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ーーー蒼司side

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 はぁ、と深いため息をつきながらソファーに腰を下ろした。右手でぐしゃぐしゃと髪を掻き、また、ため息が漏れる。
「やっちゃったかな……」
 泣いている彼女が愛おしすぎて我慢していたはずなのに、キスしていた。
「いや、拒まれてない……けど帰られてしまった」
 突然のキスに驚いたのか菜那は逃げるようにして部屋を出て行った。やっぱり嫌だったのかもしれない。少し自分の気持ちを押し付けすぎてしまったかもと反省した。
 でも……。
 やっぱり好きだ。
 たいして彼女のことを知りもしないくせに、好きだ、なんて言ったらきっと説得性に欠けるだろう。そう思い菜那との接点を作りたくて家事代行を頼んだ。仕事として招いたはずなのに、彼女が自分の家の中にいると思うと浮足立ってしまって、気持ちを落ち着かせるのに必死だった。
「片すか」
 蒼司はソファーから立ち上がり、キッチンへ向かった。シンクには自分が食べ終えたハンバーグの皿が残っている。汚れているのはその皿だけで、大して使っていなかったキッチンは元から余り汚れてはいなかったが、更にピカピカに掃除されていた。
「綺麗だな……」
 シンクに手を当てて、今日のことを思い返す。まるで今日はデートしているような気持になってしまった。だから自分の気持ちがつい行動となって出てしまったのかもしれない。彼女が家にいて、距離はあるものの買い物も一緒に行ったから。
 皿に水を流しながらぼーっと眺める。
『わ……運転手さんは大丈夫だったのかな……?』
 彼女を見かけた時、菜那は雪で滑った事故現場を見て悲しそうな顔で運転手の心配をしていた。
 建築中の自分が設計したホテルの進歩状況を確認しに行った帰り道。歩いているとアイディアが浮かぶことが多い蒼司は現場からタクシーで帰り途中で降りて歩いていた。ただ前を歩いていた女性。人の心配をしているくせに自分はなんだか危なっかしい。何度か凍結した地面に滑っていたが、ついに盛大に足を滑らせて後ろに身体が倒れ掛かった。
 危ない、そう思ったよりも早く自分の身体が動き彼女を抱きとめていた。
『す、すいません! 助けてもらってしまって! 助かりましたっ』
 しばらく自分の腕の中で何が起きたのか分かっていないような顔でフリーズしていたのに、とたんに耳まで真っ赤にして慌てだしたのだ。
 可愛い。率直にそう思った。
 大きな瞳、自分の腕の中にすっぽりと収まってしまう小さな身体は折れそうなほど細かった。表情も豊かでずっと見ていたいと思うほど。
 けれどその日はクライアントとの打ち合わせも入っており、長居はできずその場を離れてしまったがそのことを後からどれだけ後悔したことか。名前を聞いておけばよかった、連絡先を聞けばよかったと。
 実は彼女を見かけるのはこの日が初めてではなかった。同じ道で何度か見かけていたのだ。盗み聞きではないけれど、菜那が電話をしながら歩いていて、声がとても優しくて穏やかだったことが印象的に残っている。歩いている時もそう、前から人が来て明らかに相手が避ける場合でも彼女は自ら避け、相手の邪魔にならないよう気を配っていた。いつもすぐに自分の目に映る存在だったのだ。
 初めて接触して、近くで顔を見て、声を聞いて、気になる存在から一瞬で恋に落ちた。
 翌日、彼女の事ばかりを考えてしまい、仕事のアイディアが全く浮かんでこないので雨だけれど散歩をすることにした。
「まさかすぐに会えるなんてな……」
 思い出して、蒼司はボソリと呟く。
 泣きながら、雨に濡れてびしょ濡れになっている菜那を見つけた時は本当に驚いた。そして思わず抱きしめていた。震えながら泣く彼女をそばで守りたいと。
 どうして泣いているんだろう。彼女を泣かしたのは一体誰なんだ。
 そう思ったが出会ったばかりの男に話すはずがない。今自分に出来ることは彼女に優しくすることぐらいだった。
 抱きしめている彼女の鞄から黄色のエプロンらしきものが見えていた。名札まで見えてしまっていて、カジハンド 堀川菜那と記されていた。不謹慎にもようやく名前が知れたと思ってしまった。
 そのおかげで自分は菜那としっかりとした接点を作ることができたのだ。
「もっと積極的にアピールしないと駄目か」
 多分、菜那は鈍感だ。なんとも思ってもいない女性をこう何度も抱きしめるはずがないのに。ましてやキスなんて好きな人の唇にしか触れたくない。
 蒼司はキュッと水を止め、スマートフォンを取りにソファーに戻った。カジハンドのホームページを開き、また予約を取る。もちろん堀川菜那指名で。
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