒はそのままスルーして通り過ぎるつもりだった。
 だけどその時、友人のひとりが晴翔の名前を口にしたので、奈緒は思わず足を止めてしまった。

「晴翔、遅くね?」
「ナオちゃん迎えに行った。午後から大学来るはずだからって。過保護だよなー」
 いつもより早い時間に出たので、晴翔は奈緒を探しているかもしれない。余計な手間をかけさせて申し訳ない気持ちになって、晴翔に連絡をしようとスマホを探し、うっかり忘れてきてしまったことに気づく。出る直前まで充電をしていて、そのままだ。
 ひとり焦る奈緒をよそに、友人らの会話は続いている。

「ナオちゃんとは随分長続きしてるよなー。もう半年くらい?」
「そうかも。最初は今までの彼女とイメージ違ってビックリしたけど、あんだけ続くってことは相性いいんだろな」
「相性って言うとなんか響きがやらしいな」
「あぁ、そういうことね」
 笑みを含んだ声が、納得したように響く。この声の持ち主も、よく知っている。綺麗に巻かれた長い髪に、いつもしっかりとメイクをした、華やかな美人。彼女はきっと、晴翔のことが好きだ。遠回しに晴翔とは釣り合わないと言われたことも、一度や二度ではない。

「あたしさぁ、ずっと疑問だったんたよね。あの2人、本当に付き合ってるのかなって」
「え?」
「晴翔って、Sっ気あるじゃん。多分あの子とは性癖が合うんじゃない?ほら、あの子従順そうだし、Mっぽいよね」
「えぇー、性癖とか、そんな生々しいこと言うなよ」
「だって前に晴翔が、首輪とか手錠とか萌えるって言ってたもん。地味な子ほど実はエロいって言うじゃない。岩倉さんもそうなんじゃない?」
「いやいや、そういうのはやめようよ。うっかり想像しちゃったら気まずいじゃん」
 冗談やめろよーと笑う友人らの声に、彼女の声が重なる。

「あたし、なんで晴翔があんな地味な子と付き合ってるのか、ずっと疑問だったんだもん。多分あれ、セフレだよ。だって、2人でどこか行ったとか全然聞かないじゃない。クリスマスもお正月も晴翔、あの子と一緒にいなかったんだよ。普通、付き合ってたら絶対一緒にいる日でしょ。晴翔たち、そんな話全然しないよね」
 可愛らしい声が指摘するのは、晴翔と奈緒の本当の関係。彼女の言う通り、恋人たちなら共に過ごす日々を、奈緒たちは一緒に過ごしていない。奈緒のバイトが忙しかったこともあるし、そもそも本当に恋人同士でもないのにクリスマスを共に過ごす必要もないと思っていたから。
 だけど、少しくらいはアリバイ作りのために会っておけば良かったかもしれない。こんな些細なことで、2人の関係を暴かれることになるとは。
 奈緒は鞄を抱きかかえると、足音をたてないように気をつけながら、逃げるようにその場をあとにした。


 とても講義に出る気がしなくて、奈緒はそのまま帰宅した。晴翔の家ではない、古びたアパートへ。スマホを晴翔の家に置きっぱなしなのは気になるけど、取りに行く気にもなれない。
 きっと、晴翔の友人たちも、奈緒と晴翔の本当の関係に気づいただろう。
 そろそろ、潮時だろうか。奈緒はため息をついた。


 晴翔にも、晴翔の友人たちにも顔を合わせたくなくて、結局奈緒は大学をサボった。逃げていても何も変わらないことは分かっているけれど。
 それでもバイトは休めない。一人暮らしの生活費を稼ぐため、バイトは必須だ。


 バイトを終えて店の裏口から外に出たところで、見覚えのある影を見つけて奈緒は思わず足を止めた。
「奈緒」
「晴翔、くん」
 晴翔はどこかホッとしたような表情で、奈緒のスマホを差し出した。
「忘れてたから、届けに来た」
「あ、ありがとう……」
 通知を見ると、友人たちからメッセージがたくさん入っている。晴翔からの着信やメッセージも大量に入っていて、奈緒は戸惑って晴翔を見上げる。
「連絡つかないから、心配した」
「……ごめん」
 奈緒は思わず頭を下げる。そして、一度息を吸うと、顔を上げた。

「ねぇ、晴翔くん。もう、終わりにしよっか」
「……え?」
「晴翔くんには、私みたいな地味な子じゃなくて、もっと釣り合う人がいるよ」
「は?何で?俺、何かした?」
 晴翔は驚いたように奈緒の肩をつかむ。奈緒は笑って首を振った。
「ずっと思ってたんだ。晴翔くんと私、不釣り合いだなって。皆もそう思ってるの、晴翔くんだって知ってるでしょ?」
「はぁ?誰かに何か言われた?不釣り合いだなんて、誰が言ってるんだよ」
 不機嫌そうに言う晴翔。そんなにセフレを逃すのは惜しいだろうか。
「だって、どう考えてもそうじゃない」
 奈緒は少し強い口調でそう言って、晴翔を見上げる。普段、晴翔の言うことに反論することのない奈緒の語気の強さに、晴翔は戸惑った表情を浮かべた。

「……今日、晴翔くんのお友達が話してるの聞いちゃったんだ。私と晴翔くんの本当の関係、バレてた。だからもう、」
 自嘲めいた笑みを浮かべてそう言った時、奈緒の肩をつかむ晴翔の手に力が入った。少し痛みすら感じるその強さに、奈緒は思わず言葉を切る。

「本当の関係って何だよ」
 晴翔が低い声で唸るように問う。珍しく感情的な様子の晴翔に、奈緒も驚きを隠せない。
 奈緒は、なだめるように晴翔の手に自分の手を重ねた。奈緒の手の温もりを感じたのか、晴翔の手から力が抜けていく。それを確認して、奈緒は笑みを浮かべると晴翔を見上げた。

「……セフレだってこと。分かってても、やっぱり外から指摘されると刺さるね。だからもう、終わりにしよう。晴翔くんは素敵な人だから、ちゃんと説明したら恋人になる人だって分かってくれると思うよ。晴翔くん、意地悪だけど酷いことは一度もしなかったもん」
 分かっていても、自分で2人の関係を口にすると心がざわつく。だけどもう、決めたのだ。奈緒は晴翔のことが好きだけど、セフレに恋愛感情は禁物だ。近い将来、晴翔に本当の恋人ができて、彼の口から別れを切り出される前に、自分で終わらせたい。まわりにバレたのも、きっといいきっかけだった。

 奈緒は必死で笑顔を保つ。この関係は身体だけのドライなもので、お互いの欲を満たすだけのもの。だから、晴翔のことが好きな気持ちなんて、欠片も気づかれないように。
 なのに、晴翔は戸惑ったように瞬きを繰り返す。
「は、え、ちょっと待って。奈緒、何言ってるの?」
「え?」
 予想とは違う晴翔の反応に、奈緒も戸惑いの表情を浮かべる。この関係の終わりを告げたら、晴翔は笑って了承するか、もしかしたら恋人ができるまでは、とズルズルと関係の引き伸ばしを願われるかのどちらかだと思っていたから。
 頭の中でシミュレーションしていたやりとりとは違う晴翔の言葉に、奈緒もどうしていいか分からなくなる。

 晴翔は、気持ちを落ち着かせるように一度深呼吸をすると、奈緒の背に手を回した。
「とりあえずこっち来て。俺、車で来てるから。なんていうか、外でする話じゃないわ」
 晴翔の言葉に、奈緒もうなずく。セフレだなんて、あまり外で大っぴらに口にする言葉ではない。

 奈緒が車に乗り込むと、晴翔はシートベルトを締めるように無言でうながす。エンジンもかけていないのに、と疑問に思いつつもシートベルトをした瞬間、晴翔が覆いかぶさるようにして顔を近づけてくる。まるで噛みつくようなそのキスを、奈緒は戸惑いながらも受け入れる。晴翔には、何をされても奈緒の身体は拒むことができない。
 座っていても腰が砕けそうな濃厚なキスのあと、晴翔はようやく顔を離した。それでもまだ吐息のかかる距離で、晴翔は不機嫌そうな表情で奈緒を見る。

「で、奈緒はなんで意味わからないこと言い始めたわけ?セフレって何」
 晴翔の不機嫌の意味が分からず、奈緒は戸惑いながら慌てて口を開く。
「え、だって……。女の子を虐めたいって晴翔くんの趣味に、ちょうど私が当てはまったから……」
 その言葉に、晴翔は慌てたように奈緒の両肩をつかんだ。
「いやいやちょっと待って。確かに俺の趣味と奈緒の趣味が合致したっていうのはあるけど、恋人だって言ったじゃん。付き合おうって言って、奈緒もうなずいてくれたじゃん」
「だってそれって、晴翔くんが大学で他の女の子に声をかけられないためのカモフラージュでしょ」
「は?」
「え?」
 どうにも噛み合わない会話に、思わずお互い顔を見合わせて固まってしまう。
 晴翔は、困ったような顔でガシガシと頭をかくと、奈緒の顔をのぞきこんだ。

「俺、奈緒のこと好きなんだけど?」
「えっと……それは、身体だけじゃなく、て?」
 我ながら馬鹿みたいな質問だと思いつつ、奈緒が問うと、晴翔はがっくりとした様子でうなだれた。
「……マジか。え、じゃあ今までずっと奈緒はセフレだと思ってたってこと?」
「だって……エッチする日も決まってたし、外でデートとかしたことないし、そうなのかなって……」
 火曜日と週末。奈緒によほどの予定がない限り、続けられてきた2人の逢瀬。時々晴翔の家で映画を観たりすることもあったけど、どこかに行くこともなく、大抵はそのままベッドになだれ込むのが常で。セフレとはそういうものだと思っていたから、奈緒も特に不満を感じたことはなかったけれど。

「いや、それは奈緒のバイトとか大学の都合があって同じ曜日だっただけで、他の日は俺、我慢してたんだけど。翌日奈緒が朝から講義だって分かってるのに、無理させられないじゃん。デートにしたって、奈緒バイトで忙しいし、誘っても断られるし」
 そういえば、何度かバイトを休めないのかと聞かれたことがあったのを思い出す。奨学金で大学に通っている奈緒は、少しでも貯金を増やしたくて、体調不良やテスト期間以外で休みたくないと返答したような気がする。
 クリスマスも正月も、皆が休みたがる時こそ稼ぎどきだと、バイトに明け暮れていた。

 晴翔の言うことが本当なら、セフレだと思っていたのは奈緒だけだったということ。今更、自分が晴翔の恋人であるということを自覚して、頬が熱くなる。奈緒のことが好きだと言った晴翔の言葉を思い出して、身悶えしそうになる。

「で、でも外で会うときはなんていうか、距離があるというか……」
 もっとちゃんと確信が欲しくて、言葉を重ねる奈緒を見て、晴翔は困ったように笑った。
「だって奈緒、一度大学で手を繋ごうとしたら、嫌がったから。外であんまりベタベタしたくないのかなって。ベッドの上とのギャップがあって、それはそれでいいかなって思ってた」
 確かに、女除けとしての彼女だと思っていたから、大学での必要以上のスキンシップは控えていた。だからこそ奈緒は、唯一晴翔に抱きつけるベッドの上が好きだったのだけど。

 晴翔は、こつりと額を合わせて奈緒の顔をのぞきこむ。
「奈緒はセフレなんかじゃなくて、俺の恋人なんだけど?」
「……うん」
 勝手に勘違いしていた自分が恥ずかしくて、奈緒は晴翔と目を合わせられない。だけど、晴翔は奈緒の頬に手を当てて、顔をそらすことを許してくれない。

「ちゃんと分かった?奈緒はどうなの、俺のことどう思ってるの。身体目当てとか言われたら、本気で凹むんだけど」
 その言葉に、奈緒はゆっくりと晴翔と目を合わせた。
「好き……です」
「何が?俺の身体が?」
 分かっているはずなのに、奈緒にちゃんと言わせようとする晴翔は、やっぱり意地悪だ。
「違う……っ、晴翔くんが、好き!」
 思い切って、小さく叫ぶように想いを告げると、晴翔は笑って奈緒の身体を抱き寄せた。
「うん。……良かった」
 そう耳元で囁く晴翔の声が、すごく嬉しそうなのと、初めて晴翔の部屋以外で抱きしめられたことに気づいて、奈緒も嬉しくなる。

「俺さ、あの講演会の日よりずっと前から、奈緒のこと好きだったんだよ」
 奈緒を抱きしめたまま、晴翔は囁く。
「いつも前の方で真面目に講義受けてて、偉いなぁって。すごい姿勢良くて、いつも講義の時に奈緒の後ろ姿見てた。講義の時は真面目な表情なのに、友達と話してる時の笑顔が可愛くて、俺にも笑ってくれないかなって、ずっと思ってた」
 だから、と囁いて、晴翔は奈緒と目を合わせる。
「講演会の日、奈緒が1人で参加するって話してるのを聞いたから、チャンスだと思って駅で待ってたんだ」
「そう、なの?」
「うん。少しは仲良くなれるかなって期待してた。少しどころか、ホテル行っちゃったけどね。実は、絶対逃がさないって、必死だった」
 ふたりのきっかけになったあの日のことは、今思い出しても恥ずかしくてたまらない。
 うろうろと視線をさまよわせる奈緒に優しいキスを落として、晴翔は笑う。
「ベッドでのエロい奈緒も、真面目な奈緒も、バイト頑張る奈緒も、全部好き」
「うん。私も、晴翔くんのことが好き。優しいところも、意地悪なところも」
 奈緒の言葉に晴翔は笑ってうなずくと、今度は色気を滲ませた表情で軽く首をかしげる。

「というわけで、今夜はお仕置きだな。俺の愛を疑った罰だ。寝かさないから覚悟して」
「……っ」
 晴翔の口から飛び出した『お仕置き』という言葉。それだけで、奈緒の身体は疼き始める。
 そんな奈緒のことは、とっくにお見通しなのだろう、晴翔はくすくすと笑って奈緒の頭を撫でた。
「そんな顔されたらお仕置きにならないんだけどな。ま、いいや。そんなとこも可愛いから」
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