重なる月

志生帆 海

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13章

解き放て 19

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 洋くんがソウルに行ってから数日が過ぎた。丈から様子を聞いたり、僕も直接電話で話したが、毎日充実しているようで安堵した。

 僕はいつも通り、本堂での座禅を終え母屋に戻って来た。ところが流の姿がどこにも見えなかった。

「流……どこだ?」

 食卓の机の上に僕と薙の昼食がきちんと準備してあるのを見て、ようやく思い出した。

「あっ、そうか……横浜に行っているのか」

 今日は久しぶりに法要のない日曜日だったので、リフォーム工事の打ち合わせで横浜のショールームに、設計事務所の担当の人と行くと言っていたな。ついでに帰り道に専門店で画材や筆なども購入するから少し遅くなるとも。

 芸術肌の流は、本当に多才だ。ようやく着工しだした僕たちの家には流専用のアトリエを作る予定だ。今までは茶室に隣接したほったて小屋で陶芸や絵付けをしていたので、これでやっと報われるな。雨の日は特に酷かったものな。茶室も小屋も雨漏りだらけで、もう限界だった。

 流はきっと喜ぶだろう。きっと明るく嬉しそうに笑ってくれるだろう。

 流の喜ぶ顔を見るのが、ずっと前から大好きだった。弟の大らかな笑顔が、僕をどんなに今まで癒してくれたのか、励ましてくれたのか。
 
 ふと和室に目をやると、先日ここで流に突然キスをされたことを思い出して、カッと躰が熱くなってしまった。

 こんな日中からそのようなことを思い出すなんて、本当に僕は少しでも流の姿が見えないと駄目になってしまうと痛感した。
 
「父さん、腹空いたけど飯まだ?」
「あっ薙、今日は流は出かけていて……」
「だからか、いつもならこの時間には台所からいい匂いがしてくるのに」
「ん、これ温めればいいんじゃないかな」
「かつ丼か! 美味しそうだな。父さん、オレがレンジで温めるから座っていてよ」
「ありがとう」

 すっかり頼もしくなった薙の様子を、目を細めて見つめた。同時に日曜日の昼下がり、息子と一緒に昼食を食べられるのが幸せだと思った。

「美味しいね、父さん」
「あぁ、流の料理は流石だな」

 かつ丼の出汁の塩梅が良くて美味しかった。育ち盛りの薙も大満足のようでパクパクと食べている。

「そうだ、父さん、宿題手伝ってよ」

 珍しいな。僕に手伝いを頼むなんて。いつもは洋くんに勉強を見てもらっているのに……そうか、今は彼がいないからなのかな。

「もちろんいいよ。何をみればいい? 英語? 古文?」

 僕は勉強は昔から得意で、流にもいつも教えてあげた。あの時、流が何度もさりげなく僕のことを見つめていたことを、ふと思い出した。

「それがね、家庭科の授業で、雑巾を縫わないといけないんだ。でも、父さんなら出来るよね」
「え……雑巾か。明日提出なのか」
「うん、そう」

 お世辞にも上手じゃない。だが、せっかく薙が頼ってくれた気持ちを無下に出来なくて、つい見栄を張ってしまった。


****

「痛っ!」

 針先が指先にあたり、血が少し滲み出た。

「わっ! 父さん、また刺しちゃったの? もういいよ。俺の方がマシかも」
「いや、この位大丈夫だ」
「でもこれ以上怪我したら……流さんにオレが怒られるよ」
「馬鹿だなぁ、流はそんなに心が狭い男じゃないよ、ほら貸して、続きを縫ってあげよう」

 大人げなくムキになってしまう自分に苦笑した。しかし雑巾一枚縫えないとは参ったな。これはきっと僕の修行が足りないせいだ。流は手先が器用で、僕が身に纏う袈裟も和服も何でも縫ってしまうのに……やはり僕は日々流に頼りすぎだ。せめて息子のこと位、自分でやってやりたい。

 昼下がり、一目一目にすごい時間をかけながら、雑巾縫いに夢中になっていた。隣で薙はスマホを片手に、欠伸をしていた。

「父さん~、ねぇ、まだ? 」
「うーん、まだ半分」
「えぇ!? それじゃ日が暮れちゃうよ」
「一体何をやっているんですか」

 その時第三者の声がしたので薙と共にその声の主を探すと、丈だった。日曜日なのに朝食時に急患で呼び出されてしまったが、やっと解放されたらしい。

「あっ丈さん。実は父さんが縫物の宿題を手伝ってくれているんだけど、それが……」
「あぁ、翠兄さんには難しいでしょう。どれ貸してみてください」

 丈に雑巾を針ごと取り上げられてしまった。だが、いつもなら会話に交じってこない丈の滅多にない申し出だから、ありがたく受け入れることにした。

「あぁ、なるほど。まず兄さんの手の大きさと針の大きさが合っていませんね。それから指貫のはめ方もなってないですよ。指貫は中指第一関節と第二関節の間にはめます。少しきつ目のものがおすすめです」
「あぁ……こうなの?」
「そうです。それから針の持ち方の基本もあるんです。親指と人差し指をよく伸ばして針先を持って……」

 その後も、胸をはらず肩の力を抜き楽な姿勢でとか、腕の位置まで事細かく注意されてしまった。その時点でもうヘトヘトになってしまった。もうとても運針までは無理そうだ。

「分かったが……まずは丈が見本を見せてくれないか」
「はぁ、いいですよ。よく見ていてください」

 そう言いながら丈が針を持つと、顔つきがぐっと引き締まった。そのまま綺麗な所作でリズミカルに正確に緻密にハイスピードに、あっという間に雑巾が縫いあがってしまった。まるで魔法のようだった。

「すごい! 丈さんは流石外科医だ!」

 薙が興奮して手を叩いた!

「丈さんみたいに指先が器用な人の手、腕のよい手術医のことを、確か『ゴッドハンド』って言うんだよな!」
「ゴッドハンド……?」

 丈と僕の声が重なった。

 それから丈は今までに見たことがない程、得意げに、こう言った。

「洋にも、そう褒められたばかりです」


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