深海 shinkai(改訂版)

志生帆 海

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出逢いの章

共に歩む道 3

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 トゥルルルル…
 トゥルルルル…

 名残惜しくまだ窓辺に腰かけて朝もやの景色を眺めていると、突然部屋の電話が鳴った。珍しいな、一体誰からだろう?この家の電話番号を知っている人は限られているのに。職場?いや急ぎなら携帯にかけてくるはずだし……

 出るか出ないか迷っていると、一度切れた電話はまたすぐに鳴り出した。

 何か急用かもしれない。

 結局そう判断して受話器を取った。

「もしもし?」

 少しの沈黙の後……

「優也っ……優也なの?」

 女性の声だった。涙声のこの声。受話器の先のこの懐かしい声は……受話器を持つ手がわなわなと震えてしまう。

「ねっ姉さん?」
「そうよ。あぁ優也?本当に優也なのね」
「何でこの番号を?」
「やっと見つけたのよ!もう……」

 驚いたことに電話の相手は、三歳上の姉の優希(ゆき)からだった。

****

 僕は高校卒業まで長野の実家で過ごした。実家は軽井沢を拠点とする地元では有名な観光タクシー会社を経営していて、その家の跡取り息子として、何不自由のない生活をしてきた。

 軽井沢は避暑地として有名なので、以前から夏休みなどは長期滞在の外国人が多い町だった。幼い頃から外国人と触れ合って育った環境により英語の世界に興味を持った。

 きちんと言語として極めたいと両親に願い出て、都内の大学へと進学したんだ。両親もこれからはグローバルの時代で、英語を貪欲に学ぶのは悪くないと快諾してくれた。

 入学と共に上京し一人暮らしを始めたが、お盆や年末年始はきちんと長期的に帰省していた。

 翔と出会うまでは、とても品行方正な暮らしぶりだった。

 卒業後……修行の意味もかねて東京で通訳の会社に入社した。その会社で翔と出会い、翔に抱かれ同棲まがいの日々を過ごし始めてからは、一度も実家へは帰らなかった。いや帰らせてもらえなかったのか。今となってはあやふやだ。

****

「翔……やっぱり今年のお盆には実家へ帰るよ」
「駄目だ。帰らせない」
「なんで?ちゃんとここに戻って来るし、ほら……あんまり帰らないと両親も心配するから」
「駄目だ、一日でもお前が傍にいない生活なんて考えられない」
「翔……」

 そのまま押し倒されて躰を開かれる日々。

 強引なキス。強引な抱擁。強引な挿入。全て強引だったのに、その強引さを拒めず、躰は悦び、流されていく自分に当時は酔っていた。

 こんなにも地味で冴えない僕なんかを、翔がひたすらに求めてくれている。そのことに喜びを見出していたから、実家へ帰ることは常に後回しになっていた。

 帰らせてもらえなかったのではない。

 帰らなかった。僕の意志で……

 それでも心配した母が幾度となく電話をかけて来た。

「優也、夏も冬もどうして帰ってこないの?そんなに会社が忙しいの?」
「ごめん母さん……今通訳の仕事が大事な時で、年末年始や夏休みとか……そういう時期はお客さんが多いんだ」
「じゃあいつ?いつなら?」

 そんな会話の繰り返し。

 心配した母から月に一度必ず届く段ボールには「栄養をつけて」とメモ書きと一緒に真っ赤な林檎が沢山入っていた。

「おっ実家からか。優也何かいいもの入っていたか」
「あ……うん、林檎だよ。食べる?」
「チッ!林檎は嫌いだっていつも話しているだろ。どうせなら肉を送ってくれればいいのにな」
「そっか……そうだね」

 真っ赤な林檎を丸ごと握って一口かじると、懐かしい故郷の味が立ち込めた。甘酸っぱい懐かしい香りと味に、夢に溢れていたあの頃のことを思い出していた。

****

「ちょっと優也っ聞いているの?」

 電話越しの姉の声は怒りに満ちていた。

「聞いてるよ」

「ソウルに行くって電話一本で済ませて何年経ったと思っているの?あなたって子は一体今までどこをほっつき歩いて……今ソウルで何をしているの?まったくこんな時に……この電話番号だって、私がどんなに苦労して探したか、あなたに分かる?」

「姉さん、ごめん」
「とにかく詳しいことは後でゆっくり聞くから、今すぐ日本に戻って来て」
「えっ何で急に……?」

 嫌な予感がした。

 急な電話、急な呼び出し。

 それは一体何を意味するのか……

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