重なる月

志生帆 海

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12章

愛しい人 8

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「久しぶりね、翠さん」
「……彩乃さん」
 
 飛行機は定刻通り羽田空港に到着したようで、空港の夜景を背に彩乃さんはピンと背筋を伸ばして立っていた。

「……お帰りなさい、なのかな」
「さぁどうかしら。とにかく助かったわ。あなたが迎えに来てくれて」
「車を停めてあるから、スーツケース貸して」

 彩乃さんのスーツケースを押しながら人混みを避けて歩き出すと、するりと彩乃さんの手が僕の腕に絡まったので、思わず身体が強張ってしまった。

「ねぇ翠さん、私たちって周りから見れば、普通の夫婦かカップルにまだ見えるわよね」
「さぁ……どうかな。僕たちは離婚しているのが事実だが」
「またそんな固いことを言って、あなたは変わらないわね。あら、でも少し雰囲気が変わった? 」

 ギクリとする。勘がいい彼女のことだ。しかも昔から僕と流の兄弟仲が良すぎる事をよく思っていなかった節もあるので、気を付けないと。

「何かあったの? 私がいない間に」
「……何も! 」

 空港で言い争う訳にも行かない。とりあえず素知らぬ振りを通した。

「彩乃さん、今晩……月影寺に本当に宿泊するのか」
「当たり前よ。大事な息子に会いたいし、あなたともゆっくりね」

 含みを持った言葉に、返す言葉が見つからない。とりあえず数日の我慢だ。そう思ってハンドルを握る手に力を込めた。

「丁寧な運転ね。相変わらず。いつも馬鹿丁寧すぎて、刺激が足りなかったのよね。私……」
「……」

 返す言葉が見つからない。夫婦の営みのことを言っているのだろう。そうだ。全部僕が悪い。逃げるように見合い結婚をした僕のせいだ。
 
 北鎌倉の地から、とにかくあの時は離れたかった。離れないとあのままでは、流の将来が駄目になると思っていたから。

 そのことしか考えていなかったことに罪悪感を覚え、彩乃さんを抱くときはひたすら丁寧に抱いた。僕の方から積極的に求めることはなく、ただ彩乃さんから求められたら素直に応じた。そんな違和感のある結婚生活は歪みを生み、結局長くは続かなかった。

 心の支えだった流が冷たくなって、そのことで僕はボロボロになって、次第に夫として婿養子としての務めが出来なくなってしまったのだ。彩乃さんがこうなってしまったのは全部僕のせいだ。

 優柔不断で彩乃さんを心の隠れ蓑にしてしまった僕のせいだ。

「いつも……いつもすまなそうな顔していたわ。翠さんは……」

 車窓に広がる横浜の宝石箱のような夜景を見ながら、彼女は呟いた。

「ねぇ、まっすぐ行かないで」
「え? 」
「ホテルに寄らない? 」
「どういう意味? 」
「くすっ野暮ね」
「困るよ。そういうのはもう……皆、月影寺で待っているのに」
「一時間や二時間到着が遅れても、問題ないわ」
「僕には、問題だ」
「まぁ、ひどいじゃない! 女性から誘っているのに」

 彩乃さんの手がハンドルに伸びてきて、高速から降りるように指図する。

「危ない! 手をどけて!」
「翠さんが言うことを聞いてくれたらやめるわ」

 高速道路で何て危険なことを。

 彼女は、ここまで強引だったろうか。結局彼女の言うなりに、側道のホテルへと入ることになってしまい不本意だった。

「はぁ、どうしてこんなに強引なことを」
「だって、癪なんですもの。翠さんってば、私がいない間に綺麗になったから」
「いっ一体何を? それは男に使うべき言葉じゃないよ」
「何があったの? 誰か好きな人ができたの? 今、付き合っている人がいるの?」

 畳みかけるように質問されながら、流が着せてくれたセーターを脱がされ、下着の中に手を入れられる。

 赤く長い爪先が胸元を引っ掻く。

 その瞬間、僕は気が付いた。

 もう流されてはいけない。

 以前のように彼女を抱くことは出来ない。

 それは彼女を深く傷つける行為であると共に、流を裏切る行為でもあると。

「やめてくれ! 僕にその気はない!」
「じゃあなんでここまで来るのよ。私に恥をかかせるの? 翠さん」
「恥をかかせるとかそういうことではない。僕はもうあなたを抱けない。無理だ。こんなにも心が離れてしまっているのに」

 彩乃さんは、いつでも言いなりだった僕の初めてともいえる反抗に唖然としていた。僕は今まで何をしてきたのだろうか。意思をもたない人間のように彼女と、薙と過ごしてきて……これでは……嫌われるのも当然だ。

「翠さん……あなた……? 」

 言葉を失った彼女の顔色は、蒼白だった。

「あなた変わったのね。もう私の言いなりにならないのね」
「彩乃さん……すまない。今まで悪かった」
「なんか私、馬鹿みたい。ずっと一人芝居していたみたいで」
「そんなことない。あなたはひたむきだった」
「私はどんなにひたむきになっても、あなたは熱くならなかったのに、何があなたをそうさせたの? 」
「……ごめん。言えない。でも僕は変わったのかもしれない」
「もうっ! やっとあなたが熱くなることを知って、よかったのか、悪かったのか……目覚めさせたのが私じゃなかったのが悔しい」

 素直で率直な感想を、彩乃さんは呟き捨てた。

 彼女は僕の犠牲者だ。優柔不断の僕が彼女を不幸にした。

「彩乃さんのことは、今でも尊敬しているよ。テキパキと物事をこなし、決断力もリーダーシップもあって。薙が強い子に育ったのは、あなたのお陰だ」
「言わないでよ……もう。私、あなたのこと好きだったのよ」
「すまない」
「もう、いいわよ。本当は敵わないって知っていたから。あなたの心の奥底に眠る人には」
「え……」
「どこの誰か知らないけれども……翠さんが変わるきっかけが出来たのね。あぁもう私ってば、恥ずかしい」
「彩乃さん、君は……」

 僕の心に眠る人の存在に気が付いていたのか。そうだったのか。

「ついに幸せになったの? 」
「……あぁ」
「そっか……じゃあ私も前に進まないとね」

 彩乃さんの手が再び僕に触れた。今度はあんな強引ではなく優しくそっと。 すっと目元を拭われて、初めて僕の目に涙が浮かんでいることに気が付いた。

「泣くほど大事な相手なんだ」
「……すまない」

 もう詫びることしか出来なかった。彼女の人生を滅茶苦茶にしたのだから……

 僕は頭を垂れた。謝罪しか出来なかった。

「顔をあげてよ。本当はね……翠さんの心に誰かが住み着いていることを最初から知っていたの。鎌倉から逃げたがっていたことも。何もかも承知の上で、私が勝手に決めた結婚だったの。私の色で塗りつぶせば大丈夫だと思ったけど、手ごわい相手だったみたいね。きっと前世からの因縁かしら。悔しいけど、それじゃ……敵わないわ」

 そう言いながら、強気な彼女の目からも涙が零れ落ちた。

 流と僕との絆は、確かに前世からの繋がりだ。そんな風に何もかも受け止めて、流そうとしてくれている彩乃さんの姿が、眩しかった。

「ありがとう。本当にすまなかった……彩乃さん……」













あとがき (不要な方はスルーで)

****

志生帆海です。こんにちは。
いつも読んでくださってありがとうございます。
彩乃さんと翠との男女の関係に関しては、正直いろいろなご意見があるとか思いますが、物語上のことですので、どうかご理解くださいませ。
物語はどんどん進んでいきます。


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