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暗雲 1
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ファテナに想いを告げてから、ザフィルは浮かれっぱなしだ。まだ直接的な言葉は彼女からもらっていないものの、表情にも仕草にもザフィルへの好意が滲み出ている。
ふんわりと柔らかな表情で笑いかけられるのはたまらなく幸せだし、優しい声で名前を呼ばれるのも嬉しい。寝台の上では更に甘さを増した声で、舌足らずにザフィルの名を呼ぶのが可愛くて、いつも少し意地悪に責め立ててしまうが。
愛しい人の身も心も手に入れて、幸せの絶頂にあるはずのザフィルだが、のんびりそれに浸っているばかりではいられない。
「やはり……井戸の水の出が悪いですね」
「水量が減ってるな。もう少し深く掘ってみるか」
「新たな水脈が見つかればいいんですが」
以前より汲み上げる水の量が減った井戸を見ながら、ザフィルはエフラと一緒にため息をつく。
今のところ他の井戸に異常はないが、雨の少ないこの地に住まう者にとって井戸は欠かせないものだ。地下の水脈が尽きたのなら、別の水脈を探さなければならない。
近くを流れる川も、ここ最近の日照りのために水量が減っている。水源を失うことは、命に直結する。場合によっては、この地を離れて水を求めて移動することも考えなければならない。
考え込みながら自室に戻ったところで、うしろでエフラも深いため息をついた。
「これでますます、ファテナさんの存在を公にするのは難しくなりましたね」
「どういうことだ」
ザフィルの問いに、エフラは険しい表情を浮かべる。
「彼女は水の精霊の愛し子。それを知られれば、精霊の力を使って井戸の水を戻すことを求められるかもしれません」
「それは……」
かつてファテナが家族の手によって精霊の餌として差し出されていたことを思い、ザフィルは唇を噛む。
元ウトリド族の者も、巫女姫が生きていると分かれば精霊の力を借りることを望むだろう。力の対価として、ファテナがその身を差し出してしていたことは一応説明しているが、どこまで彼らが理解しているか。
何よりファテナに執着を見せるあの水の精霊ならば、力の対価として彼女の魂を奪い、連れ去ってしまうに違いない。
ザフィルの表情を見て、エフラは問いかけるような視線を投げかけてきた。
「大勢の民と、たった一人の命。その両者を載せた天秤がどちらに傾くか……。ザフィル様なら、よく分かっているでしょう」
「俺に、ファテナを生贄として差し出せということか」
思わず語気を荒めて詰め寄ったザフィルに、エフラは表情を変えずに首を振る。
「いいえ。存在を知らなければ、いないのと同じです。だからこそ、彼女の存在は隠し通さなければならない」
「……水を得るよりも、たった一人の女を選ぼうとする俺は、愚かだろう。族長失格かもしれないな」
ザフィルは、自嘲めいた笑みを浮かべて自らの手のひらを見つめた。族長として民を守りたい気持ちはもちろんあるが、ファテナのことも手放せない。初めてずっとそばにいたいと願った人なのだ。
「本当に恋に溺れるような愚かな男ならば、民のことなど放って彼女のもとに入り浸るでしょう。だけどザフィル様はテミム族の民と愛する人、その両方を守ろうとしている。だからこそ僕は、あなたのためにファテナさんを守りたいと、そう思います」
「エフラ……」
「ファテナさんと過ごすようになってからよく眠れているようですしね、彼女はザフィル様の健康維持にも一役買っている。僕がどんなに言っても徹夜ばかりしていたのにと、ちょっと悔しくはありますけどね」
照れ隠しなのか、どこか拗ねたような口調でそう言って、エフラは横を向く。それでも彼がザフィルのことを思ってくれているのはよく分かっている。
「ありがとう、エフラ」
心からそう言うと、エフラは顔を背けたまま小さくうなずいた。
「ともかく、しばらく彼女のもとを訪ねるのは控えた方が良いのでは。あなたの弱味にもなり得る存在ですから」
「……そうだな。もう二度と、精霊とは関わらせたくない」
ため息混じりにうなずいたザフィルを見て、エフラも小さくうなずく。
「彼女には、詳しい事情は伏せるべきでしょう」
「分かってる。民のためなら、あいつは精霊に我が身を差し出すことも躊躇わないだろうからな」
そばにいると約束していても、いつかふっと姿を消してしまいそうな危うさがファテナにはある。
今まで以上に目を離さないようにしなければと、ザフィルは密かに決意をした。
「付近の水脈を調べましょう。新たな井戸を掘ることも検討した方が」
言いながら突然エフラが背後を振り返った。微かに緊張感を纏うその横顔に、ザフィルは眉を顰める。
「どうした、エフラ」
「いえ、気配を感じた気がして……。誰もいませんし、気のせいでしょう」
扉を開けて周囲を確認したエフラは、何でもないと首を振った。
「ひとまず水脈を探すことと並行して、水の使用を少し控えるよう呼びかけるか」
「わずかでも雨が降ってくれればいいんですけどね」
ため息をついてエフラが窓の外に視線を向ける。そこから見える空は、雨の気配など全く感じさせない真っ青な色をしている。
ふんわりと柔らかな表情で笑いかけられるのはたまらなく幸せだし、優しい声で名前を呼ばれるのも嬉しい。寝台の上では更に甘さを増した声で、舌足らずにザフィルの名を呼ぶのが可愛くて、いつも少し意地悪に責め立ててしまうが。
愛しい人の身も心も手に入れて、幸せの絶頂にあるはずのザフィルだが、のんびりそれに浸っているばかりではいられない。
「やはり……井戸の水の出が悪いですね」
「水量が減ってるな。もう少し深く掘ってみるか」
「新たな水脈が見つかればいいんですが」
以前より汲み上げる水の量が減った井戸を見ながら、ザフィルはエフラと一緒にため息をつく。
今のところ他の井戸に異常はないが、雨の少ないこの地に住まう者にとって井戸は欠かせないものだ。地下の水脈が尽きたのなら、別の水脈を探さなければならない。
近くを流れる川も、ここ最近の日照りのために水量が減っている。水源を失うことは、命に直結する。場合によっては、この地を離れて水を求めて移動することも考えなければならない。
考え込みながら自室に戻ったところで、うしろでエフラも深いため息をついた。
「これでますます、ファテナさんの存在を公にするのは難しくなりましたね」
「どういうことだ」
ザフィルの問いに、エフラは険しい表情を浮かべる。
「彼女は水の精霊の愛し子。それを知られれば、精霊の力を使って井戸の水を戻すことを求められるかもしれません」
「それは……」
かつてファテナが家族の手によって精霊の餌として差し出されていたことを思い、ザフィルは唇を噛む。
元ウトリド族の者も、巫女姫が生きていると分かれば精霊の力を借りることを望むだろう。力の対価として、ファテナがその身を差し出してしていたことは一応説明しているが、どこまで彼らが理解しているか。
何よりファテナに執着を見せるあの水の精霊ならば、力の対価として彼女の魂を奪い、連れ去ってしまうに違いない。
ザフィルの表情を見て、エフラは問いかけるような視線を投げかけてきた。
「大勢の民と、たった一人の命。その両者を載せた天秤がどちらに傾くか……。ザフィル様なら、よく分かっているでしょう」
「俺に、ファテナを生贄として差し出せということか」
思わず語気を荒めて詰め寄ったザフィルに、エフラは表情を変えずに首を振る。
「いいえ。存在を知らなければ、いないのと同じです。だからこそ、彼女の存在は隠し通さなければならない」
「……水を得るよりも、たった一人の女を選ぼうとする俺は、愚かだろう。族長失格かもしれないな」
ザフィルは、自嘲めいた笑みを浮かべて自らの手のひらを見つめた。族長として民を守りたい気持ちはもちろんあるが、ファテナのことも手放せない。初めてずっとそばにいたいと願った人なのだ。
「本当に恋に溺れるような愚かな男ならば、民のことなど放って彼女のもとに入り浸るでしょう。だけどザフィル様はテミム族の民と愛する人、その両方を守ろうとしている。だからこそ僕は、あなたのためにファテナさんを守りたいと、そう思います」
「エフラ……」
「ファテナさんと過ごすようになってからよく眠れているようですしね、彼女はザフィル様の健康維持にも一役買っている。僕がどんなに言っても徹夜ばかりしていたのにと、ちょっと悔しくはありますけどね」
照れ隠しなのか、どこか拗ねたような口調でそう言って、エフラは横を向く。それでも彼がザフィルのことを思ってくれているのはよく分かっている。
「ありがとう、エフラ」
心からそう言うと、エフラは顔を背けたまま小さくうなずいた。
「ともかく、しばらく彼女のもとを訪ねるのは控えた方が良いのでは。あなたの弱味にもなり得る存在ですから」
「……そうだな。もう二度と、精霊とは関わらせたくない」
ため息混じりにうなずいたザフィルを見て、エフラも小さくうなずく。
「彼女には、詳しい事情は伏せるべきでしょう」
「分かってる。民のためなら、あいつは精霊に我が身を差し出すことも躊躇わないだろうからな」
そばにいると約束していても、いつかふっと姿を消してしまいそうな危うさがファテナにはある。
今まで以上に目を離さないようにしなければと、ザフィルは密かに決意をした。
「付近の水脈を調べましょう。新たな井戸を掘ることも検討した方が」
言いながら突然エフラが背後を振り返った。微かに緊張感を纏うその横顔に、ザフィルは眉を顰める。
「どうした、エフラ」
「いえ、気配を感じた気がして……。誰もいませんし、気のせいでしょう」
扉を開けて周囲を確認したエフラは、何でもないと首を振った。
「ひとまず水脈を探すことと並行して、水の使用を少し控えるよう呼びかけるか」
「わずかでも雨が降ってくれればいいんですけどね」
ため息をついてエフラが窓の外に視線を向ける。そこから見える空は、雨の気配など全く感じさせない真っ青な色をしている。
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