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quatre-vingt-trois

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 「……」
 何で?それ以外の思考が浮かばなかった。確かソウルにいたんじゃなかったっけ?別れてから連絡なんて取ってないから知らなくても当然なんだけど、他の職人さんと同様時計と向き合っている元カレを凝視してしまう。
 「夏絵ちゃん?」
 「……あっ何でもないです」
 会長に声を掛けられて我に返り、既に別の場所へと移動を始めている若社長さんと境さんに付いていく。
 「職人さんの仕事振りを見れるのはいいねぇ」
 えぇそれ自体は同意します。
 「さっきから真剣に見てたけど、職人気質の人が好みなの?」
 う~ん今そこ掘り下げてほしくないです会長。
 「自分が不器用ですので……」
 と超絶一流俳優さんみたいな返答をしてしまいました。言ってしまって何なのですが、言葉って発言する人によって重みが違うのですね。
 「そうかなぁ、僕は君の運転好きだよ」
 そう仰って頂けて光栄に存じます。
 「あと誰にも負けない怪力振りもね」
 それを言うな会長。一応は気遣って小声で仰いましたが、その後のウィンクマジで要らない。
 「今のは余計です」
 「あっそう?」
 うん、この感じだとそのうちまた言ってきそうだ。まぁ会長からしたら一応は褒め言葉のご様子なので、今日のところは受け流しておく。
 でも会長のお陰で気が紛れ、気を取り直して移動していく。今度はどこかなぁ?なんて思ってたら、【関係者以外立入禁止】と書かれているドアをガチャっと開けられた。
 「先程の実演、ここから入れるんです。お近くでご覧になってみませんか?」
 普段であれば間違いなく小躍りするところだが、今回はできればご遠慮させて頂きたい。
 「集中なさっているところをお邪魔するのはさすがに……」
 そうそう境さん、あなたがそう仰れば若社長さんだって留まって……。
 「いえ大丈夫です、事前に連絡はしてあります」
 ……はくれなかった。そりゃまぁ社長命令ですもの、本音では嫌でも一応は了承するでしょうよ仕事なんだから。
 「本当は敷居なんか外してもっと直にご覧頂きたかったんです」
 「それは職人側が引き受けないでしょう、ああいった細かい作業は集中力を要するからね。雑音を気にしないのもいるけど、基本は神経質で内向的なのが多い」
 「えぇ、雑多な視線が嫌だという反対意見もあったんです。あと技術の流用ですね、このエリアは撮影禁止とさせて頂くことにしています」
 我が社の製造部と商品開発部もそんな感じだからね。社内でも結構コソコソとしてるイメージあるもの。
 「ここからは専門知識を要しますので別の者に説明をさせます。佐伯さえきさん、お願いします」
 佐伯だと?私の体に変な緊張が走る。どうか別の方でいてと心の中で願ったが、やはりと言うか彼が作業の手を止めて立ち上がった。
 「佐伯明生と申します」
 彼は私達に向けて一礼する。元は営業課だったからこの辺りの応対は慣れていらっしゃるのね。
 「イレギュラーでお邪魔して申し訳ないですね」
 会長が代表して対応してくださる。私は顔こそ彼に向けていたけど、なるべく視線を合わせないよう努めていた。
 「職人の技をお近くでご覧ください」
 彼の案内でとんでもなくVIPなものを見せて頂けているのだが、すっかり気が散ってしまい、貴重な体験にも関わらずほとんど記憶に残せずじまいだった。

 疲れた……資料館見学を終え、会長と私は平賀時計さんをあとにした。境さんはというと、若社長さんと食事をするとかでここからは別行動。
 「あの二人上手くいくかねぇ?」
 「どうでしょうか?気は合いそうに見えましたけど」
 隣に座っている会長はう~ん、と言いながら顎を触ってらっしゃる。こういう顔なさる時って懸念材料でもあるのかしら?
 「時計のことではね。この先お付き合いを始めたとして……」
 ん~何だろう?価値観の相違とかですかねぇ?やっぱり経営者家系の坊っちゃんだと、庶民感覚なんて無さそうだよね?
 「特に金銭感覚があの二人じゃ違い過ぎる。ここだけの話にしておいてほしいんだけど、お金の苦労を知ってる塔子ちゃんがあのボンの金銭感覚にキレるかもねぇ」
 お金の苦労かぁ……私も中学で両親を亡くして、姉の給料だけでは生活できなかった時期もあったもんなぁ。
 「でも確か海外で絵の修行をなさってたんじゃ?」
 いくらいいとこの坊っちゃんでもアルバイトくらいはしてるでしょ。会社勤めの経験が無いって言っても日本で働いてないってことでしょ?
 「生活面での苦労は一切してないよ。仕送りは月に百万単位で、お手伝いさんも四~五人は付いてたんじゃないかな?それに住んでた所も高級リゾート地の別荘で、何から何まで至れり尽くせりの環境下だったからね」
 そりゃあ絵に没頭できるよ。会長はそう仰って苦笑いされている。
 「塔子ちゃんはご家庭の経済事情で高卒なんだよ。働きながら大検を取ったり、仕事に必要な資格の勉強だって自分のお金でやってきてる子だからね」
 つまりは始めから恵まれた環境で才能を思う存分開花させた若社長さんと、自分の努力で『ウチ一番の才媛』と社長から絶大な信頼を勝ち取った境さんとは経緯が違い過ぎる……会長はその違いの大きさを懸念されてるんだと思う。
 海東文具は私が入社する大分以前に倒産寸前まで業績を落としたことがあるらしい。会長夫妻は会社の立て直しに追われ、社長自身も家族四人ワンルームボロアパートという極貧生活を経験しているそうだ。
 だから海東文具は社員採用を学歴で決めない。中には中卒の社員だっていて、中途採用には積極的でもコネ採用はほとんどしない。仮に一流の肩書を持った入社希望者だって、社風に合わなければ容赦なく不採用にする。若社長みたいなのが来たとしたら多分落とされるだろうね。
 「それと夏絵ちゃん」
 はい、何でしょう?
 「途中で代わった案内役の職人さん、もしかして知り合いだったりする?」
 うっ、バレてるご様子。
 「え~っとぉ……」
 あぁ私絶対女優になれないわ……ってか女優さんになれるような美女でもなかった。これだけキョドればバレバレだよね、それでも私は脳内でどうにか誤魔化そうを考えを巡らせていた。
 「過去に仲違いしまして。それで少々居づらかったのですが、彼は憶えていらっしゃらなかったようですのでちょっとホッとしました」
 で、出た言い訳がコレ。
 「何言ってんの?彼ずっと君のこと気にしてる感じだったよ」
 「まさか、そんな訳……」
 ないですよと言いたかったけど、彼を見ないよう努めてたからどんな表情をしてたのか分かんないんだよね。
 「これは爺さんの勘だけど、『仲違い』じゃなくて『お付き合いを解消』した間柄でしょ?」
 「……」
 やっぱりバレてた。
 「無理して答えなくていいからね。ただ君たちは一度話した方が良さそうだね、彼多分君に言い残してることがあると思うんだ」
 爺さんの勘だけどね。会長はそう念を押して私に笑いかけられた。
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