上 下
1,101 / 1,728
小学生編

光の庭にて 9 

しおりを挟む

「ママぁー たいへん! たいへんさんだよ!」
「どうしたの? いっくん」
「あのね、ここのおなまえも、かえないと…ダメダメ!」
「あぁ、そうだったわ」

 いっくんが息を切らせて、真っ赤になってふぅふぅ言ってる。
 
 小さな子供って何でも全力投球で可愛い!

『やまなか いつき』
 
 あ、そうか。保育園のバッグのネームタグ、まだ『山中』の姓のままだったのね。

 結婚式の翌日、三人で役所に行って入籍し、『葉山 菫』と『葉山 樹』になったのよ。

「ママぁ、いっくんたち、パパとおなじでうれしいね」
「そうね。そうだ、いっくん、『はやま』って漢字で書くとこんな風に『葉山』って書くのよ。この『葉』という文字は、いっくんの大好きなはっぱさんのことよ」

 マジックでメモ帳に書いてあげると、いっくんの瞳がキラキラと輝いた。

「ほんと? はっぱさんなの!」
「よかったわね。いっくんの名字は『はやま』になったのよ。まだ、みんな戸惑っているかもしれないけれども、じきに慣れるから我慢してね」

 いっくんの頭を撫でながら説明すると、キョトンとした顔の後、小首を傾げた。
 
「ママ? がまんなんてしてないよ? だってすごくうれしいもん! いっくんね、おともだちに、おしえてあげているんだよ。はやまいつきだよって」
「えっ、そうだったの?」
「ママぁ、ママもうれしい?」
「嬉しいわ。毎日何だかほっとしているわ」
「よかったぁ」

 いっくんが私の手の甲に、スリスリと可愛い仕草で頬ずりしてくれる。

 これは、この子の癖なのかな?

 大事なもの、大好きなものに頬ずりするの、昔から好きだったわよね。

 息子のふっくらとした頬の弾力、子供らしい高めの体温を直に感じて、ますます幸せな気持ちが膨らんだ。

「いっくんとママ……今までがんばってきてよかったね」
「うん! パパにはやくあいたいね」
「そうね。あ、そろそろ保育園にいこうか」
「うん!」

 いつも保育園に行くのを渋り寂しがっていた、いっくんはもういない。

 今は明るく顔をあげて、張り切って歩いてくれる。

「いっくん、おはよう!」
 
 門の前で、出迎えの先生が呼んでくれと、いっくんが急いで駆け寄った。

「せいせい、あのね……いっくんじゃなくて、『はやま』ってよんでね」
「くすっ、そうだったわね。じゃあ『はやまいつきくん』はどこですか」
「はーい! ここにいましゅ!」

 いっくんが手を真っ直ぐに伸ばして、元気にお返事をする。

 その晴れやかな笑顔に、その場にいる誰もが笑顔になった。

「いっくんは最近はとても明るくなってイキイキしていますよ。お母さん、ここまでよく頑張りましたね」
「あ……ありがとうございます」

 どうしたのかしら? 

 今日は先生の優しさが身に染みるわ。
 
  あぁ……素直になるって大事なのね。

 世の中には、こんなにも優しさで溢れているのね。

 私はずっと何を見ていたのかしら?
 
 もう一人で頑張りすぎないし、意固地にならない。

 優しさに触れるのを、躊躇わない。

 人に素直に甘えられるのって、こんなに素敵なことなのね。

 心のゆとりって、大切なのね。
 
 私はずっと肩肘張っていたから、これからはもっとゆったり、のんびりおおらかに、今を楽しんでいきたいな。

 息子と過ごす時間を、もっと大切にしたいな。

 本当にこのタイミングで潤くんと出逢えた奇跡に、感謝している。

「先生、今日も樹をよろしくお願いします」
「ママ、いっくん、いいこにしてるね。いってらっしゃい」

「ママ行かないで……」といつも泣きべそをかいていたのに……成長したのね。

 優しさや幸せは、人を甘やかすわけじゃないのね。

 心を強くしてくれる――


****

 土曜日の朝。

 天気予報通り、朝から土砂降りの雨だ。

 雨粒が窓を伝い落ちる様子を、そっと指でなぞってみた。

 すると子供部屋の扉が開き、小さな足音が聞こえてきた。

 振り向けば、まだパジャマ姿で、寝ぐせの髪があちこち跳ねた芽生くんが笑っている。

「ふわぁぁ……おはよう、お兄ちゃん、今日のお天気は?」
「芽生くん、おはよう。今日はすごい雨だよ」
「わぁー じゃあボク、ながぐつとレインコート用意してくるね」
 
 入れ違いで、宗吾さんも起きてくる。

 同じくすごい寝ぐせで、まだ眠そうに目を擦っている。

 ふふっ、やはり親子だな。

 寝ぐせの方向まで一緒なので、思わずクスッと笑ってしまった。

「ん? 何かついているか」
「寝ぐせ……直してあげましょうか」
「あー 剛毛なんだよなぁ。昔から」
「乱れた宗吾さんは……」

 言いかけると、宗吾さんと目が合った。

 ニカッと笑って、近づいて来る。

「乱れた俺って、色っぽいか」
「……え? 違くて……えっと可愛いなって」
「ん? おいおい、俺はそんなキャラじゃないぞ」
「いえ、その……芽生くんと親子だなって、芽生くんの将来に思いを馳せてしまいました」
「芽生の将来か。その頃……俺は無事か」
「無事って?」
「髪だよ、髪! ちゃんとあるかな? それとも月影寺に弟子入りした方がよくなっているか」
「もっ、もう、朝からやめてくださいよ。変な想像しちゃいます」
「ははっ」
 
 朝から他愛もない会話で笑顔の花が咲くのも、僕たち家族だからだ。

 月影寺には一泊させてもらう予定なので、最低限の着替えを持って、早々に家を出た。

「楽しみだなぁ~ おやぶんもいるかな」
「おやぶん? あぁ……翠さんの息子さんだね」
「またカラオケするの? あそこのおうちはすごく広くてすごいよね」
「そうだね、由緒正しいお寺だからね」

 新しいレインコートに長靴姿の芽生くんは、始終ご機嫌だ。
 
「お兄ちゃん、このレインコート、雨をはじくよ。ほらっ」

 芽生くんが身体を揺すると、雨粒が軽快に転がっていった。

「本当だ。イマドキの撥水加工ってすごいんだね」
「あ……お兄ちゃん、濡れているよ」

 身体の左側が、傘から落ちた雫で濡れていた。
 
「これ位大丈夫だよ」
「ダメだよー ぬれるとおカゼひいちゃうって、おばあちゃんがいっていたよ。パパぁ、タオルかして」
「うん?」

 電車のホームで、芽生くんが背伸びしてタオルで僕の身体を一生懸命拭いてくれた。

「お兄ちゃん、寒くない?」

 黄色いレインコートに包まれた芽生くんは、とても可愛らしくて溜まらなかった。

「ありがとう。大丈夫だよ」
「瑞樹、髪も濡れているぞ」
「あ……宗吾さん」

 宗吾さんもタオルで拭いてくれる。

 なんだか擽ったいな。

「パパは上ね。ボクは下をふくよ」
「そんな……もう大丈夫ですよ」
「駄目だ。大切な身体なんだ」
「そうだよ。お兄ちゃんは大事だよ」
 
 通りがかりの人が目を細めて通り過ぎていく。

 恥ずかしいけれども嬉しかったりもして……

 こんなにも二人から大切にしてもらえて、また涙が出そうだ。

 車内は雨のせいで湿度が高く空気も澱んでいたが、僕の心はどこまでも澄んでいた。

 優しさに触れて、包まれて……生きている。


「次は北鎌倉だぞ」
「雨、まだ降っていますね」
「あぁ、芽生は大喜びだがな」

 月影寺へ続く坂道にはは、紫陽花が両脇に植わっており、見頃だった。

「洋くんの言った通り、最高の景色ですね」
「あぁ」
「やっぱり紫陽花には雨が似合いますね」
「俺は雨はあまり好きじゃないが、紫陽花のためなら許せてしまうな」
「宗吾さん……」
 
 宗吾さんの会話も穏やかで、芽生くんのレインコート姿も眩しくて、ただ目的地に向かって歩いているだけなのに、傘にあたる雨粒に連動するように、僕の心は躍っていた。

「そろそろ着くな」
「あ……山門が見えてきましたね」

 ところが、車道から石段を見上げてギョッとした。

「お、お兄ちゃん、あそこに……てるてるぼうずのおばけがいるよ!」
「う、うん」

 真っ白な巨大てるてる坊主が、階段を右往左往とうごめいていた。

「ン? 何だ、あれ?」
「そ、宗吾さんっ、怖いです」
「パパぁ、怖いよー」

 思わず芽生くんと一緒に宗吾さんの背後に隠れると、てるてる坊主のおばけがグルッと振り向いた。

「ぎゃー!」
「キャー!」



しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

義妹の嫌がらせで、子持ち男性と結婚する羽目になりました。義理の娘に嫌われることも覚悟していましたが、本当の家族を手に入れることができました。

石河 翠
ファンタジー
義母と義妹の嫌がらせにより、子持ち男性の元に嫁ぐことになった主人公。夫になる男性は、前妻が残した一人娘を可愛がっており、新しい子どもはいらないのだという。 実家を出ても、自分は家族を持つことなどできない。そう思っていた主人公だが、娘思いの男性と素直になれないわがままな義理の娘に好感を持ち、少しずつ距離を縮めていく。 そんなある日、死んだはずの前妻が屋敷に現れ、主人公を追い出そうとしてきた。前妻いわく、血の繋がった母親の方が、継母よりも価値があるのだという。主人公が言葉に詰まったその時……。 血の繋がらない母と娘が家族になるまでのお話。 この作品は、小説家になろうおよびエブリスタにも投稿しております。 扉絵は、管澤捻さまに描いていただきました。

孕ませねばならん ~イケメン執事の監禁セックス~

あさとよる
恋愛
傷モノになれば、この婚約は無くなるはずだ。 最愛のお嬢様が嫁ぐのを阻止? 過保護イケメン執事の執着H♡

お腹の子と一緒に逃げたところ、結局お腹の子の父親に捕まりました。

下菊みこと
恋愛
逃げたけど逃げ切れなかったお話。 またはチャラ男だと思ってたらヤンデレだったお話。 あるいは今度こそ幸せ家族になるお話。 ご都合主義の多分ハッピーエンド? 小説家になろう様でも投稿しています。

イケメン王子四兄弟に捕まって、女にされました。

天災
BL
 イケメン王子四兄弟に捕まりました。  僕は、女にされました。

「不吉な子」と罵られたので娘を連れて家を出ましたが、どうやら「幸運を呼ぶ子」だったようです。

荒瀬ヤヒロ
恋愛
マリッサの額にはうっすらと痣がある。 その痣のせいで姑に嫌われ、生まれた娘にも同じ痣があったことで「気味が悪い!不吉な子に違いない」と言われてしまう。 自分のことは我慢できるが娘を傷つけるのは許せない。そう思ったマリッサは離婚して家を出て、新たな出会いを得て幸せになるが……

泣くなといい聞かせて

mahiro
BL
付き合っている人と今日別れようと思っている。 それがきっとお前のためだと信じて。 ※完結いたしました。 閲覧、ブックマークを本当にありがとうございました。

運命の番?棄てたのは貴方です

ひよこ1号
恋愛
竜人族の侯爵令嬢エデュラには愛する番が居た。二人は幼い頃に出会い、婚約していたが、番である第一王子エリンギルは、新たに番と名乗り出たリリアーデと婚約する。邪魔になったエデュラとの婚約を解消し、番を引き裂いた大罪人として追放するが……。一方で幼い頃に出会った侯爵令嬢を忘れられない帝国の皇子は、男爵令息と身分を偽り竜人国へと留学していた。 番との運命の出会いと別離の物語。番でない人々の貫く愛。 ※自己設定満載ですので気を付けてください。 ※性描写はないですが、一線を越える個所もあります ※多少の残酷表現あります。 以上2点からセルフレイティング

【完結】双子の伯爵令嬢とその許婚たちの物語

ひかり芽衣
恋愛
伯爵令嬢のリリカとキャサリンは二卵性双生児。生まれつき病弱でどんどん母似の美女へ成長するキャサリンを母は溺愛し、そんな母に父は何も言えない……。そんな家庭で育った父似のリリカは、とにかく自分に自信がない。幼い頃からの許婚である伯爵家長男ウィリアムが心の支えだ。しかしある日、ウィリアムに許婚の話をなかったことにして欲しいと言われ…… リリカとキャサリン、ウィリアム、キャサリンの許婚である公爵家次男のスターリン……彼らの物語を一緒に見守って下さると嬉しいです。 ⭐︎2023.4.24完結⭐︎ ※2024.2.8~追加・修正作業のため、2話以降を一旦非公開にしていました。  →2024.3.4再投稿。大幅に追加&修正をしたので、もしよければ読んでみて下さい(^^)

処理中です...