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揺さぶり
その三
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この日十三時半頃からつばさの面倒を看に小野坂家にやって来ていた稲城だったが、十七時頃息子を預けている幼稚園からメールが入った。
【城郭幼稚園の青島です、お宅のお子様が喧嘩で相手の子を怪我させてしまいましたので、至急こちらに来てください】
このメールに稲城の体は冷えた。どちらかと言えば大人しくて保育師にも“物静かな子”と評される息子が? とにわかに信じられなかったが、【城郭幼稚園の青島】という保育師は確かにいるので自宅にいる夢子に簡単な説明をしてから幼稚園へと向かった。
職場にも事情を説明して早退し、急ぎ足で幼稚園に辿り着くと、喧嘩ならではの物々しさは感じられず普段と変わらぬ様子であった。
『あんれ? どうなさったんだべ?』
見慣れた保育師が彼女を見て驚いた表情を見せる。この日は仕事明けが深夜に及ぶはずの母親が夕方ここにいるからだ。
『龍之介《リュウノスケ》が【怪我をさせた】ってメールが……』
『へっ? そったらメール送らさってないべ』
『えっ? じゃあこれ……』
稲城は送られたメールを保育師に見せる。
『ありゃ、これニセモンだべ』
その言葉に彼女は体中の力が抜けていくのを感じた。
『スパムメールでねえしさ、青島さんの名前出さされちゃ信じちまうんも無理ないべ。たださ、ウチフリーメール使わさらんのさ』
『そうなんですね……事前に確認もせず乗り込むように来てしまい申し訳ありません』
『なんもなんも、こったらイタズラしささる奴が悪いんだ。アンタはりゅう君を思いやっただけだべ』
保育師は稲城のケアレスミスを一切責めず、大丈夫ですよと優しく声をかけた。すると奥の方でおもちゃ遊びをしていた息子龍之介が、母の姿に気付いて満面の笑顔で駆け寄ってきた。
『ママッ!』
龍之介は母が予定よりも早く迎えに来てくれたと嬉しそうにしている。稲城は改めて保育師に謝罪し、この日は息子と共に帰宅した。
『すみもはん、ご依頼もまともにこなせんかった上に、こげん夜中に言い訳がましい電話して』
稲城は仕方が無かったとはいえ、落ち度もあったことからまだ落ち込んでいる感じであった
「いえ、気にしないでください。そういうご事情であれば例えイタズラでも無視はできませんから」
小野坂はイタズラに振り回された稲城を慮る。その後すぐに通話を切り、煌々と光る夜の漁船を眺めていた。つばさは目新しい世界に興味津々で深夜の港を見つめており、帰宅した頃には早朝の時間帯になっていた。
数日後、小野坂はシッターの予約をせずつばさと共に『オクトゴーヌ』へ出勤する。この日は休日である角松が両親と木の葉を連れて『離れ』に遊びに来ていることを知ったからだ。
「子供を職場へ連れて行くなんて心配だわ」
まともにあやしもしない割にこんな時だけ口出しをする夢子は、必要以上のおしゃれをして何を思ったか後を追ってきた。
「いや用事なんか無いだろ」
「何言ってるの? 母としての努めよ」
外面だけは死ぬほど良い彼女は世間に見える部分だけ母親であろうとし、芝居がかった態度でつばさを抱っこする。慣れぬ相手の抱っこに不安を感じた娘は顔をしかめてぐずり出したが、無理やり助手席に乗り込もうとした。
「つばさはチャイルドシートに乗せろよ」
「大丈夫よ、しっかり抱えておくから」
「義務なんだよ、プレママ教室でも散々言ってただろうが」
小野坂は妻からつばさを引き剥がして、後部座席に設置しているチャイルドシートに寝かせる。できることなら夢子を引きずり降ろしてやろうかとも思ったが、時間の無駄なので仕方無くそのまま職場へと向かった。
「おはようございます」
小野坂はまず『離れ』に入って誰にともなく挨拶をする。
「おはようございます智さん。こん子がつばさちゃんかい?」
真っ先に気付いた角松が小野坂に駆け寄ってつばさを見る。つばさは初めて見る大人の男性に興味を示し、くるんとした目で角松をじっと見つめていた。
「目元は智さんそっくりだべ、落ちそうなくらいでっかい目しささってってんべ」
「まぁな。木の葉ちゃんも大きくなってんじゃねぇか」
小野坂はしばらく見ないうちにしっかり成長している木の葉を見やる。
「ん、十カ月過ぎたべ。心配ご無用ってくれえになまら食欲あらさるんだ」
「そっか、離乳食なんだな」
二人は連れ立って角松夫妻と木の葉のいるソファーへ向かう。放ったらかしにされた夢子は退屈そうに様変わりした室内を見回しているところを、二階から降りてきた堀江が声を掛けた。
「お久し振りです夢子さん」
「あら堀江さん、一体どうなさったの?」
「えぇ、智君が子連れ出勤しやすいようにちょっとだけ家具の配置換えをしたんです」
「左様ですの」
彼女は余計なことを心の中で舌打ちをする。
「それだけや無いんですけどね。これから従業員の中から親になる者も出てくるでしょうから、こうして皆で面倒看合える環境があってもええなと思いまして」
「シッターを雇えば済む話じゃありませんの?」
「保育園と一緒で運悪くあぶれる人もいるでしょう、そうなった場合の応急措置みたいなもんです」
「素人同士でだなんて危なっかしいですわ」
子を産んだというだけで玄人気取りの発言をする夢子に対しても、堀江は一切表情を崩さず話を続ける。
「最初は皆素人同然です、この国には親になるための明確な資格はありません。託児所にでもするんであれば問題はありますが、育児経験のある方の出入りもありますので勉強になる部分もあると思いますよ」
「……」
「突発的に夫婦の時間が欲しい場合もあるでしょうから……」
「それは良いお考えですわ!」
夢子は突然手の平を返して堀江の考えを称賛し始めた。
「つばさにとっても社会勉強が早くできますし、家にこもってワンオペになる危険性も減りますわね」
「いえそない大袈裟なことやのうてただの応急措置ですから、夜中いきなり訪ねられても対応できませんよ」
「とても素晴らしいわ! 夫婦の時間だって大切ですものね」
彼女は堀江の話をまともに聞かず、つばさを置いたまま『離れ』を出て行ってしまった。堀江は夢子の残像に不安を感じ、角松たちと一緒にいる小野坂を見た。
「これ想像以上やな」
彼は父になった部下の行く末が心配になってきた。
【城郭幼稚園の青島です、お宅のお子様が喧嘩で相手の子を怪我させてしまいましたので、至急こちらに来てください】
このメールに稲城の体は冷えた。どちらかと言えば大人しくて保育師にも“物静かな子”と評される息子が? とにわかに信じられなかったが、【城郭幼稚園の青島】という保育師は確かにいるので自宅にいる夢子に簡単な説明をしてから幼稚園へと向かった。
職場にも事情を説明して早退し、急ぎ足で幼稚園に辿り着くと、喧嘩ならではの物々しさは感じられず普段と変わらぬ様子であった。
『あんれ? どうなさったんだべ?』
見慣れた保育師が彼女を見て驚いた表情を見せる。この日は仕事明けが深夜に及ぶはずの母親が夕方ここにいるからだ。
『龍之介《リュウノスケ》が【怪我をさせた】ってメールが……』
『へっ? そったらメール送らさってないべ』
『えっ? じゃあこれ……』
稲城は送られたメールを保育師に見せる。
『ありゃ、これニセモンだべ』
その言葉に彼女は体中の力が抜けていくのを感じた。
『スパムメールでねえしさ、青島さんの名前出さされちゃ信じちまうんも無理ないべ。たださ、ウチフリーメール使わさらんのさ』
『そうなんですね……事前に確認もせず乗り込むように来てしまい申し訳ありません』
『なんもなんも、こったらイタズラしささる奴が悪いんだ。アンタはりゅう君を思いやっただけだべ』
保育師は稲城のケアレスミスを一切責めず、大丈夫ですよと優しく声をかけた。すると奥の方でおもちゃ遊びをしていた息子龍之介が、母の姿に気付いて満面の笑顔で駆け寄ってきた。
『ママッ!』
龍之介は母が予定よりも早く迎えに来てくれたと嬉しそうにしている。稲城は改めて保育師に謝罪し、この日は息子と共に帰宅した。
『すみもはん、ご依頼もまともにこなせんかった上に、こげん夜中に言い訳がましい電話して』
稲城は仕方が無かったとはいえ、落ち度もあったことからまだ落ち込んでいる感じであった
「いえ、気にしないでください。そういうご事情であれば例えイタズラでも無視はできませんから」
小野坂はイタズラに振り回された稲城を慮る。その後すぐに通話を切り、煌々と光る夜の漁船を眺めていた。つばさは目新しい世界に興味津々で深夜の港を見つめており、帰宅した頃には早朝の時間帯になっていた。
数日後、小野坂はシッターの予約をせずつばさと共に『オクトゴーヌ』へ出勤する。この日は休日である角松が両親と木の葉を連れて『離れ』に遊びに来ていることを知ったからだ。
「子供を職場へ連れて行くなんて心配だわ」
まともにあやしもしない割にこんな時だけ口出しをする夢子は、必要以上のおしゃれをして何を思ったか後を追ってきた。
「いや用事なんか無いだろ」
「何言ってるの? 母としての努めよ」
外面だけは死ぬほど良い彼女は世間に見える部分だけ母親であろうとし、芝居がかった態度でつばさを抱っこする。慣れぬ相手の抱っこに不安を感じた娘は顔をしかめてぐずり出したが、無理やり助手席に乗り込もうとした。
「つばさはチャイルドシートに乗せろよ」
「大丈夫よ、しっかり抱えておくから」
「義務なんだよ、プレママ教室でも散々言ってただろうが」
小野坂は妻からつばさを引き剥がして、後部座席に設置しているチャイルドシートに寝かせる。できることなら夢子を引きずり降ろしてやろうかとも思ったが、時間の無駄なので仕方無くそのまま職場へと向かった。
「おはようございます」
小野坂はまず『離れ』に入って誰にともなく挨拶をする。
「おはようございます智さん。こん子がつばさちゃんかい?」
真っ先に気付いた角松が小野坂に駆け寄ってつばさを見る。つばさは初めて見る大人の男性に興味を示し、くるんとした目で角松をじっと見つめていた。
「目元は智さんそっくりだべ、落ちそうなくらいでっかい目しささってってんべ」
「まぁな。木の葉ちゃんも大きくなってんじゃねぇか」
小野坂はしばらく見ないうちにしっかり成長している木の葉を見やる。
「ん、十カ月過ぎたべ。心配ご無用ってくれえになまら食欲あらさるんだ」
「そっか、離乳食なんだな」
二人は連れ立って角松夫妻と木の葉のいるソファーへ向かう。放ったらかしにされた夢子は退屈そうに様変わりした室内を見回しているところを、二階から降りてきた堀江が声を掛けた。
「お久し振りです夢子さん」
「あら堀江さん、一体どうなさったの?」
「えぇ、智君が子連れ出勤しやすいようにちょっとだけ家具の配置換えをしたんです」
「左様ですの」
彼女は余計なことを心の中で舌打ちをする。
「それだけや無いんですけどね。これから従業員の中から親になる者も出てくるでしょうから、こうして皆で面倒看合える環境があってもええなと思いまして」
「シッターを雇えば済む話じゃありませんの?」
「保育園と一緒で運悪くあぶれる人もいるでしょう、そうなった場合の応急措置みたいなもんです」
「素人同士でだなんて危なっかしいですわ」
子を産んだというだけで玄人気取りの発言をする夢子に対しても、堀江は一切表情を崩さず話を続ける。
「最初は皆素人同然です、この国には親になるための明確な資格はありません。託児所にでもするんであれば問題はありますが、育児経験のある方の出入りもありますので勉強になる部分もあると思いますよ」
「……」
「突発的に夫婦の時間が欲しい場合もあるでしょうから……」
「それは良いお考えですわ!」
夢子は突然手の平を返して堀江の考えを称賛し始めた。
「つばさにとっても社会勉強が早くできますし、家にこもってワンオペになる危険性も減りますわね」
「いえそない大袈裟なことやのうてただの応急措置ですから、夜中いきなり訪ねられても対応できませんよ」
「とても素晴らしいわ! 夫婦の時間だって大切ですものね」
彼女は堀江の話をまともに聞かず、つばさを置いたまま『離れ』を出て行ってしまった。堀江は夢子の残像に不安を感じ、角松たちと一緒にいる小野坂を見た。
「これ想像以上やな」
彼は父になった部下の行く末が心配になってきた。
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