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便り

その二

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 『DAIGO』は坂を登りきった道すじの一角に建っており、市街地や港が一望できるレストランとして観光客もそれなりに訪れる店である。しかし大悟は地元民同士の交流の場を目指しているため、ホームページは持っているがメディア系の取材は一切断っている。
「おはようございます」
 『オクトゴーヌ』の朝食業務を終えてからの出勤なので、ここのキッチンスタッフよりは若干遅めに店に入る。この日は野上も出勤しており、仕込み作業は既に始まっている。
「おはよう、今日も宜しく」
「うん」
 彼は上は黒、下は白の調理服に着替えてキッチンに入る。他にもスタッフはいるのだが、入社して日の浅い見習いレベルの者ばかりであった。そのためアルバイトとは言え元は正社員、五年ほどここでキャリアを積んでいる川瀬は当然のように動きが良く、野上の指示さえも不要なほど機敏に業務をこなしていく。
「あの」
 見習いスタッフの一人である若い女性がを決したように川瀬に声を掛けた。しかし一切の反応を見せず、黙々と作業を続ける。
「すみません、少しだけ宜しいでしょうか?」
 彼女はめげずに再度呼びかけてみるも、聞こえていないのか別の作業のため見向きもせず移動していった。それに気付いた野上がどうした? と彼女に駆け寄る。
「ソースの味を確認して頂きたいんです。あとあの方……」
「川瀬っていうんだ。『オクトゴーヌ』のチーフシェフだよ」
「えっ? ここの先輩じゃないんですか?」
 彼女は技術面と慣れた身のこなしを見て先輩スタッフだと思い、可能であれば指導を仰ぐつもりでいたので自身の勘違いに肩を落とした。
「ここではアルバイトだけど、いずれにせよ声は掛けない方がいい。ああやって滅多に反応しないし、指導を仰ごうとすると多分嫌味言われるからやめときな」
 野上は川瀬の性分を知っているので、彼女が打ちひしがれる前に事実のみを伝えておく。実際川瀬は“見て盗んで学べ”をモットーに調理スキルを上げてきたという自負があるので、後輩だからと教えを乞おうとする行為は“意欲的”と見なさず“甘え”と切り捨てている。
「そうなんですか……分かりました」
「休憩中の雑談くらいであれば大丈夫だけど、指導であればなるべく俺かオーナーに声掛けて。あとソースの味見だったな」
 野上は彼女が担当しているソースの味を見る。
「牛乳足してもっと煮込んで、弱火でじっくりかき混ぜながらね」
「はい」
「まだ時間はあるから、焦らなくていいよ」
「はい」
 彼女は冷蔵庫から牛乳を取り出し、指示通り弱火で少しずつ足しながら丁寧かつ素早くソースをかき混ぜていく。その後野上はせっせと玉ねぎをスライスしている男性スタッフの手元を見た。
「やり直し。それじゃスープの出汁にしか使えないよ」
「そんなぁ」
 彼は悲しそうに野上を見る。
「みじん切りしちゃって、ハンバーグの具材にするよ」
「はい」
「それが済んだらやり直し分頼むね」
 野上はキッチンスタッフ全員に目を配り、自身の仕事も着実にこなしていく。料理人としては一流と言えない野上だが、周囲に気を配れる視野の広さと馬鹿丁寧な指導で後輩をしっかりと育て上げる。
 大悟にその手腕を買われて昼のチーフスタッフに抜擢され、結果川瀬は『オクトゴーヌ』へ転職となった。野上はその期待に応え、個性派揃いのスタッフたちを見事にまとめ上げている。
「「「「「おはようございます」」」」」
 開店一時間前となり、フロアスタッフも続々と出勤してきた。キッチンスタッフとは逆の色合いの制服を身に着けて開店準備を始めていく。
 その中で一番最後に入店してきた夢子は、妊娠しているためマタニティ仕様の制服に変わっていた。まださほど体型の変化は見られないが、安定期に入っていないのでやや辛そうに作業をしている。
「調布さん、ゆっくりでいいから体調を優先して」
「大丈夫ですわ」
 キッチンから声を掛けた野上に、夢子は笑顔と辛さを混ぜ合わせたような表情を見せる。顔色を見る限り大丈夫と判断した野上だが、フロアスタッフの中ではリーダー的存在の男性社員に調布の様子を気にするよう指示を飛ばす。ところがそれに満足しなかった川瀬は仕事を放棄してキッチンを飛び出し、テーブル席の椅子を下ろしている夢子の側まで駆け寄った。
「何やってんだ! ヒトエちゃんフォロー頼むっ!」
「はいっ!」
 突然できた業務の穴にキッチン内は緊張が走る。野上はとっさの判断で新人ながらも腕の良い女性スタッフを川瀬の代役に据える。川瀬は現状を無視して夢子に付き添い、代わりに椅子を下ろしていた。
「大事な体なんだから、こんな重労働やっちゃ駄目だよ」
「平気ですわ、多少は動いた方がいいってお医者様も仰ってらしたし」
 二人のやり取りに一部の従業員は冷ややかな視線を向け、野上の指示を受けていた男性社員は立場を失いため息を漏らしていた。
「ごめん、俺の指示が遅かったよ」
「そんなこと無いです、野上さんのせいじゃありません」
 チーフの謝罪に男性は首を横に振り、気を取り直して作業に戻る。川瀬と夢子は周囲の空気などお構い無しで、勤務中にも関わらず二人の世界を作り上げていた。
「どうかあまり無茶はしないで、智君ももっと労るべきだよ」
「夫にだって分からないことはあるわ、代わることはできないんですもの。お気遣いどうもありがとう川瀬さん、お仕事に戻られて、ね」
「うん。辛かったら代わるから」
 川瀬は後ろ髪引かれるように夢子を気にしていたが、キッチンの方向へ振り返ると自身の仕事を違う人間が引き継いでいることに苛立ちを感じた。
「触るなっ!」
「ひっ!」
 代役であることで普段以上の集中力を見せていた女性スタッフは、突然の怒号に驚いて悲鳴に近い声を上げてしまう。
「大丈夫? ヒトエちゃん」
 キッチンとフロアの仕切りに設置されているカウンターを拭いていた女性スタッフが、彼女の悲鳴に反応して声を掛けた。
「すみません、大丈夫です」
「ったく自分の勝手棚に上げて何考えてんだべ。ヒトエちゃん、アンタは悪くないさ」
 彼女はフロアスタッフの中では最古参であり、オープニングスタッフであるため大悟や野上からの信頼も厚い。ただ川瀬とは反りが合わずしょっちゅう小さな諍いを起こしてきた。
「あんたは黙ってろ」
 川瀬は女性を睨みつけたが、彼女は知らぬ顔でヒトエの様子を気に掛けている。
「お前が勝手に持ち場離れたから俺が指示した。文句があるなら俺に言え、八つ当たりするな」
「チーフだからって余計なことしないでよね」
「気に入らないなら業務に集中しろ。それと彼女は正社員だ、せめて立場くらいわきまえろ」
 確かに自身が持ち場を離れなければ済む話だが、指示の上であったとはいえ自身の調理に格下のスタッフが介入したことがとにかく気に入らなかった。
「こんなのお客様にお出しするつもりなの?」
 川瀬はそれなりの出来であるはずの料理にケチを付け、嫌そうにヘラで突っ付く。野上は近くにあるスプーンを手に取り、一口分すくって味見をした。
「そこまでの問題は無い、キャリアを考えれば上出来だよ」
 彼の味覚は腕前以上に優れており、店に出せるレベルか否かの判断を外したことは一度も無い。川瀬もそれは信頼しているが今回は自身の思いを譲りたくなかった。
「そんないい加減な仕事でここの信用が潰れたらどうするつもりなの?」
「そうなったら俺の責任だよ。アルバイト一人まともに業務に就かせられなかった現場責任者の俺の、ね」
「……」
「分かったんなら仕事に戻れ、分かんないんなら帰れ」
 野上はチーフとして気丈な態度を見せた。
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