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奪われた家、裏切られた絆
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「また来てやがる…」
桝充利はブラインドの隙間から外を覗き込み、公安の監視車両を睨みつける。
早稲田にある「絆ネットワーク」のオフィスは、ここ数週間、公安警察の監視下に置かれていることを彼は薄々感じ取っていた。
彼らの動きは鈍いが、確実に絆ネットワークを取り囲んでいる。
ばかりか、他の共栄教会系の団体もすでに監視下に置かれていたのだ。
「そりゃそうと、あの件はどうしてる?西宮繭の実家を乗っ取る話」
桝は不意に話題を変えた。
西宮繭は何年か前に、孤独を抱える若者を支援するNPO法人を標榜するこの「絆ネットワーク」に相談にやってきて合宿に参加、洗脳されて共栄教会の信者になって久しい女性である。
彼女の実家は世田谷区内に200坪を超える広さがあり、桝は彼女が相談に来た時からその乗っ取りをたくらんでいた。
それが今進行中だったのだ。
「ああ、あれね。あれは坂尾って女がうまくやってる。もうそろそろ終わるだろう」
「へえ。で、坂尾って誰だっけ?」
その頃、世田谷区の古びた一軒家の座敷では、西宮繭の高齢の父・西宮正一が座っていた。
青白い顔にうっすらと汗を浮かべ、手には震えが見える。
糖尿病が進行しているのは明らかで、彼の体は限界に近づいていた。
向かいには共栄教会の息のかかった司法書士が座り、土地の名義変更についての最終的な確認を進めていた。
「これで、名義は娘さんに変更されます。安心してください、手続きはスムーズに進みますから」
正一は疲れた表情でうなずく。
「繭のために…そうだ、それがいい。繭が帰ってきた時に、家をちゃんと残しておかないとな…」
その言葉を聞きながらも、司法書士は冷淡な表情を崩さない。
司法書士にとって、これは教団のために何回もこなしてきたただの手続きの一つにすぎないのだ。
そして、この状況に至るまでにも巧妙な策が張り巡らされていた。
すべては正一が一人娘の繭に家出されたうえに妻に先立たれ、孤独の中で生活が荒れ果てたことが発端である。
糖尿病を患いながらも正一は酒に溺れる日々を過ごしていたのだ。
そんな中で送り込まれたのが坂尾真奈美という女性信者である。
入信する前は感受性が強すぎて傷つきやすく泣いてばかりだった真奈美だったが、合宿での洗脳を通じて共栄教会の教義に染まり、教団の忠実な兵士となっていた。
そんな彼女は繭の親友を名乗り、正一に接近したのは半年前。
「繭さんがとても心配してました。今は顔を見せられないと言っていたから私が代わりに来ました」
そう言って、真奈美は巧みに正一に近づいての彼の心を掴んだのだ。
繭が自分を心配している、その一言だけで、正一は自分の荒んだ生活を顧みることなく、ただ真奈美の語る娘の思いに胸を打たれてしまった。
「繭が…そんなに俺のことを…」
さらに真奈美は「繭さんから預かった」という名目でアルコール度数の高い酒を差し出し、正一に飲ませる。
病状を悪化させる一方、娘の思い出をちらつかせることで、正一は酒を拒むことができなかった。
そして度々訪問して酒を飲ませ、彼の体と心が限界に達しつつあることを見極めてから決定的な提案をする。
「お父さん。繭さんはお父さんが元気でいることを一番大事に思っています。それに帰って来た時のためにお父さんが繭さんのために家を準備してくれたら、きっと安心するはずです」
「繭が帰ってくる…?」
殺し文句だった。
こうして真奈美は言葉巧みに土地の名義変更を提案し、糖尿病の悪化で正一のますます弱っていく精神を利用して書類にサインさせることに成功。
土地の名義が繭に変更されることになったのだ。
名義変更が完了した後安心したのか、正一はますます体調を崩していく。
それでも彼はずっと繭のことを思い続けていた。
最後に西宮家を訪問した時、布団に横たわってもはや死に体だった正一は真由美にこう言っていたという。
「繭…お前の家だから、いつでも戻っておいで…そう伝えてくれんか…」
彼のその言葉に、坂尾は一切の感傷を感じることなく頷いた。
彼女はただ正一がそのまま息を引き取ることが確認できるまで訪問することにしていたが、これが最後の訪問になるだろうと確信。
それは結局その通りになった。
そうとは知らない繭は工場での仕事から帰って、江東区の教団の寮で共栄教会の聖典である『イ・リキョン語録』を熱心に読み込んでいた。
教団の教えに深く帰依した彼女はすでに実家のことなど念頭にない。
それはスマートフォンに桝から「お前の実家の名義だけど、もうお前のものになったぞ」という着電があっても変わらなかった。
その言葉に繭は何ら顔を動かさず、無表情のまま答えたのだ。
「もう私の家はここです。実家なんて、もう私にはありません」
その言葉をオフィスの電話越しで聞いた桝は満足げに笑みを浮かべた。
正一の土地も、繭の反応も、すべてが計画通りである。
公安の監視をかわしつつ、教団の影響力はこうして一歩ずつ拡大していたのだ。
桝はすべてうまくいったと心の中でほくそ笑む。
坂尾って、あの泣いてばかりでウンコまで漏らした女だ。
あのウンコ女がいい仕事をしたもんだ。
だが、最初に正一の情報を持ち込んでこの計画を立案したのは、ずっとバカにしてアゴでこき使ってきた岡崎正英である。
三十九歳で入信した彼は教団内での経験を通じ、四十歳を超えて悪さの才能を開花させたらしい。
これまでも教団の利益になる悪事を次々に提案するようになっていたのだ。
「これ思いついたの岡崎なんだよな、あのダメ中年オヤジも使えるようになったもんだ」
「俺たちもウカウカしてられねえぞ」
オフィスで祝杯のシャンパンを飲みながら笑い合う桝と金だったが、もちろん本気でそう思っていない。
岡崎も坂尾もずっと奴隷のままだし、自分たちの主人としての地位は変わらないだろう。
だが、それは間違いだった。
桝充利はブラインドの隙間から外を覗き込み、公安の監視車両を睨みつける。
早稲田にある「絆ネットワーク」のオフィスは、ここ数週間、公安警察の監視下に置かれていることを彼は薄々感じ取っていた。
彼らの動きは鈍いが、確実に絆ネットワークを取り囲んでいる。
ばかりか、他の共栄教会系の団体もすでに監視下に置かれていたのだ。
「そりゃそうと、あの件はどうしてる?西宮繭の実家を乗っ取る話」
桝は不意に話題を変えた。
西宮繭は何年か前に、孤独を抱える若者を支援するNPO法人を標榜するこの「絆ネットワーク」に相談にやってきて合宿に参加、洗脳されて共栄教会の信者になって久しい女性である。
彼女の実家は世田谷区内に200坪を超える広さがあり、桝は彼女が相談に来た時からその乗っ取りをたくらんでいた。
それが今進行中だったのだ。
「ああ、あれね。あれは坂尾って女がうまくやってる。もうそろそろ終わるだろう」
「へえ。で、坂尾って誰だっけ?」
その頃、世田谷区の古びた一軒家の座敷では、西宮繭の高齢の父・西宮正一が座っていた。
青白い顔にうっすらと汗を浮かべ、手には震えが見える。
糖尿病が進行しているのは明らかで、彼の体は限界に近づいていた。
向かいには共栄教会の息のかかった司法書士が座り、土地の名義変更についての最終的な確認を進めていた。
「これで、名義は娘さんに変更されます。安心してください、手続きはスムーズに進みますから」
正一は疲れた表情でうなずく。
「繭のために…そうだ、それがいい。繭が帰ってきた時に、家をちゃんと残しておかないとな…」
その言葉を聞きながらも、司法書士は冷淡な表情を崩さない。
司法書士にとって、これは教団のために何回もこなしてきたただの手続きの一つにすぎないのだ。
そして、この状況に至るまでにも巧妙な策が張り巡らされていた。
すべては正一が一人娘の繭に家出されたうえに妻に先立たれ、孤独の中で生活が荒れ果てたことが発端である。
糖尿病を患いながらも正一は酒に溺れる日々を過ごしていたのだ。
そんな中で送り込まれたのが坂尾真奈美という女性信者である。
入信する前は感受性が強すぎて傷つきやすく泣いてばかりだった真奈美だったが、合宿での洗脳を通じて共栄教会の教義に染まり、教団の忠実な兵士となっていた。
そんな彼女は繭の親友を名乗り、正一に接近したのは半年前。
「繭さんがとても心配してました。今は顔を見せられないと言っていたから私が代わりに来ました」
そう言って、真奈美は巧みに正一に近づいての彼の心を掴んだのだ。
繭が自分を心配している、その一言だけで、正一は自分の荒んだ生活を顧みることなく、ただ真奈美の語る娘の思いに胸を打たれてしまった。
「繭が…そんなに俺のことを…」
さらに真奈美は「繭さんから預かった」という名目でアルコール度数の高い酒を差し出し、正一に飲ませる。
病状を悪化させる一方、娘の思い出をちらつかせることで、正一は酒を拒むことができなかった。
そして度々訪問して酒を飲ませ、彼の体と心が限界に達しつつあることを見極めてから決定的な提案をする。
「お父さん。繭さんはお父さんが元気でいることを一番大事に思っています。それに帰って来た時のためにお父さんが繭さんのために家を準備してくれたら、きっと安心するはずです」
「繭が帰ってくる…?」
殺し文句だった。
こうして真奈美は言葉巧みに土地の名義変更を提案し、糖尿病の悪化で正一のますます弱っていく精神を利用して書類にサインさせることに成功。
土地の名義が繭に変更されることになったのだ。
名義変更が完了した後安心したのか、正一はますます体調を崩していく。
それでも彼はずっと繭のことを思い続けていた。
最後に西宮家を訪問した時、布団に横たわってもはや死に体だった正一は真由美にこう言っていたという。
「繭…お前の家だから、いつでも戻っておいで…そう伝えてくれんか…」
彼のその言葉に、坂尾は一切の感傷を感じることなく頷いた。
彼女はただ正一がそのまま息を引き取ることが確認できるまで訪問することにしていたが、これが最後の訪問になるだろうと確信。
それは結局その通りになった。
そうとは知らない繭は工場での仕事から帰って、江東区の教団の寮で共栄教会の聖典である『イ・リキョン語録』を熱心に読み込んでいた。
教団の教えに深く帰依した彼女はすでに実家のことなど念頭にない。
それはスマートフォンに桝から「お前の実家の名義だけど、もうお前のものになったぞ」という着電があっても変わらなかった。
その言葉に繭は何ら顔を動かさず、無表情のまま答えたのだ。
「もう私の家はここです。実家なんて、もう私にはありません」
その言葉をオフィスの電話越しで聞いた桝は満足げに笑みを浮かべた。
正一の土地も、繭の反応も、すべてが計画通りである。
公安の監視をかわしつつ、教団の影響力はこうして一歩ずつ拡大していたのだ。
桝はすべてうまくいったと心の中でほくそ笑む。
坂尾って、あの泣いてばかりでウンコまで漏らした女だ。
あのウンコ女がいい仕事をしたもんだ。
だが、最初に正一の情報を持ち込んでこの計画を立案したのは、ずっとバカにしてアゴでこき使ってきた岡崎正英である。
三十九歳で入信した彼は教団内での経験を通じ、四十歳を超えて悪さの才能を開花させたらしい。
これまでも教団の利益になる悪事を次々に提案するようになっていたのだ。
「これ思いついたの岡崎なんだよな、あのダメ中年オヤジも使えるようになったもんだ」
「俺たちもウカウカしてられねえぞ」
オフィスで祝杯のシャンパンを飲みながら笑い合う桝と金だったが、もちろん本気でそう思っていない。
岡崎も坂尾もずっと奴隷のままだし、自分たちの主人としての地位は変わらないだろう。
だが、それは間違いだった。
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