重なる月

志生帆 海

文字の大きさ
上 下
836 / 1,657
11章

いにしえの声 4

しおりを挟む
「翠さん、さっきは、その……すいませんでした」

 一宮屋からの道すがら、翠さんの胸で泣いてしまったことが恥ずかしくなって、宿坊に戻って布団を敷きながら謝った。

「何を謝る? 涙が出て良かったと思うよ。洋くんが泣きたい時に泣けるようになって、良かったと」

「……翠さんは優しすぎます」

「そんなことない。僕は酷い奴だよ。いろいろと……変に意固地で随分遠回りさせた」

 誰とのことを言っているのか、それは言わなくても分かる。

 でも遠回りには、きっと意味があったはずだ。

 急いだら……手に入らなかったものかもしれないから。

「それより明日は朝から仕事なので、宇治方面や大鷹屋の資料館に同行できないんです。どうしますか。また出直しますか」

「いや大丈夫だよ。ひとりでいろいろ探してみるよ」

「でも……大丈夫かな。なんだか心配です」

「ははっ、洋くん、僕は傍から見ればもう38歳のおじさんだよ。何も心配はいらない」

 いやいや全然そんな歳に見えないし、むしろ前より色気が出て来て危ない。俺が言うのもなんだけど、本当にそう思う。

「……何でも流さんに相談した方がいいと思います。ひとりで決めないで。あっすいません。俺、また余計なことを」

 しまった! 目上の人に向かって偉そうに……と後悔したが、翠さんは嬉しそうに微笑んでくれた。

「洋くん、そんな風に心配してくれて嬉しいよ。僕たちはどんどん本物の兄弟のようになってきているね」

「そんなっ、偉そうなことを言ってしまったのに」

「いや、君はもう僕の弟だなってしみじみと思ったよ。分かった。助言通りに流には相談するよ」

「良かった。ほっとします」

「それより明日の準備はいいの? 持ち物とかスケジュールの確認をもう一度した方がいいね」

「はい。翠さんは先に休んでいてください」

「ゆっくり準備して。僕は流に電話しているよ」

 今度は俺が素直にその意見に従った。

 窓辺に座って電話をする翠さんの横で、明日の仕事に向けて準備を始めた。

 初めての仕事だ。失敗するわけにはいかない。この仕事がうまくいけば、医療系の仕事に就きやすくなる。それは丈との距離が近づくことを意味しているから。

 もう少し医学用語を確認しておこうと思い、丈が用意してくれた資料を取り出して、読み込んでいく。後はノートパソコンの充電も忘れずに。

 一気に自分の世界へと集中していった。

****

 北鎌倉、月影寺。

「よーっし、薙はそろそろ寝る時間だ」
「えーもう?」

 時刻は22時……

 そろそろ翠も部屋に戻っているだろう。

 あれから薙の様子は落ち着いていた。

 朝あんな風に泣くなんて驚いたが、心に溜まっていたものを吐き出せたようで、すっきりした様子で登校したので、ほっとした。

 下校した薙と二人で飯を食ってから、居間でテレビを観たりして寛いだ。

 翠の息子はツンツンしているが一度懐に入れてしまえば、翠に似て優しい心根を持っている。それを知っているから、俺も実の息子のように可愛がっている。父親に素直になれないのがもどかしいのだろう。母親も遠くにいるし……甘えたかった気持ちが押し寄せたのだろう。

 激しいが綺麗な心を持っている。
 この先……曲がらないように育ててやりたい。

「さぁ部屋に戻れ」
「えーまだいいじゃん」
「おいおい…そうだ! 明日の午後は一緒に工房で陶芸でもやってみるか」
「えっいいの?」
「あぁ」
「やった!オレ習ってみたかった」
「じゃあもう早く寝ろ」
「うん、分かった!おやすみなさい」

 モノで釣るようで申し訳ないが、手っ取り早いと思った。薙が部屋に戻ったのを確認して、俺は洗い物や明日の朝食の下準備をササッと済ませた。

 ようやく翠と話せる。

 俺の翠と。

 まだ離れて過ごすのに耐えられない。

 それを今回の旅で実感した。

 翠を俺の腕の中にずっと閉じ込めておきたくなる。

 手離せないんだ、少しの間も。

 今度京都へ行く時は一緒に連れて行ってくれよ。

 頼むから俺の傍にいてくれ。
 
 不安なんだ。翠の姿が見えないと──





しおりを挟む
感想 54

あなたにおすすめの小説

記憶を失くした彼女の手紙 消えてしまった完璧な令嬢と、王子の遅すぎた後悔の話

甘糖むい
恋愛
婚約者であるシェルニア公爵令嬢が記憶喪失となった。 王子はひっそりと喜んだ。これで愛するクロエ男爵令嬢と堂々と結婚できると。 その時、王子の元に一通の手紙が届いた。 そこに書かれていたのは3つの願いと1つの真実。 王子は絶望感に苛まれ後悔をする。

執着攻めと平凡受けの短編集

松本いさ
BL
執着攻めが平凡受けに執着し溺愛する、似たり寄ったりな話ばかり。 疲れたときに、さくっと読める安心安全のハッピーエンド設計です。 基本的に一話完結で、しばらくは毎週金曜の夜または土曜の朝に更新を予定しています(全20作)

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

もう人気者とは付き合っていられません

花果唯
BL
僕の恋人は頭も良くて、顔も良くておまけに優しい。 モテるのは当然だ。でも――。 『たまには二人だけで過ごしたい』 そう願うのは、贅沢なのだろうか。 いや、そんな人を好きになった僕の方が間違っていたのだ。 「好きなのは君だ」なんて言葉に縋って耐えてきたけど、それが間違いだったってことに、ようやく気がついた。さようなら。 ちょうど生徒会の補佐をしないかと誘われたし、そっちの方に専念します。 生徒会長が格好いいから見ていて癒やされるし、一石二鳥です。 ※ライトBL学園モノ ※2024再公開・改稿中

もう、いいのです。

千 遊雲
恋愛
婚約者の王子殿下に、好かれていないと分かっていました。 けれど、嫌われていても構わない。そう思い、放置していた私が悪かったのでしょうか?

君のことなんてもう知らない

ぽぽ
BL
早乙女琥珀は幼馴染の佐伯慶也に毎日のように告白しては振られてしまう。 告白をOKする素振りも見せず、軽く琥珀をあしらう慶也に憤りを覚えていた。 だがある日、琥珀は記憶喪失になってしまい、慶也の記憶を失ってしまう。 今まで自分のことをあしらってきた慶也のことを忘れて、他の人と恋を始めようとするが… 「お前なんて知らないから」

彼女にも愛する人がいた

まるまる⭐️
恋愛
既に冷たくなった王妃を見つけたのは、彼女に食事を運んで来た侍女だった。 「宮廷医の見立てでは、王妃様の死因は餓死。然も彼が言うには、王妃様は亡くなってから既に2、3日は経過しているだろうとの事でした」 そう宰相から報告を受けた俺は、自分の耳を疑った。 餓死だと? この王宮で?  彼女は俺の従兄妹で隣国ジルハイムの王女だ。 俺の背中を嫌な汗が流れた。 では、亡くなってから今日まで、彼女がいない事に誰も気付きもしなかったと言うのか…? そんな馬鹿な…。信じられなかった。 だがそんな俺を他所に宰相は更に告げる。 「亡くなった王妃様は陛下の子を懐妊されておりました」と…。 彼女がこの国へ嫁いで来て2年。漸く子が出来た事をこんな形で知るなんて…。 俺はその報告に愕然とした。

【完結】失いかけた君にもう一度

暮田呉子
恋愛
偶然、振り払った手が婚約者の頬に当たってしまった。 叩くつもりはなかった。 しかし、謝ろうとした矢先、彼女は全てを捨てていなくなってしまった──。

処理中です...