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一章・突然の別れと求婚

――1

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 三畳くらいの狭い応接室。年季の入った二人がけの小さなソファーとソファーの間には小さなローテーブル。いかにも町の小さな工場の応接室に高梨印刷の社長、高梨浩(たかなし ひろし)と娘である高梨穂乃果(たかなし ほのか)は取引先の林田次郎(はやしだ じろう)と向き合って座っていた。


「ほ、穂乃果さん。ぼ、僕と結婚を前提に付き合ってほしいんだな」


 ゲヘヘと照れ笑う次郎はべっとりと舐めるような視線で穂乃果を見つめている。
「そんな、次郎さんはとても素敵な方ですから私なんかより素敵な女性がお似合いですよ」


 穂乃果は次郎の気味悪い視線に吐き気を耐えながらも当たり障りのない定型文のような返事を次郎に返した。これ
以上何も言うな、と念を込めて優しく微笑む。


「そ、そんなことないんだな。僕には穂乃果さんみたいな可憐で綺麗な人が似合ってるんだな。返事は待つんだな」


 うわ……自分でそんなこと言う?


 大きな溜息が出そうになるのをぐっと飲み込んんだ。


「林田様、今はお付き合いとかは考えていないんです。会社のことで頭がいっぱいなので」


 これまた定型文で返事を返した。


 穂乃果は自分のことは綺麗な人だとは全く思っていない。一つに括った長い黒髪も美容院に行く暇がなくて伸ばしているだけで、化粧も穂乃果の母に良く似た飴玉のような丸い瞳にアイラインを少し引くだけだ。


 そんな飾り気のない自分を綺麗と言ってくれるのは正直嬉しいが嬉しいだけで恋愛に発展するはずがなかった。


「では林田様、印刷でき次第納品させていただきます」


 父親が何か言いだしそうな林田の言葉を遮るように頭を下げた。


「……わかったのだ」


 口をへの字に曲げた林田はのそっと立ち上がり印刷所を出て行った。


 林田の背中を見送り、姿が見えなくなると疲れの籠った深い溜息が出る。失礼だけど、本当に気持ち悪かった。


 暑くも寒くもない丁度いい秋の気候なのに額には脂汗が浮いていて、豚(これまた失礼)みたいにハァハァと息が荒かった。舐めるような視線も、とにかく全部が穂乃果には生理的に無理だったのだ。付き合うなんてとんでもない。


「ごめんな穂乃果。父さん前から林田様に穂乃果を紹介してくれって言われててな。誤魔化し続けてたんだけど、ついに穂乃果本人に言うなんてなぁ。まぁ人を好きになる気持ちは悪いことじゃないけどな」


「そうだったんだ。前からなんか異様に見られているような気はしてたけど、まぁ私が丁寧にお断りすればいいだけの話しだから気にしなくて大丈夫よ、お父さん」


「穂乃果がいつか惚れるいい男が現れるまで父さん長生きしなきゃなぁ」


 父親は冗談交じりに笑った。


「なに言ってるのよ。ほら仕事、仕事」


 そんな父の背中をポンっと押して、お互い仕事に戻る。


 父が言うように穂乃果には恋人はいない。今はいない、とかではなく年齢=恋人がいない歴だ。好きになった人ははるか昔いたような、いなかったような、もう思い出せないほど。


 ……恋、かぁ。


 穂乃果が十六歳、恋に青春に真っ盛りの時に母が亡くなった。四十歳の高齢出産、二ヶ月も早く陣痛がきてしまい予定日よりもかなり早めの出産になった。高リスクな出産のさいにお腹の中の子も母体も命危険状態になったらしい。


 自分の死に直面しながらも母は赤ちゃんを助けてくださいと力が振り絞れる最後まで口にしていたと父は言っていた。赤ちゃんが産まれ母体は多量出血、胎盤早期剥離が原因で手術は間に合わず母はこの世に新しい命を産んで去っていったのだ。


 沢山泣いた。泣いて、泣いて、涙を枯らして、泣くのをやめた。母が命をかけて産んだ妹の桃果(ももか)を守らなくちゃ。残された父を支えなきゃ。穂乃果は責任感が人一倍強かった。だから穂乃果はもう泣くのをやめた。泣くことをやめて、家族を守ると十六の少女ながらに胸に誓ったのだ。


「さてと、頑張りますか」


 穂乃果はデスクに座り、画面が落ちていて黒い画面に自分の顔が薄っすら映る。


 この顔のどこがいいんだか……。


 自分の頬を触って画面とにらめっこした後、マウスに触れてパソコンを起動させる。


 今は、自分たちの事で精一杯なのよ……。


 不幸とは続くもので母が亡くなった後、桃果の心臓に病気があることが分かったのだ。入退院をくり返しながら、今は安静が第一とのことで桃果はずっと入院をしている。


 勉強に、妹の面倒、家事に会社の手伝い。とてもじゃないけれど穂乃果の青春時代には恋をするような時間が圧倒的に無かったのだ。あっという間に時は過ぎて行った。


 でも、いつかは……。


 恋をしてみたい。今すぐには無理だろうけれど、好きな人と結婚してこの会社を継いで、なんて二十六歳にもなって幸せな未来の夢を見てしまっている。


 いつか心がギュッと苦しくなるくらい人を好きになって、恋をして、愛する人と結婚したい。


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