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 病院の外を出ると道路を打ち付けるような雨が降っていた。
「わ、凄い雨ですね。車持ってきますから、菜那さんはここで待っていてください」
「そんな、このくらいの雨へっちゃらです。一緒に行きます」
「じゃあ、こちらに来てください」
 蒼司は菜那の肩を抱き寄せ、自分の着ていたコートを脱いだ。雨が避けられるように菜那にコートを羽織らせる。
「え、これじゃ宇賀谷様が濡れてしまいますっ。私はほら、ダウンなんで中まで濡れることはありませんから」
「あ、違いますよ? 名前で呼んでくださいって言いましたよね?」
「あっ、それは……」
 そうだけど。
「も、もう病室じゃないので戻してもいいですか?」
「ちゃんと最後まで設定を守らないと、誰か見ているかもしれませんよ?」
 う……確かに。
「そうですよね、名前……分かりました」
 じぃっと顔を覗き込まれ、菜那の顔にハテナマークが浮かぶ。
「あの、どうしました?」
「名前、呼んでくださいませんか?」
「え、今ですか?」
「はい。今です」
 小さく笑う笑みに少し意地悪な瞳に目を奪われる。名前を呼ばれるのを嬉しそうに待たれてしまっては言わざるを負えない。けれどどうしても恥ずかしさが募り、菜那は口を小さく開いた。
「そ、蒼司さん」
「……最高に嬉しいです。さぁ、車まで走りますよ」
「えっ、あっ、はい!」
 肩を寄せ合い、一緒に駆け出した。パチャパチャと足元で水音が楽しそうに鳴る。
 雨の日がこんなに楽しいなんて知らなかった。雨の日は正直あまりいい思い出がないから。
 蒼司のコートを傘代わりにして、寄り添う肩がぶつかるたびにドキっと心臓も跳ねる。服の厚みがあるはずなのに蒼司に触れるだけで心が喜んだ。
「あ~、結構濡れちゃいましたね。菜那さん冷たくないですか?」
 菜那はほんの少し肩が濡れただけ。運転席に座っている蒼司の方が背中の方まで濡れている。
「私は全然っ! 蒼司さんのほうが濡れてしまって、なんか色々……申し訳ございませんでした」
「そんなに謝ることじゃないですよ。気にしないでください」
「で、でも、その他にも……母の前で、その、恋人のふりをしてもらってしまって……」
 椅子に腰を下ろして一段落すると色々と恥ずかしい場面が蘇ってくる。母親のためだとはいえ蒼司に恋人の振りをしてもらったこと、蒼司の言葉一つ一つ、それが嬉しかったこと。 
 うつむく菜那に蒼司は「ああ」と思い出したように笑った。
「菜那さん、こっちを向いてください」
「はい……」
 ゆっくり蒼司の方を向く。明るい声色だったと思ったけれど、目が合った蒼司は笑ってなんかいなかった。とても真剣な顔をしている。いつもこの瞳に吸い込まれそうになるのだ。
「お母さんの前で急に恋人の振りをしてしまってすいませんでした。でも、そのまま俺の事を利用してくれてもいいとも思いました」
「え? 利用、ですか……?」
「ええ。俺は何度も言っている通り貴女が好きです。しっかりしてそうで、うっかりしているところも。何に対しても一生懸命で、優しくて、そして弱いところも全部好きです。俺と結婚してくれませんか?」
 ……利用して、結婚?
「宇賀谷様を利用して結婚って……どういうことですか? ごめんなさい、私頭が悪くてっ」
 動揺のあまり口元を触ったり、頬を触ったりどうも気持ちが落ち着かない。
「今日、菜那さんのお母様の前で恋人の振りをしたとき、不謹慎ですけど凄く嬉しかったんです。お母様の喜んでいらっしゃる顔を見て、照れている菜那さんの顔を見られて。菜那さんの偽の恋人になれるだけでもこんなに嬉しいんです。でもその喜びを知ってしまうと人間というのは欲張りで、もっと欲しくなってしまうんですよ」
 挙動不審に動く手を蒼司は優しく掴んだ。
「菜那さんの気持ちを待つって言っていたのにすみません。でも、我慢できないくらい早く貴女が欲しいんです。それに……自惚れかもしれないけれど菜那さんもきっと俺と同じ気持ちなんじゃないかと思ってしまうことが何度もあるんです」
「っ……」
 ぐっと引き寄せられ、喋れば吐息が擽る距離や、車に打ち付ける雨の音がやたら大きく、鮮明に聞こえた。
「もう、待てない」
 身体の芯まで届く力強い声に心臓が破裂しそうだ。
「あっ……んんっ……」
 頭を掻き抱かれ唇が重なった。唇を吸われ、凄く求められていることが伝わってくる。何もない平凡な自分をこんなにも感情を高ぶらせてぶつけてくれることが嬉しい。
 それに図星だった。本当は母親の前で恋人の振りをしたとき、不謹慎と分かっているのに自分も嬉しかった。返事をのばしているくせして、もう答えは最初から決まっていたのかもしれない。ただ、ほんの少しの勇気が出せなかっただけ。口の中に割り入ってくる舌を受け入れ自ら絡みついた。
 ――貴方が好きです。
 この気持ちを乗せて無我夢中で蒼司の背中に腕を回した。狭い車内、運転席と助手席の間を隔てるボックスがこんなにも邪魔だと思ったのは初めてだ。もっと、もっと彼に求められたい、求めたい。もっと貴方の事が深く知りたい。
 ゆっくりと離れていく熱さが名残惜しかった。だから、もう一度自分からキスをした。キスをする直前、目を閉じるとき、蒼司の顔が驚いていたような気がする。自分からするのは唇を重ねるだけで精一杯だった。でも、はっきりと気持ちを伝えたい。菜那はしっかりと蒼司の瞳を見た。
「結婚したいです。……宇賀、蒼司さんと、わ、私でよければ、なんですけど」
「……あ~、こんなの反則だ」
「え? 雨の音でよく聞こえなかっ……あっ……」
 抱きしめられ、耳元で蒼司の嬉しそうな声が鼓膜に響いた。
「菜那さんじゃなきゃ嫌なんですよ」
 嬉しすぎて声も出なかった。
 何かを失うことは怖い事だけれど、こうしてまた恋が出来たことがこんなにも嬉しいなんて。菜那は背中に回した手にぎゅっと力を込めて、抱きしめ返した。
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