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聖約者からの伝言
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江東区南沙にある共栄教会の信者男性の独身寮の食堂。
食堂であると同時に入寮者たちの集会の場所にもなっている場所で岡崎正英、高木泰助、立花聡ら男たちだけではなく、近くの女子寮から来た西宮繭、坂尾真奈美らが厳しい顔で一人の男を囲んでいる。
一昨日代々木上原駅で女性専用車両に火炎瓶を投げ込んで多くの女性を焼き殺す放火事件を起こした藤倉春樹だ。
彼は事件の日に一日中無我夢中で都内を走り周って潜伏し、電車を乗り継いで昨晩駆け込んできたのである。
彼にはここしか居場所はなかった。
「藤倉さん!アンタ何てことしたんだよ!」
10歳以上年下だが教会でも寮でも先輩の高木が怒鳴る。
火炎瓶は彼が用意していた。
本来ならばこれは別のターゲット、人材会社社長の自宅に対して用いられるはずだったのだ。
「女たちが悪いんだ。ずっとオレをコケにして、ゴミみたいな目で見てきやがったから…」藤倉は高木の目を見ずうつむき加減に答える。
「電車の人たちは関係ないじゃん!!何人死んだか分かってんの?」「逆恨みだよ!人殺し!!!」「教会にどれだけ迷惑かけるか分かってんのかよ!!」「お前なんか家族じゃないし兄弟でもない!!」同性を大量に殺した藤倉の身勝手な言い分に繭たち女性陣が怒号を上げる。
「岡崎さん、オレどうしよう」藤倉は女たちを無視して自分より少し年上の岡崎に縋りつくような目をした。
「自首するんだ。自分のやったことの責任をとれ」岡崎は毅然とした態度で入信以来短い間だったが色々面倒を見てやってきた男に言う。
社会ではダメ人間だった40過ぎの岡崎はこの寮の中ではリーダー的存在で、少し年下で同じく人生の落後者の藤倉に何かシンパシーを感じていたらしい。
「俺が一緒に行ってやる」と最後まで付き添ってやる姿勢を見せる。
だが、藤倉を自首させるという指令は本部から直接来たものだ。
高木が自分たちの所属組織のトップである「絆ネットワーク」の桝に連絡して本部に知らせたのだろうが、いつもなら直属のボスである桝か金あたりが横柄な口調で命令してくるはずなのにそれを飛び越して自分のところに連絡が来たのは奇妙だった。
そして彼らから連絡がないのも。
その頃、韓国の金浦国際空港のVIPラウンジは、静寂と優雅さに包まれていた。
朝の空気は澄んでいたが、空港の賑わいから切り離されたこの空間はまるで時間が止まったかのように感じられる。
教会の最高指導者で「聖約者」のイ・リキョンはソファに背筋を伸ばして座っていた。
四十代になった彼の長髪はきっちりと後ろで束ねられ、その姿はどこか彫刻のような高貴さを漂わせ、高級そうなスーツに包まれた長身で骨太の体格はその場にいる誰もが見逃すことのない威圧感を放っていたが、表情はぞっとするほど冷たく、他人を寄せつけない空気をまとっている。
同道して帰国することになった日本支部長の池田和康はその威圧感にすっかり飲み込まれた様子でイ・リキョンの隣に立っていた。
池田は同じく40代で180センチの長身だからイより若干小さいくらいなのにずっと小さく見え、神経質そうに目をしきりに動かす。
イに従う姿勢は明らかに下手どころではなく、恐縮した表情が隠せない。
「聖約者様、出発のお時間が近づいております」と池田が慎重に告げると、リキョンはわずかに眉を動かした。
「日本での準備は整っているか?」
リキョンの低く響く声が、冷たい氷の刃のように池田に突き刺さった。
池田は背筋を伸ばし、「はい、全て手配済みです」と急いで応じる。
リキョンはその答えに特に興味を示す様子もなく、立ち上がり、ラウンジの扉へと向かった。池田は小走りでついていく。
搭乗口へと向かう二人の姿は対照的だった。
イ・リキョンは悠然と歩き、周囲の視線を無視していたが、池田は周囲を気にしながら必死に教祖の後ろを追いかける。
座席も対照的でイはファーストクラスで、日本からはビジネスクラスで来た池田はエコノミーをわざわざあてがわれた。
最初に機内に案内されるのはファーストクラスの客で、エコノミーの客は待たされる。
機内に向かう途中、イ・リキョンは池田を呼んだ。
「ハイ。何でしょうか?」と恐縮して近づいた池田にイが語ったのは、出頭する藤倉に伝える伝言。
それは韓国語を母国語としない池田が効き間違えたのではないか?と思うものだった。
出頭させるために向かう最寄りの警察署である城東警察署への道中、よろよろ歩く藤倉と並んで岡崎が付き添っていた。
前後を藤倉が逃げないように立花と高木が歩いている。
本来人材派遣会社の社長宅を襲撃するはずだったことを口止めするのはもちろん、火炎瓶も自分で作ったことにして、その材料の入手先などについて口裏合わせすることも忘れない。
「何かお前は俺と似てんだよ。だから俺はお前と一緒にずっとやっていきたかったのに、なんでこんなこと…」
そう語る岡崎に藤倉は言葉がない。
城東警察署の近くまで来た時、コンビニを見つけた岡崎は藤倉や他の人間を待たせて中に入った。
岡崎は発泡酒を四本買って外に出てきて、三本を藤倉を含めた他の人間に渡して「最後に乾杯しよう、兄弟」と語りかけた。
岡崎の手から発泡酒の缶を受け取った藤倉は、視線を落としながら涙ぐんだ。
彼の肩は小刻みに震え、その心の中で混ざり合う後悔と恐怖がこぼれ出す。
岡崎は藤倉の様子をじっと見て、深いため息をつく。
「お前はもう、戻れない道を選んじまったんだな……」
その時、岡崎の携帯が突然震えた。
画面を確認すると、本部からの着信が表示されている。
慌てて電話を取って対応した岡崎は、「ハイ!今警察署の前です。もうすぐ出頭させます。え?ハイ、ハイ…、ハイ?ええ、分かりました」という反応を見せて電話が切れた様子だった。
それは出頭してもう戻ってくることはない藤倉への聖約者であるイ・リキョンからのことづけだった。
岡崎はその驚愕を隠すように一瞬口を結び、再び藤倉に向き直り、「兄弟、聖約者様から伝言だ」と言葉を選びながら告げる。
「いつか生きて助け出すから待っていろ、わが子よ」
藤倉はその言葉に思わず目を見開き、驚きに息を呑む。
その言葉は、まるで希望と呪縛が入り混じったように彼の心に突き刺さり、涙が止まらなくなっていた。
食堂であると同時に入寮者たちの集会の場所にもなっている場所で岡崎正英、高木泰助、立花聡ら男たちだけではなく、近くの女子寮から来た西宮繭、坂尾真奈美らが厳しい顔で一人の男を囲んでいる。
一昨日代々木上原駅で女性専用車両に火炎瓶を投げ込んで多くの女性を焼き殺す放火事件を起こした藤倉春樹だ。
彼は事件の日に一日中無我夢中で都内を走り周って潜伏し、電車を乗り継いで昨晩駆け込んできたのである。
彼にはここしか居場所はなかった。
「藤倉さん!アンタ何てことしたんだよ!」
10歳以上年下だが教会でも寮でも先輩の高木が怒鳴る。
火炎瓶は彼が用意していた。
本来ならばこれは別のターゲット、人材会社社長の自宅に対して用いられるはずだったのだ。
「女たちが悪いんだ。ずっとオレをコケにして、ゴミみたいな目で見てきやがったから…」藤倉は高木の目を見ずうつむき加減に答える。
「電車の人たちは関係ないじゃん!!何人死んだか分かってんの?」「逆恨みだよ!人殺し!!!」「教会にどれだけ迷惑かけるか分かってんのかよ!!」「お前なんか家族じゃないし兄弟でもない!!」同性を大量に殺した藤倉の身勝手な言い分に繭たち女性陣が怒号を上げる。
「岡崎さん、オレどうしよう」藤倉は女たちを無視して自分より少し年上の岡崎に縋りつくような目をした。
「自首するんだ。自分のやったことの責任をとれ」岡崎は毅然とした態度で入信以来短い間だったが色々面倒を見てやってきた男に言う。
社会ではダメ人間だった40過ぎの岡崎はこの寮の中ではリーダー的存在で、少し年下で同じく人生の落後者の藤倉に何かシンパシーを感じていたらしい。
「俺が一緒に行ってやる」と最後まで付き添ってやる姿勢を見せる。
だが、藤倉を自首させるという指令は本部から直接来たものだ。
高木が自分たちの所属組織のトップである「絆ネットワーク」の桝に連絡して本部に知らせたのだろうが、いつもなら直属のボスである桝か金あたりが横柄な口調で命令してくるはずなのにそれを飛び越して自分のところに連絡が来たのは奇妙だった。
そして彼らから連絡がないのも。
その頃、韓国の金浦国際空港のVIPラウンジは、静寂と優雅さに包まれていた。
朝の空気は澄んでいたが、空港の賑わいから切り離されたこの空間はまるで時間が止まったかのように感じられる。
教会の最高指導者で「聖約者」のイ・リキョンはソファに背筋を伸ばして座っていた。
四十代になった彼の長髪はきっちりと後ろで束ねられ、その姿はどこか彫刻のような高貴さを漂わせ、高級そうなスーツに包まれた長身で骨太の体格はその場にいる誰もが見逃すことのない威圧感を放っていたが、表情はぞっとするほど冷たく、他人を寄せつけない空気をまとっている。
同道して帰国することになった日本支部長の池田和康はその威圧感にすっかり飲み込まれた様子でイ・リキョンの隣に立っていた。
池田は同じく40代で180センチの長身だからイより若干小さいくらいなのにずっと小さく見え、神経質そうに目をしきりに動かす。
イに従う姿勢は明らかに下手どころではなく、恐縮した表情が隠せない。
「聖約者様、出発のお時間が近づいております」と池田が慎重に告げると、リキョンはわずかに眉を動かした。
「日本での準備は整っているか?」
リキョンの低く響く声が、冷たい氷の刃のように池田に突き刺さった。
池田は背筋を伸ばし、「はい、全て手配済みです」と急いで応じる。
リキョンはその答えに特に興味を示す様子もなく、立ち上がり、ラウンジの扉へと向かった。池田は小走りでついていく。
搭乗口へと向かう二人の姿は対照的だった。
イ・リキョンは悠然と歩き、周囲の視線を無視していたが、池田は周囲を気にしながら必死に教祖の後ろを追いかける。
座席も対照的でイはファーストクラスで、日本からはビジネスクラスで来た池田はエコノミーをわざわざあてがわれた。
最初に機内に案内されるのはファーストクラスの客で、エコノミーの客は待たされる。
機内に向かう途中、イ・リキョンは池田を呼んだ。
「ハイ。何でしょうか?」と恐縮して近づいた池田にイが語ったのは、出頭する藤倉に伝える伝言。
それは韓国語を母国語としない池田が効き間違えたのではないか?と思うものだった。
出頭させるために向かう最寄りの警察署である城東警察署への道中、よろよろ歩く藤倉と並んで岡崎が付き添っていた。
前後を藤倉が逃げないように立花と高木が歩いている。
本来人材派遣会社の社長宅を襲撃するはずだったことを口止めするのはもちろん、火炎瓶も自分で作ったことにして、その材料の入手先などについて口裏合わせすることも忘れない。
「何かお前は俺と似てんだよ。だから俺はお前と一緒にずっとやっていきたかったのに、なんでこんなこと…」
そう語る岡崎に藤倉は言葉がない。
城東警察署の近くまで来た時、コンビニを見つけた岡崎は藤倉や他の人間を待たせて中に入った。
岡崎は発泡酒を四本買って外に出てきて、三本を藤倉を含めた他の人間に渡して「最後に乾杯しよう、兄弟」と語りかけた。
岡崎の手から発泡酒の缶を受け取った藤倉は、視線を落としながら涙ぐんだ。
彼の肩は小刻みに震え、その心の中で混ざり合う後悔と恐怖がこぼれ出す。
岡崎は藤倉の様子をじっと見て、深いため息をつく。
「お前はもう、戻れない道を選んじまったんだな……」
その時、岡崎の携帯が突然震えた。
画面を確認すると、本部からの着信が表示されている。
慌てて電話を取って対応した岡崎は、「ハイ!今警察署の前です。もうすぐ出頭させます。え?ハイ、ハイ…、ハイ?ええ、分かりました」という反応を見せて電話が切れた様子だった。
それは出頭してもう戻ってくることはない藤倉への聖約者であるイ・リキョンからのことづけだった。
岡崎はその驚愕を隠すように一瞬口を結び、再び藤倉に向き直り、「兄弟、聖約者様から伝言だ」と言葉を選びながら告げる。
「いつか生きて助け出すから待っていろ、わが子よ」
藤倉はその言葉に思わず目を見開き、驚きに息を呑む。
その言葉は、まるで希望と呪縛が入り混じったように彼の心に突き刺さり、涙が止まらなくなっていた。
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