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祭り前編
その四
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自身が抜けてからの急展開など知る由もない川瀬は、客の流れに逆らって必死に走っていた。こんなに走るのはいつ振りだろうか? 長身でガッチリ体型ではあるのだが、体育が不得手だったため『見掛け倒し』とよく馬鹿にされたものであった。
彼はリーチの長さを活かして懸命に走り、ようやく見えてきた目標に笑顔を見せる。遠目にはマタニティードレスを着た夢子が立っており、駆け寄る川瀬を応援するかのように笑顔で手を振っていた。
「ごめんね、待った?」
「さほど待っていませんわ、私こそお呼び立てしてごめんなさいね」
「そんなの全然いいよ。でも智君に言わなくて大丈夫?」
建前上夫である小野坂を気にしたが、内心は自身にメールをくれたことが嬉しかった。
「連絡はしましたのよ。ただ反応が無くって」
夢子は上目遣いで川瀬を見ながら言った。
「それで僕にメールくれたんだね」
「えぇ、あなたは頼れる方ですもの」
初めて言われる言葉に川瀬はドキリとする。この日夢子は普段以上のメイクを施し、髪の毛からはほんのりとシャンプーの香りが漂ってきた。妊娠中のため体型はふくよかになっているが、ばっくりと開いた首元から見える鎖骨が庇護欲をそそる。
「田舎のお祭りにしては結構盛り上がりますのね」
「もうすぐ夜の部のパレードが始まるからだよ。それでまだ人がたくさんいるんじゃないかな」
川瀬は箱館に来て五年が経つが、祭りに参加したのは初めてであった。人混みが苦手な上、連れ立つ友人もほとんどいないためこれまではほぼ仕事を入れていた。かつての出店レシピコンテストは店舗対抗戦ではなかったため、わざわざ会場に行く必要が無かったからだ。
「そう言えば今から伺っても投票には間に合いませんわね」
「そんなの気にしなくていいよ」
川瀬は夢子に今回の惨敗振りを見せたくなかった。小野坂に一時間立たせて棄権するよう仕向けておけば、仮に出向く方向に話が進んでも食材切れで店閉まいと言い訳すればよい。そこまでの保身を視野に入れながら時間稼ぎの策を考えていると、雑踏の中から音楽が鳴り始めた。
「ほら、夜の部のパレードが始まったみたいだよ。今はこの雰囲気を楽しもう、ねっ」
「そうですわね」
パレード開始に合わせて通りがライトアップされ、その中で仮装して踊っている人々が商店街に彩りを添える。二人はきらびやかな光景を眺めながらそれなりに祭りを楽しんでいた。
「こんばんは、川瀬君」
そんな二人に向けて男性が声を掛けた。呼ばれた勢いで振り向くと、近辺で『アウローラ』のキッチンワゴンを出して出張販売中の浜島が袋を持って立っている。
「何ですか?」
「出店コンテストとかいうんは大丈夫なん?」
川瀬は余計なお世話だと表情を歪めた。
「えぇ、ほとんど終わってますので」
「片付けとせんでええの?」
「問題ありません、荷物少ないですから」
二人の邪魔をするなとばかり突き放す物言いをするが、相手は全く怯まず立ち去ろうとしない。
「あの、どのようなご要件で私たちに?」
「川瀬君《・・・》に渡したいもんがあって」
怪訝な表情を見せる夢子に向け、浜島は手にしている袋を掲げてみせた。
「小腹満たすんにいかがですか?」
「いえ結構ですわ、生憎空腹ではございませんの」
夢子はソースとマヨネーズの薫りに嫌そうな表情を浮かべる。元々好んで食べない調味料なだけに、妊娠が分かって以降余計苦手になっている。
「あんたには言うてません、川瀬君に是非召し上がって頂きたいんですよ、『扇谷調理学校』の同期として」
「えっ?」
その言葉に川瀬は目を見開いた。
「いつ思い出してくれるか待っとったんやけど、一向にその様子見せへんから。僕製菓衛生師学科二年制やったけど、何回か顔は合わせてるねんで」
「そうですか」
川瀬は浜島の顔に全く見憶えが無く、冷たい返事をした。
「あんさん調理師学科一年制やったやろ? Hホテル主催の新作レシピコンテストで“彩りエビフライ”いうん出してはったよな?」
「そんなことよく憶えてますよね」
とは言ってみたが、当時出品した“彩りエビフライ”は学内の教員に不評であったことは鮮明に憶えている。
「普通憶えてるもんやろ? そこらの宿題やのうて大手ホテル主催のイベントやで」
「……」
「個人的にはアレおもろい思ったんやけどな。取り敢えずそれ開けてみてくれる?」
川瀬は仕方無く袋を受け取り、白い容器を開けるとやや大きめのたこ焼きが八個入っていた。
「たこ焼きですか……」
「いやパンやで。具材くるんで焼いただけやけど、憶え無い?」
「いえありません」
「あっそう、これ賞獲ってるんやけどな」
しれっと衝撃の走る浜島の台詞に川瀬の体がぴくりと反応する。
「まぁ、こんなのがですの?」
夢子は人様の創作を侮蔑する視線を向ける。
「えぇ、こんなのがHホテル一階のベーカリーで十年ほどそこそこ売れとったんですわ。お陰様で印税で食い繋げました」
浜島は彼女の侮蔑を皮肉で返す。彼も面の皮は厚い方で、上品ぶった下品な女の嫌味など屁とも感じていない。
「今更どうしてこれを僕に?」
「ホンマに憶えてないんやな。あんさん当時の入選作品に一切口付けんかったでしょ? そのリベンジ」
彼にとって川瀬のその行為がパン技能士として最大の屈辱であった。食べもせずにケチを付け、学生の分際で評論家気取りの態度が何より気に入らなかった。
それから十年、先輩である嶺山の誘いで出向いた『アウローラ』でかつて自身を含めた入選作品を侮蔑した男と再会した。仕返しという訳ではないが、この機会に一口だけでも食べさせてやろうと今ここで挑戦状を叩きつけている。
「評価いうんはせめて一個食うてからせえよいう話や」
「仰ってることがよく分かりませんが」
「分からんで結構、僕の問題やから」
「であればご自身で解決なされば宜しいのに」
夢子はこの状況で要らぬ横槍を入れ、浜島はやかましいとばかり冷ややかな視線を送る。
「あんさんに用は無いです」
「まぁ偉そうに」
「黙っとれ言うとんのや」
浜島はそれ以降夢子を一切視界に入れず、川瀬のみに照準を合わせる。川瀬の性分上冷たく跳ね返すことは可能だが、それをさせない迫力が浜島にはあった。彼の言った“屈辱”を与えた事実に憶えは無いものの、どことなく後ろめたいものが心の中に宿っていた。
一つ食べるまでここを退いてくれない……川瀬は気圧される形で一口大の“たこ焼きパン”を口に入れる。ソースがかかっている部分はしんなりとしていたが、さくさくとふわふわもしっかりと残っていて面白い食感だと思った。しかし素直に美味しいと認めるのが感情論上嫌だった。
「ごちそうさまでした、僕には合わなかったです」
川瀬は蓋を閉めてそれを突き返す。せめてもの意地でそうしたのだが浜島は受け取らなかった。
「それはお持ち帰りください、お付き合い頂きありがとうございました」
浜島はすっきりした表情で礼を言い、二人に背を向けて人混みの中に消えていった。
彼はリーチの長さを活かして懸命に走り、ようやく見えてきた目標に笑顔を見せる。遠目にはマタニティードレスを着た夢子が立っており、駆け寄る川瀬を応援するかのように笑顔で手を振っていた。
「ごめんね、待った?」
「さほど待っていませんわ、私こそお呼び立てしてごめんなさいね」
「そんなの全然いいよ。でも智君に言わなくて大丈夫?」
建前上夫である小野坂を気にしたが、内心は自身にメールをくれたことが嬉しかった。
「連絡はしましたのよ。ただ反応が無くって」
夢子は上目遣いで川瀬を見ながら言った。
「それで僕にメールくれたんだね」
「えぇ、あなたは頼れる方ですもの」
初めて言われる言葉に川瀬はドキリとする。この日夢子は普段以上のメイクを施し、髪の毛からはほんのりとシャンプーの香りが漂ってきた。妊娠中のため体型はふくよかになっているが、ばっくりと開いた首元から見える鎖骨が庇護欲をそそる。
「田舎のお祭りにしては結構盛り上がりますのね」
「もうすぐ夜の部のパレードが始まるからだよ。それでまだ人がたくさんいるんじゃないかな」
川瀬は箱館に来て五年が経つが、祭りに参加したのは初めてであった。人混みが苦手な上、連れ立つ友人もほとんどいないためこれまではほぼ仕事を入れていた。かつての出店レシピコンテストは店舗対抗戦ではなかったため、わざわざ会場に行く必要が無かったからだ。
「そう言えば今から伺っても投票には間に合いませんわね」
「そんなの気にしなくていいよ」
川瀬は夢子に今回の惨敗振りを見せたくなかった。小野坂に一時間立たせて棄権するよう仕向けておけば、仮に出向く方向に話が進んでも食材切れで店閉まいと言い訳すればよい。そこまでの保身を視野に入れながら時間稼ぎの策を考えていると、雑踏の中から音楽が鳴り始めた。
「ほら、夜の部のパレードが始まったみたいだよ。今はこの雰囲気を楽しもう、ねっ」
「そうですわね」
パレード開始に合わせて通りがライトアップされ、その中で仮装して踊っている人々が商店街に彩りを添える。二人はきらびやかな光景を眺めながらそれなりに祭りを楽しんでいた。
「こんばんは、川瀬君」
そんな二人に向けて男性が声を掛けた。呼ばれた勢いで振り向くと、近辺で『アウローラ』のキッチンワゴンを出して出張販売中の浜島が袋を持って立っている。
「何ですか?」
「出店コンテストとかいうんは大丈夫なん?」
川瀬は余計なお世話だと表情を歪めた。
「えぇ、ほとんど終わってますので」
「片付けとせんでええの?」
「問題ありません、荷物少ないですから」
二人の邪魔をするなとばかり突き放す物言いをするが、相手は全く怯まず立ち去ろうとしない。
「あの、どのようなご要件で私たちに?」
「川瀬君《・・・》に渡したいもんがあって」
怪訝な表情を見せる夢子に向け、浜島は手にしている袋を掲げてみせた。
「小腹満たすんにいかがですか?」
「いえ結構ですわ、生憎空腹ではございませんの」
夢子はソースとマヨネーズの薫りに嫌そうな表情を浮かべる。元々好んで食べない調味料なだけに、妊娠が分かって以降余計苦手になっている。
「あんたには言うてません、川瀬君に是非召し上がって頂きたいんですよ、『扇谷調理学校』の同期として」
「えっ?」
その言葉に川瀬は目を見開いた。
「いつ思い出してくれるか待っとったんやけど、一向にその様子見せへんから。僕製菓衛生師学科二年制やったけど、何回か顔は合わせてるねんで」
「そうですか」
川瀬は浜島の顔に全く見憶えが無く、冷たい返事をした。
「あんさん調理師学科一年制やったやろ? Hホテル主催の新作レシピコンテストで“彩りエビフライ”いうん出してはったよな?」
「そんなことよく憶えてますよね」
とは言ってみたが、当時出品した“彩りエビフライ”は学内の教員に不評であったことは鮮明に憶えている。
「普通憶えてるもんやろ? そこらの宿題やのうて大手ホテル主催のイベントやで」
「……」
「個人的にはアレおもろい思ったんやけどな。取り敢えずそれ開けてみてくれる?」
川瀬は仕方無く袋を受け取り、白い容器を開けるとやや大きめのたこ焼きが八個入っていた。
「たこ焼きですか……」
「いやパンやで。具材くるんで焼いただけやけど、憶え無い?」
「いえありません」
「あっそう、これ賞獲ってるんやけどな」
しれっと衝撃の走る浜島の台詞に川瀬の体がぴくりと反応する。
「まぁ、こんなのがですの?」
夢子は人様の創作を侮蔑する視線を向ける。
「えぇ、こんなのがHホテル一階のベーカリーで十年ほどそこそこ売れとったんですわ。お陰様で印税で食い繋げました」
浜島は彼女の侮蔑を皮肉で返す。彼も面の皮は厚い方で、上品ぶった下品な女の嫌味など屁とも感じていない。
「今更どうしてこれを僕に?」
「ホンマに憶えてないんやな。あんさん当時の入選作品に一切口付けんかったでしょ? そのリベンジ」
彼にとって川瀬のその行為がパン技能士として最大の屈辱であった。食べもせずにケチを付け、学生の分際で評論家気取りの態度が何より気に入らなかった。
それから十年、先輩である嶺山の誘いで出向いた『アウローラ』でかつて自身を含めた入選作品を侮蔑した男と再会した。仕返しという訳ではないが、この機会に一口だけでも食べさせてやろうと今ここで挑戦状を叩きつけている。
「評価いうんはせめて一個食うてからせえよいう話や」
「仰ってることがよく分かりませんが」
「分からんで結構、僕の問題やから」
「であればご自身で解決なされば宜しいのに」
夢子はこの状況で要らぬ横槍を入れ、浜島はやかましいとばかり冷ややかな視線を送る。
「あんさんに用は無いです」
「まぁ偉そうに」
「黙っとれ言うとんのや」
浜島はそれ以降夢子を一切視界に入れず、川瀬のみに照準を合わせる。川瀬の性分上冷たく跳ね返すことは可能だが、それをさせない迫力が浜島にはあった。彼の言った“屈辱”を与えた事実に憶えは無いものの、どことなく後ろめたいものが心の中に宿っていた。
一つ食べるまでここを退いてくれない……川瀬は気圧される形で一口大の“たこ焼きパン”を口に入れる。ソースがかかっている部分はしんなりとしていたが、さくさくとふわふわもしっかりと残っていて面白い食感だと思った。しかし素直に美味しいと認めるのが感情論上嫌だった。
「ごちそうさまでした、僕には合わなかったです」
川瀬は蓋を閉めてそれを突き返す。せめてもの意地でそうしたのだが浜島は受け取らなかった。
「それはお持ち帰りください、お付き合い頂きありがとうございました」
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