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16章
翠雨の後 23
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どんなに耳を澄ましても――
竹林を通り抜ける風の音しかしなかった。
月影寺には、清涼な気が隅々まで満ちている。
「……静かだ」
こんな夜はいつぶりだろう。
モデル事務所近くに用意されたマンションは、僕にとって居心地の良い場所ではなかった。行動の全てを監視されているような閉塞感に、ここ最近はずっと悩まされていた。
それに夜になると、人工的な灯りがチカチカしてうるさかった。真夜中でも人の話し声やバイクや救急車の音が部屋まで届くので、何度も安眠を妨げられた。
ニューヨークでも繁華街の近くに住んでいたので大丈夫だと思ったが、一人でいると周囲の音が気になって仕方がない。
僕は、ただ……いつも顔を上げて堂々としていたかっただけなのに。
年齢を重ねれば重ねるほど、洋兄さんが感じていたのと同様の苦悩をひしひしと感じるようになった。サマーキャンプで犯されそうになったのが決定打だったかもしれない。
綺麗に整い過ぎた女のような顔立ちが、辛かった。
だから自分に自信を持ちたくて、顔を上げて生きて行くために意気込んでモデルという世界に飛び込んだ。なのに顔が売れれば売れるほど、また違う意味で息苦しくなってしまった。
ビリーとの件を今更すっぱ抜かれるなんて、何度考えても悪質だ。
いよいよ誰も信じられなくなってしまったよ。
洋兄さんと丈さん、翠さんと流さん、安志さんしか、今の僕は信じられない。
あてもなく月影寺の庭を歩いていると、中庭の池に月が浮いていた。
手を伸ばせば届きそうな月。
物言わぬ静かな月を眺めていると、また溜め息が漏れる。
「もっと軽やかに飛び越えるつもりだったのに、ハードルを越えて一気に走り抜けるイメージだったのに、現実は上手くいかないな」
池を半周ほど歩いた所で、突然月が雲に隠れてしまった。
まるで今の僕みたい。
輝きを失って、進むべき方向を見失ってしまった僕のよう。
視界が急に狭くなり困惑していると、突然脇から人が飛び出てきてぶつかりそうになった。
「わっ!」
「驚いたな、人がいるなんて」
「誰?」
月が雲から出てくると、憂いを帯びた優しい顔が現れた。
まだ体の出来上がっていない華奢な少年だった。
「えっ?」
翠さんにとてもよく似た顔だちだったので、驚いた。
「えっと……翠さん……じゃないですよね」
「翠は父で、オレは息子の薙! あなたには一度会ったことが……」
「あぁ、薙くんか。以前クリスマスに月影寺で……でもゆっくり話すのは初めてだね。月影寺に何度か来たけれども、君はいつもいなかったから」
「あぁ、タイミング合わなくて……涼さんが来る時に限って学校の合宿や友だちと出掛けていたりして……改めて驚いたよ。涼さんって本当に洋さんによく似てるんだな」
少し話して、すぐに感じた。
翠さんのような顔立ちなのに、雰囲気は流さんに似ている。
「ん? 何?」
「いや、なかなかハキハキしてるなって」
「あー オレ、サバサバしてるって言われるよ。性格はガッツリ流さん似。そういう涼さんも、洋さんと性格が違うみたい」
「分かる?」
「分かる! なんかホッとする」
「ん?」
「オレさ、父さん似だから皆、中身も父さんだって期待されるんだけど、そうじゃないからさ……なんか本当のオレを偽っているような気がして」
薙くんの話は、まさに今の僕が感じていたことだ。
「僕も同じだよ。上辺の僕しか見ていない人たちが大勢いて……辛くてね」
「あのさ、あんなニュース気にしなくていいと思う! 勝手に言わせておけって感じだよ。大事に自分は、大事な人が理解してくれていたらいいんじゃないか」
驚いた!
僕より年下の子に、ハッキリ言ってもらえるなんて。
「薙くん、僕もそう思う。あぁ、なんだか思いっきり走りたい気分だよ。ハードルを越えたい!」
「じゃあ走ろうぜ! って馴れ馴れしかった?」
「いや、涼と呼んでいいよ」
「じゃ、オレは薙で。行こうぜ。走るのにいいコースがあるんだ」
薙くんが走り出すと、周りの木々がまるで薙ぎ倒されていくように見えた。
目の錯覚か……
でも、すごく爽快だ。
走ろう、走りたい。
体を動かして、このもやもやした気持ちを吹き飛ばしたい!
「こっちさ!」
薙が指さす方向には、飛び越えるのにちょうどいい生垣が点々と続いていた。
「亡くなった祖父さんの趣味だったさ、オレにはハードルに見えるけど」
「なるほど、これがいいコースか!」
「父さんには内緒な!」
「了解!」
薙が見本を見せるようにタタッとダッシュして、軽やかに飛び越えていく。
僕もすぐに後に続く。
飛び越えるほどに体は軽く、心も軽くなっていくようだった。
薙の後ろをついて飛び越えていると、突然、真横に人の気配がした。
同じタイミングで一緒に飛び越えてくれる影が!
竹林を通り抜ける風の音しかしなかった。
月影寺には、清涼な気が隅々まで満ちている。
「……静かだ」
こんな夜はいつぶりだろう。
モデル事務所近くに用意されたマンションは、僕にとって居心地の良い場所ではなかった。行動の全てを監視されているような閉塞感に、ここ最近はずっと悩まされていた。
それに夜になると、人工的な灯りがチカチカしてうるさかった。真夜中でも人の話し声やバイクや救急車の音が部屋まで届くので、何度も安眠を妨げられた。
ニューヨークでも繁華街の近くに住んでいたので大丈夫だと思ったが、一人でいると周囲の音が気になって仕方がない。
僕は、ただ……いつも顔を上げて堂々としていたかっただけなのに。
年齢を重ねれば重ねるほど、洋兄さんが感じていたのと同様の苦悩をひしひしと感じるようになった。サマーキャンプで犯されそうになったのが決定打だったかもしれない。
綺麗に整い過ぎた女のような顔立ちが、辛かった。
だから自分に自信を持ちたくて、顔を上げて生きて行くために意気込んでモデルという世界に飛び込んだ。なのに顔が売れれば売れるほど、また違う意味で息苦しくなってしまった。
ビリーとの件を今更すっぱ抜かれるなんて、何度考えても悪質だ。
いよいよ誰も信じられなくなってしまったよ。
洋兄さんと丈さん、翠さんと流さん、安志さんしか、今の僕は信じられない。
あてもなく月影寺の庭を歩いていると、中庭の池に月が浮いていた。
手を伸ばせば届きそうな月。
物言わぬ静かな月を眺めていると、また溜め息が漏れる。
「もっと軽やかに飛び越えるつもりだったのに、ハードルを越えて一気に走り抜けるイメージだったのに、現実は上手くいかないな」
池を半周ほど歩いた所で、突然月が雲に隠れてしまった。
まるで今の僕みたい。
輝きを失って、進むべき方向を見失ってしまった僕のよう。
視界が急に狭くなり困惑していると、突然脇から人が飛び出てきてぶつかりそうになった。
「わっ!」
「驚いたな、人がいるなんて」
「誰?」
月が雲から出てくると、憂いを帯びた優しい顔が現れた。
まだ体の出来上がっていない華奢な少年だった。
「えっ?」
翠さんにとてもよく似た顔だちだったので、驚いた。
「えっと……翠さん……じゃないですよね」
「翠は父で、オレは息子の薙! あなたには一度会ったことが……」
「あぁ、薙くんか。以前クリスマスに月影寺で……でもゆっくり話すのは初めてだね。月影寺に何度か来たけれども、君はいつもいなかったから」
「あぁ、タイミング合わなくて……涼さんが来る時に限って学校の合宿や友だちと出掛けていたりして……改めて驚いたよ。涼さんって本当に洋さんによく似てるんだな」
少し話して、すぐに感じた。
翠さんのような顔立ちなのに、雰囲気は流さんに似ている。
「ん? 何?」
「いや、なかなかハキハキしてるなって」
「あー オレ、サバサバしてるって言われるよ。性格はガッツリ流さん似。そういう涼さんも、洋さんと性格が違うみたい」
「分かる?」
「分かる! なんかホッとする」
「ん?」
「オレさ、父さん似だから皆、中身も父さんだって期待されるんだけど、そうじゃないからさ……なんか本当のオレを偽っているような気がして」
薙くんの話は、まさに今の僕が感じていたことだ。
「僕も同じだよ。上辺の僕しか見ていない人たちが大勢いて……辛くてね」
「あのさ、あんなニュース気にしなくていいと思う! 勝手に言わせておけって感じだよ。大事に自分は、大事な人が理解してくれていたらいいんじゃないか」
驚いた!
僕より年下の子に、ハッキリ言ってもらえるなんて。
「薙くん、僕もそう思う。あぁ、なんだか思いっきり走りたい気分だよ。ハードルを越えたい!」
「じゃあ走ろうぜ! って馴れ馴れしかった?」
「いや、涼と呼んでいいよ」
「じゃ、オレは薙で。行こうぜ。走るのにいいコースがあるんだ」
薙くんが走り出すと、周りの木々がまるで薙ぎ倒されていくように見えた。
目の錯覚か……
でも、すごく爽快だ。
走ろう、走りたい。
体を動かして、このもやもやした気持ちを吹き飛ばしたい!
「こっちさ!」
薙が指さす方向には、飛び越えるのにちょうどいい生垣が点々と続いていた。
「亡くなった祖父さんの趣味だったさ、オレにはハードルに見えるけど」
「なるほど、これがいいコースか!」
「父さんには内緒な!」
「了解!」
薙が見本を見せるようにタタッとダッシュして、軽やかに飛び越えていく。
僕もすぐに後に続く。
飛び越えるほどに体は軽く、心も軽くなっていくようだった。
薙の後ろをついて飛び越えていると、突然、真横に人の気配がした。
同じタイミングで一緒に飛び越えてくれる影が!
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