245 / 1,657
第5章
太陽の影 2
しおりを挟む
ソウル……
あの不思議な過去との出会いと別れから五年の月日が流れたが、俺と丈はそのまま丘の上の一軒家にまだ住み続けている。もう義父から逃げる必要もなく、日本へ戻ることも出来たが、俺はその道を選ばなかった。
ここソウルで新しい出発をしたかった。過去の俺のことを誰も知らない国で一から始めたかった。生まれ変わったように生きたかった。丈と気兼ねなく二人きりで過ごしたかった。
仕事も終わり、丈の待つ俺たちの家にバスで戻る。バスの窓から見える夜景はキラキラと星空のように瞬いている。坂の上にあるバス停まではかなりの坂道なので、まるで夜空へ駆け上っているような錯覚にいつも陥ってしまう。
俺が戻る場所はただ一つ。
丈の元。
それだけだ。
それだけでいい。
「ただいま」
「お帰り、洋遅かったな」
「ああ、今日はホテルのレセプションの通訳で時間が延長した」
「そうか疲れただろう。シャワー浴びて来いよ。夕食の準備しておくから。まだ食べていないだろう? 」
「うん、お腹空いた」
「ふっいつものセリフだな」
俺は語学学校を卒業し、英語、日本語、韓国語が出来るということで通訳としての仕事を始めた。kaiの働くホテル専属ということでホテル内で働くことが主なので、何かと安心だ。今日は少し遅くまでかかってしまったが、順調に仕事をこなすことが出来た。
ここに来た当初は丈に守ってもらうだけの日々だったが、義父のことや過去の謎も解け、俺はこの五年間で少しはしっかりしたと思う。
シャワーを浴びて、髪を拭きながらキッチンへ行くと、すかさず丈が炭酸水を出してくれたのでゴクゴクと飲み干すと一日の疲れが吹き飛んだ。
「ありがとう。本当に気が利くな。丈は今日も忙しかったか」
「あぁそれなりにな」
丈は今はソウルの病院で医師として働いている。俺がこの国の言葉を教えてやると、あっという間に習得してしまった。そういうわけで二人ともちゃんと定職に付けたので、パスポートの問題もなくなり、この国で安心して暮らせている。
きっとこのままずっと、丈とこの地で時を重ねていくだろう。
「そうだ……洋に手紙が来ていたぞ」
「珍しいな。誰からだろう」
「……ほら」
丈が少し神妙な顔つきになった。手渡された手紙の差出人を見て、俺も少しだけ嫌な気持ちを抱いてしまった。いつまでもこんなことじゃ駄目なのに暗い溜息が出てしまった。
「……父さんからか。この時期になると必ず誘ってくるんだ」
「何を?」
「夏休みにアメリカの別荘へ来ないかと」
「へぇ向こうに別荘を持っているのか」
「マンハッタンから三時間ほどの長閑な町だよ。俺が学生の頃、夏休みには必ず連れて行かれた……場所だよ」
別荘の前の敷地は、サマーキャンプ施設になっていた。バンガローに泊まっている学生の楽しそうなはしゃぎ声や、池で釣りをするにぎやかな声を思い出す。
俺はその頃、今よりずっと周りを警戒していたので友人と呼べるような奴もいなくて、孤独だった。父からの不可解な執拗な視線にも怯え、身の置き場がなかった。
別荘の部屋に籠り、外から聞こえてくる楽しそうな声に、じっと耳を傾けていた。
「……まだ会えないのか」
「あぁ、まだ……駄目みたいだ」
義父に犯され、丈と逃亡して来てからもう五年も過ぎたのに……。義父が銃で撃たれ意識不明の重体に陥ってしまった時、俺は一度義父のもとへ戻った。そして下半身不随になった姿に心を痛め許そうと努力した。
俺にしたあの惨い行いを……慈雨の涙によって。
だが結局五年経っても……父の顔をもう一度見たいとは思えなかった。
父からの手紙には「一日……いや一時間でいいから顔を見せて欲しい」と書かれていた。
この手紙はあれから毎年届いたが、いつも破り捨てていた。あの時は許せそうになったのに……やはり心の奥底の傷は何かの拍子で疼きだすので、ニコニコ笑って父のもとへ遊びにいける状態ではなかった。
「無理するな、洋のしたいようにすればいい」
「丈、ありがとう……」
丈は相変わらず優しい。その包み込むような大きな優しさは出会った時から何も変わらない。ぶれない強さ……暖かさを持っているから、傍にいると心が本当に落ち着くよ。
あの不思議な過去との出会いと別れから五年の月日が流れたが、俺と丈はそのまま丘の上の一軒家にまだ住み続けている。もう義父から逃げる必要もなく、日本へ戻ることも出来たが、俺はその道を選ばなかった。
ここソウルで新しい出発をしたかった。過去の俺のことを誰も知らない国で一から始めたかった。生まれ変わったように生きたかった。丈と気兼ねなく二人きりで過ごしたかった。
仕事も終わり、丈の待つ俺たちの家にバスで戻る。バスの窓から見える夜景はキラキラと星空のように瞬いている。坂の上にあるバス停まではかなりの坂道なので、まるで夜空へ駆け上っているような錯覚にいつも陥ってしまう。
俺が戻る場所はただ一つ。
丈の元。
それだけだ。
それだけでいい。
「ただいま」
「お帰り、洋遅かったな」
「ああ、今日はホテルのレセプションの通訳で時間が延長した」
「そうか疲れただろう。シャワー浴びて来いよ。夕食の準備しておくから。まだ食べていないだろう? 」
「うん、お腹空いた」
「ふっいつものセリフだな」
俺は語学学校を卒業し、英語、日本語、韓国語が出来るということで通訳としての仕事を始めた。kaiの働くホテル専属ということでホテル内で働くことが主なので、何かと安心だ。今日は少し遅くまでかかってしまったが、順調に仕事をこなすことが出来た。
ここに来た当初は丈に守ってもらうだけの日々だったが、義父のことや過去の謎も解け、俺はこの五年間で少しはしっかりしたと思う。
シャワーを浴びて、髪を拭きながらキッチンへ行くと、すかさず丈が炭酸水を出してくれたのでゴクゴクと飲み干すと一日の疲れが吹き飛んだ。
「ありがとう。本当に気が利くな。丈は今日も忙しかったか」
「あぁそれなりにな」
丈は今はソウルの病院で医師として働いている。俺がこの国の言葉を教えてやると、あっという間に習得してしまった。そういうわけで二人ともちゃんと定職に付けたので、パスポートの問題もなくなり、この国で安心して暮らせている。
きっとこのままずっと、丈とこの地で時を重ねていくだろう。
「そうだ……洋に手紙が来ていたぞ」
「珍しいな。誰からだろう」
「……ほら」
丈が少し神妙な顔つきになった。手渡された手紙の差出人を見て、俺も少しだけ嫌な気持ちを抱いてしまった。いつまでもこんなことじゃ駄目なのに暗い溜息が出てしまった。
「……父さんからか。この時期になると必ず誘ってくるんだ」
「何を?」
「夏休みにアメリカの別荘へ来ないかと」
「へぇ向こうに別荘を持っているのか」
「マンハッタンから三時間ほどの長閑な町だよ。俺が学生の頃、夏休みには必ず連れて行かれた……場所だよ」
別荘の前の敷地は、サマーキャンプ施設になっていた。バンガローに泊まっている学生の楽しそうなはしゃぎ声や、池で釣りをするにぎやかな声を思い出す。
俺はその頃、今よりずっと周りを警戒していたので友人と呼べるような奴もいなくて、孤独だった。父からの不可解な執拗な視線にも怯え、身の置き場がなかった。
別荘の部屋に籠り、外から聞こえてくる楽しそうな声に、じっと耳を傾けていた。
「……まだ会えないのか」
「あぁ、まだ……駄目みたいだ」
義父に犯され、丈と逃亡して来てからもう五年も過ぎたのに……。義父が銃で撃たれ意識不明の重体に陥ってしまった時、俺は一度義父のもとへ戻った。そして下半身不随になった姿に心を痛め許そうと努力した。
俺にしたあの惨い行いを……慈雨の涙によって。
だが結局五年経っても……父の顔をもう一度見たいとは思えなかった。
父からの手紙には「一日……いや一時間でいいから顔を見せて欲しい」と書かれていた。
この手紙はあれから毎年届いたが、いつも破り捨てていた。あの時は許せそうになったのに……やはり心の奥底の傷は何かの拍子で疼きだすので、ニコニコ笑って父のもとへ遊びにいける状態ではなかった。
「無理するな、洋のしたいようにすればいい」
「丈、ありがとう……」
丈は相変わらず優しい。その包み込むような大きな優しさは出会った時から何も変わらない。ぶれない強さ……暖かさを持っているから、傍にいると心が本当に落ち着くよ。
10
お気に入りに追加
443
あなたにおすすめの小説
十七歳の心模様
須藤慎弥
BL
好きだからこそ、恋人の邪魔はしたくない…
ほんわか読者モデル×影の薄い平凡くん
柊一とは不釣り合いだと自覚しながらも、
葵は初めての恋に溺れていた。
付き合って一年が経ったある日、柊一が告白されている現場を目撃してしまう。
告白を断られてしまった女の子は泣き崩れ、
その瞬間…葵の胸に卑屈な思いが広がった。
※fujossy様にて行われた「梅雨のBLコンテスト」出品作です。
私のドレスを奪った異母妹に、もう大事なものは奪わせない
文野多咲
恋愛
優月(ゆづき)が自宅屋敷に帰ると、異母妹が優月のウェディングドレスを試着していた。その日縫い上がったばかりで、優月もまだ袖を通していなかった。
使用人たちが「まるで、異母妹のためにあつらえたドレスのよう」と褒め称えており、優月の婚約者まで「異母妹の方が似合う」と褒めている。
優月が異母妹に「どうして勝手に着たの?」と訊けば「ちょっと着てみただけよ」と言う。
婚約者は「異母妹なんだから、ちょっとくらいいじゃないか」と言う。
「ちょっとじゃないわ。私はドレスを盗られたも同じよ!」と言えば、父の後妻は「悪気があったわけじゃないのに、心が狭い」と優月の頬をぶった。
優月は父親に婚約解消を願い出た。婚約者は父親が決めた相手で、優月にはもう彼を信頼できない。
父親に事情を説明すると、「大げさだなあ」と取り合わず、「優月は異母妹に嫉妬しているだけだ、婚約者には異母妹を褒めないように言っておく」と言われる。
嫉妬じゃないのに、どうしてわかってくれないの?
優月は父親をも信頼できなくなる。
婚約者は優月を手に入れるために、優月を襲おうとした。絶体絶命の優月の前に現れたのは、叔父だった。
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる