重なる月

志生帆 海

文字の大きさ
上 下
1,621 / 1,657
17章

月光の岬、光の矢 35

しおりを挟む
 辞職願いは、既に提出済みだ。

 後任の医師に仕事を引き継ぎ、予約の入っていた手術を後三件こなせば、この病院を辞めることになる。

 数年前、韓国への逃避行から帰国した私は、実家である月影寺に身を寄せた。

 あの頃の洋は、まだまだ情緒不安定で、人見知りも激しく、自分の殻から出て来なくなることも多かった。

 引き裂かれた身体と心の傷を、完全には癒やし切れてなかった。

 そんな洋が心配で心配で、なるべく近くにいてやりたくて、この大船の総合病院を選んだのだ。
 
 北鎌倉から近いので通勤に時間を取られることはなく、洋と過ごす時間を確保できた。

 今の洋は、あの頃よりずっと力強くなった。

 心も安定し、本来の性格も見え隠れし、頼もしく男らしくなった。

 そんな洋を見ていると、私は次のステップに進みたくなった。

 守る立場から、共に歩む立場へ。

 私たちが遙か昔に夢見た世界を実現させたくなった。

 これからは、常に一緒だ。

 私と洋は同じ船に乗り、私たちだけの未来に漕ぎ出す。

 開業に向けての手筈は、ほぼ整った。

 あとは時の流れに任せよう。

 医師になった時、いつか時が満ちたら開業医になると決意した。

 夢よりも、もっと現実的な意志だった。

 過去から突き上げてくる衝動だったのか。

 そのためには土地と建物が必要だから、そろそろハウスメーカーに行こうと思った矢先、思いがけず海里先生の診療所を引き継げることになった。

 由比ヶ浜の海里診療所。

 それは、洋が運んで来てくれた縁だった。

 木造建築のクラシカルな洋館に初めて足を踏み入れた時、心が震えた。

 ここには私の理想が詰まっている。

 以前、学会の合間に、ハウスメーカー主催の『医院開業・建築のノウハウ』という講座を受講した。そのメーカーは患者さんには安全で安心な医療を、働くスタッフには良質な労働環境を提供することがコンセプトで、木造医院の普及を勧めていた。木造の建物は堅牢で木の温かみはヒーリング効果もあり、医院建築に木造建築は最適だと謳っていた。
 
 その提案が私の心のストンと落ちたのだ。

 木と言えば、月影寺。

 当たり前かもしれないが、ヨウとジョウの屋敷、洋月の君と丈の中将の宇治の山荘も木造だった。

 木はどんな時代でも、いつも私たちと共に息をしてきた。

 だから都会の雑居ビルを借りて開業するのではなく、静かで落ち着いた場所に木造住宅を入手して開業しようと決めていた。




 診察時間より少し早く診療室に入ると、看護師から話しかけられた。

 彼女は40代半ばの結婚してお子さんもいるベテランの看護師だ。

「あの……丈先生、もうすぐご退職と聞きましたが」
「あぁ、ようやく開業先の耐震工事が終わったので時期が来たようだ。君には大変お世話になったね」
「寂しくなります。あの、開業先には、どなたか医局の看護師を連れて行かれるのですか」
「いや、決めていないが」
「あの、私では駄目ですか。丈先生の迷いのない診断、治療、手術、いつもお見事でした。尊敬しています。どこまでも付いていきたいです」
「ありがとう、君は常に良いサポートをしてくれた」

 確かに看護師を雇わないとならない。

 洋は受付事務をする予定だが、治療の補助には看護師の資格が必要だから。

 見ず知らずの人間を求人広告を通して雇うよりも、長年サポートしてくれた彼女なら良いのかもしれない。

 彼女の穏やかで明るい人柄に、好感を持っている。

 だが私と洋の関係を理解してくれるだろうか。

 それが最優先項目だ。

「ですから、是非ご検討下さい」
「分かった。少し考えさせてくれ」

 何事も、すべては洋と相談してからだ。

 私はの夢は、洋と成し遂げるものだから――
 
 もう開院に向かって動き出していることを実感し、胸がまた一段と高鳴った。





 
しおりを挟む
感想 54

あなたにおすすめの小説

記憶を失くした彼女の手紙 消えてしまった完璧な令嬢と、王子の遅すぎた後悔の話

甘糖むい
恋愛
婚約者であるシェルニア公爵令嬢が記憶喪失となった。 王子はひっそりと喜んだ。これで愛するクロエ男爵令嬢と堂々と結婚できると。 その時、王子の元に一通の手紙が届いた。 そこに書かれていたのは3つの願いと1つの真実。 王子は絶望感に苛まれ後悔をする。

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

もう人気者とは付き合っていられません

花果唯
BL
僕の恋人は頭も良くて、顔も良くておまけに優しい。 モテるのは当然だ。でも――。 『たまには二人だけで過ごしたい』 そう願うのは、贅沢なのだろうか。 いや、そんな人を好きになった僕の方が間違っていたのだ。 「好きなのは君だ」なんて言葉に縋って耐えてきたけど、それが間違いだったってことに、ようやく気がついた。さようなら。 ちょうど生徒会の補佐をしないかと誘われたし、そっちの方に専念します。 生徒会長が格好いいから見ていて癒やされるし、一石二鳥です。 ※ライトBL学園モノ ※2024再公開・改稿中

執着攻めと平凡受けの短編集

松本いさ
BL
執着攻めが平凡受けに執着し溺愛する、似たり寄ったりな話ばかり。 疲れたときに、さくっと読める安心安全のハッピーエンド設計です。 基本的に一話完結で、しばらくは毎週金曜の夜または土曜の朝に更新を予定しています(全20作)

もう、いいのです。

千 遊雲
恋愛
婚約者の王子殿下に、好かれていないと分かっていました。 けれど、嫌われていても構わない。そう思い、放置していた私が悪かったのでしょうか?

君のことなんてもう知らない

ぽぽ
BL
早乙女琥珀は幼馴染の佐伯慶也に毎日のように告白しては振られてしまう。 告白をOKする素振りも見せず、軽く琥珀をあしらう慶也に憤りを覚えていた。 だがある日、琥珀は記憶喪失になってしまい、慶也の記憶を失ってしまう。 今まで自分のことをあしらってきた慶也のことを忘れて、他の人と恋を始めようとするが… 「お前なんて知らないから」

彼女にも愛する人がいた

まるまる⭐️
恋愛
既に冷たくなった王妃を見つけたのは、彼女に食事を運んで来た侍女だった。 「宮廷医の見立てでは、王妃様の死因は餓死。然も彼が言うには、王妃様は亡くなってから既に2、3日は経過しているだろうとの事でした」 そう宰相から報告を受けた俺は、自分の耳を疑った。 餓死だと? この王宮で?  彼女は俺の従兄妹で隣国ジルハイムの王女だ。 俺の背中を嫌な汗が流れた。 では、亡くなってから今日まで、彼女がいない事に誰も気付きもしなかったと言うのか…? そんな馬鹿な…。信じられなかった。 だがそんな俺を他所に宰相は更に告げる。 「亡くなった王妃様は陛下の子を懐妊されておりました」と…。 彼女がこの国へ嫁いで来て2年。漸く子が出来た事をこんな形で知るなんて…。 俺はその報告に愕然とした。

貴方の傍に幸せがないのなら

なか
恋愛
「みすぼらしいな……」  戦地に向かった騎士でもある夫––ルーベル。  彼の帰りを待ち続けた私––ナディアだが、帰還した彼が発した言葉はその一言だった。  彼を支えるために、寝る間も惜しんで働き続けた三年。  望むままに支援金を送って、自らの生活さえ切り崩してでも支えてきたのは……また彼に会うためだったのに。  なのに、なのに貴方は……私を遠ざけるだけではなく。  妻帯者でありながら、この王国の姫と逢瀬を交わし、彼女を愛していた。  そこにはもう、私の居場所はない。  なら、それならば。  貴方の傍に幸せがないのなら、私の選択はただ一つだ。        ◇◇◇◇◇◇  設定ゆるめです。  よろしければ、読んでくださると嬉しいです。

処理中です...