重なる月

志生帆 海

文字の大きさ
上 下
1,635 / 1,657
17章

月光の岬、光の矢 47

しおりを挟む
「私は彼女を駅まで送ってくるから、洋は先に離れに戻っていろ」
「いや、俺も一緒に行くよ」
「洋は少し休め……なっ」

 厳しい眼差しだった。

 分かったよ。

 医師の丈として、止めているんだな。

 確かに今の俺は肉体的にも精神的にも疲弊している。

 本来ならば俺も一緒に行くべきだが、途中で気持ち悪くなりそうな予感がする。

 くそつ、こんな弱々しい身体……

 情けない。
 
 精神的にも肉体的にもタフではありたいのに……

 父が亡くなってから母が寝込むことが多くなり、夕食を作ることもままならないことが増えた。

 だから必然的に自然と食が細くなってしまった。

 更に、あの人との暮らしでは、俺を見せびらかすかの如く外食ばかりさせられ、その一方で一人の時はコンビニ飯で、栄養に偏りがあった。

 自分でも分かっている。

 成長期に不健康な食生活をしたせいだ。

 丈と出逢ってからは手料理で心と身体を温めてもらい、月影寺では流さんが健康的な食事を、丈がいない時も熱心に提供してくれている。

 お陰で、ずいぶん顔色が良くなった。

 身体は細いままだが、健康的になった。

 だが、極度の緊張や不安を感じると、昔の弱い面が全面に出てきてしまう。

 離れに戻った途端、くらくらと目眩がした。

 慌ててベッドに横になり、身体を沈めた。

 悪心がする。

 丈の言う通りだ。

 車に揺られたら、きっと粗相してしまっただろう。

 情けない姿を村山さんに見せずに済んだ。

 だが、あの慈愛に満ちた人ならば、きっと優しく介抱してくれただろう。

 彼女は俺の母とは真逆のタイプだが、まるで母のようにあたたかい人だ。

 あの人とならば、一緒にやっていける。

 丈が連れてきた人は、流石、丈が見込んだだけあって、器の大きな人だった。

 10分ほど目を瞑って横になると、目眩も収まり、吐き気も収まった。

 そのタイミングで起き上がり、机に座った。

 もう翻訳の仕事道具はない、何も置かれていない机の上。

 そこに1冊の新しいノートを置いた。

 ここに今日から綴っていこう。

 丈の診療所で働くために役立つこと、教えてもらったことを記入していこう。

 タイトルは……そうだな……

『由比ヶ浜 丈 診療所』

 これでいいか。

 海里先生が『海里診療所』と名付けたように、地元の人々に慕われるよう『丈』の名前を押し出そう。

 何から書き始めようか。

 丈と俺の新しいステージの物語が今、始まる。


 


 そこで記憶がぷつりと途絶えてしまった。

「ん……?」

 目を覚ますと、丈に抱かれていた。

 いつのまにパジャマに着替えて、逞しい腕の中で、温もりに包まれていた。

 規則正しい鼓動が聞こえてくる。

 この鼓動が俺の人生を整えてくれる。

 無残な過去に引き戻されそうになっても、この鼓動が道標となる。

「丈……お前がいてくれてよかった」
「ん……洋、起きたのか。疲れただろう。ゆっくり休め」
「ふっ、甘やかされているな」
「洋だからだ。どんな洋でも、私の洋だ。今は身体を休めろ。明日から更に忙しくなる」
「ありがとう」

 俺も丈だからだ。

 全てを委ねられるのは、お前だからだ。

しおりを挟む
感想 54

あなたにおすすめの小説

記憶を失くした彼女の手紙 消えてしまった完璧な令嬢と、王子の遅すぎた後悔の話

甘糖むい
恋愛
婚約者であるシェルニア公爵令嬢が記憶喪失となった。 王子はひっそりと喜んだ。これで愛するクロエ男爵令嬢と堂々と結婚できると。 その時、王子の元に一通の手紙が届いた。 そこに書かれていたのは3つの願いと1つの真実。 王子は絶望感に苛まれ後悔をする。

執着攻めと平凡受けの短編集

松本いさ
BL
執着攻めが平凡受けに執着し溺愛する、似たり寄ったりな話ばかり。 疲れたときに、さくっと読める安心安全のハッピーエンド設計です。 基本的に一話完結で、しばらくは毎週金曜の夜または土曜の朝に更新を予定しています(全20作)

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

君のことなんてもう知らない

ぽぽ
BL
早乙女琥珀は幼馴染の佐伯慶也に毎日のように告白しては振られてしまう。 告白をOKする素振りも見せず、軽く琥珀をあしらう慶也に憤りを覚えていた。 だがある日、琥珀は記憶喪失になってしまい、慶也の記憶を失ってしまう。 今まで自分のことをあしらってきた慶也のことを忘れて、他の人と恋を始めようとするが… 「お前なんて知らないから」

もう人気者とは付き合っていられません

花果唯
BL
僕の恋人は頭も良くて、顔も良くておまけに優しい。 モテるのは当然だ。でも――。 『たまには二人だけで過ごしたい』 そう願うのは、贅沢なのだろうか。 いや、そんな人を好きになった僕の方が間違っていたのだ。 「好きなのは君だ」なんて言葉に縋って耐えてきたけど、それが間違いだったってことに、ようやく気がついた。さようなら。 ちょうど生徒会の補佐をしないかと誘われたし、そっちの方に専念します。 生徒会長が格好いいから見ていて癒やされるし、一石二鳥です。 ※ライトBL学園モノ ※2024再公開・改稿中

もう、いいのです。

千 遊雲
恋愛
婚約者の王子殿下に、好かれていないと分かっていました。 けれど、嫌われていても構わない。そう思い、放置していた私が悪かったのでしょうか?

彼女にも愛する人がいた

まるまる⭐️
恋愛
既に冷たくなった王妃を見つけたのは、彼女に食事を運んで来た侍女だった。 「宮廷医の見立てでは、王妃様の死因は餓死。然も彼が言うには、王妃様は亡くなってから既に2、3日は経過しているだろうとの事でした」 そう宰相から報告を受けた俺は、自分の耳を疑った。 餓死だと? この王宮で?  彼女は俺の従兄妹で隣国ジルハイムの王女だ。 俺の背中を嫌な汗が流れた。 では、亡くなってから今日まで、彼女がいない事に誰も気付きもしなかったと言うのか…? そんな馬鹿な…。信じられなかった。 だがそんな俺を他所に宰相は更に告げる。 「亡くなった王妃様は陛下の子を懐妊されておりました」と…。 彼女がこの国へ嫁いで来て2年。漸く子が出来た事をこんな形で知るなんて…。 俺はその報告に愕然とした。

【完結】失いかけた君にもう一度

暮田呉子
恋愛
偶然、振り払った手が婚約者の頬に当たってしまった。 叩くつもりはなかった。 しかし、謝ろうとした矢先、彼女は全てを捨てていなくなってしまった──。

処理中です...