91 / 174
奇跡
その四
しおりを挟む
「「……」」
フロア全域に響いていた看護師の声はあっという間に無機質な壁に吸い込まれ、再び周囲はしんと静まり返る。冷たく光った空間に取り残された根田と治部は、いつ届くか分からない次なる情報を待つよりほか無かった。
「別の言い訳にすればよかった」
「根田君?」
予定を断る口実に里見を利用してしまったことを後悔していた。このままお別れしたくない……根田はぴちっと閉ざされている手術室の奥をじっと見つめ、生と死を彷徨っている里見の生還を祈り続ける。
根田は出産予定日直前、瀕死状態に陥ったことがあった。当然彼自身の記憶には留まっていないが、間もなく出産を迎える段階で心肺停止状態になったと聞いている。すぐさま帝王切開で取り出して治療が施され、ほぼ二十四時間後息を吹き返した。
心肺蘇生も巧を奏さず諦めの境地だったところで突然脈が戻り心臓が動き出した。両親は勿論のこと治療に携わった医師たちをも驚かせる事態となったのだが、心肺停止状態になった原因は未だ分かっていない。ただ里見の子素直の命日と根田の誕生日が偶然にも同じ日で、二人は密かに確証の無い縁を感じていた。
里見に子が授かったのは二十四歳の時で、ピアニストとしてはまだ駆け出しだった。妻は雑誌モデルとしてそれなりに活躍しており、家族公認の交際ではあったがまだ籍を入れていなかった。それを機に彼女は仕事を辞めて出産に備え、里見は家族を養うため一家の主として遮二無二になって働いた。
当時はソングライターとして徐々に知名度を上げ始め、母子ともに健康状態も順調であった。思い返せば家族と向き合えていなかったと感じるも、まだ若く自由業のため経済事情を考えるとやむを得ない状況とも言えた。
臨月を迎えた途端彼女の体調が急激に悪化した。それに合わせるかのように胎児の体も弱り始め、先に帝王切開で子供を取り出すことになった。双方の家族とも話し合った結果里見は妻を優先しようと医師にそれを伝えたが、彼女が首を縦に振らず子供を救ってくれと懇願した。
二十五年前の六月十二日、生まれた子供には妻が考えていた素直と命名して二人への治療が懸命に行われていた。ところがこの子はただ一度も泣くこと無く、僅か五日の生涯を閉じた。彼女もその後完全回復とはいかず入退院を繰り返し、素直の後を追うように一年後息を引き取った。
どれくらい眠ったか分からないが、山麓のカフェにいたはずの里見の視界にはわずかに白く霞んだ青一色の景色だった。周囲を確認しようと顔を動かすと、見たことの無いパステルカラーの花が至近距離に存在している。しかし感触も香りも無く、美しくはあったが味気の無いものであった。
その中で寝そべっていた里見は体を起こし、何となく人の姿を探す。ここは何処なのか? 夢の世界なのか? それとも冥土なのか? いるかどうかも分からない誰かを探すために立ち上がると、細身の女性のシルエットが浮かび上がり徒歩とは思えぬ速さで近付いてきた。
「三夏?」
彼の前に現れたシルエットは二十年以上前に死別した妻であった。彼女はモデルとして活躍していた頃の姿で、真っ白なワンピースがよく似合っている。
『こうして顔を合わせるのは久し振りね』
「えっ?」
『でもいつもあなたを見ていたわ、この子と一緒に』
三夏が左腕を少し浮かせると、見たことの無い長身の青年が何の脈略も無く浮き出てきた。しかし里見は彼の姿に懐かしさを感じ、思い付く名前を口に出していた。
「素直?」
青年は里見の声に笑顔を浮かべ、傍らにいる妻は満足げな表情を見せている。我が子は生後五日で世を去っているのに……その疑問に答えるように口を開いた。
『肉体が無くても魂は育つのよ。この世では叶えられなかった“育児”がここでできたから、いずれ来るあなたにこの子の成長を見せたかったの』
里見は成長した息子の魂を感慨深く見つめていた。素直は母の隣で口を動かしているのだが、何を言っているのか全く聞こえない。
『でも少し早かったみたい』
「えっ?」
『あなたにはまだこの世に思い残しているものがあるのね』
「いや、できることはやった。片付けはペンションの人に任せなきゃだけど遺書は用意してある」
『そういうことじゃないわ、心の声を無視しないで』
妻に諭された里見の脳裏に根田の笑顔が浮かぶ。別れも告げずこの世を去るのは心残りだが、寿命であれば仕方が無いと諦める気持ちもあった。彼にために作った曲は友人に預けてある、欲を言えばあと一日二日寿命を延ばしてきちんを別れを……それ以上の未練は残していない心づもりでいた。
『里見さんっ!』
背後から聞き慣れた声に反応して振り返ると一瞬にして景色が暗転する。
「悌っ?」
声の主の名を声に出した途端足場が失われた。景色の無い真っ暗闇の中、里見の体は終わり無く落下していく。
フロア全域に響いていた看護師の声はあっという間に無機質な壁に吸い込まれ、再び周囲はしんと静まり返る。冷たく光った空間に取り残された根田と治部は、いつ届くか分からない次なる情報を待つよりほか無かった。
「別の言い訳にすればよかった」
「根田君?」
予定を断る口実に里見を利用してしまったことを後悔していた。このままお別れしたくない……根田はぴちっと閉ざされている手術室の奥をじっと見つめ、生と死を彷徨っている里見の生還を祈り続ける。
根田は出産予定日直前、瀕死状態に陥ったことがあった。当然彼自身の記憶には留まっていないが、間もなく出産を迎える段階で心肺停止状態になったと聞いている。すぐさま帝王切開で取り出して治療が施され、ほぼ二十四時間後息を吹き返した。
心肺蘇生も巧を奏さず諦めの境地だったところで突然脈が戻り心臓が動き出した。両親は勿論のこと治療に携わった医師たちをも驚かせる事態となったのだが、心肺停止状態になった原因は未だ分かっていない。ただ里見の子素直の命日と根田の誕生日が偶然にも同じ日で、二人は密かに確証の無い縁を感じていた。
里見に子が授かったのは二十四歳の時で、ピアニストとしてはまだ駆け出しだった。妻は雑誌モデルとしてそれなりに活躍しており、家族公認の交際ではあったがまだ籍を入れていなかった。それを機に彼女は仕事を辞めて出産に備え、里見は家族を養うため一家の主として遮二無二になって働いた。
当時はソングライターとして徐々に知名度を上げ始め、母子ともに健康状態も順調であった。思い返せば家族と向き合えていなかったと感じるも、まだ若く自由業のため経済事情を考えるとやむを得ない状況とも言えた。
臨月を迎えた途端彼女の体調が急激に悪化した。それに合わせるかのように胎児の体も弱り始め、先に帝王切開で子供を取り出すことになった。双方の家族とも話し合った結果里見は妻を優先しようと医師にそれを伝えたが、彼女が首を縦に振らず子供を救ってくれと懇願した。
二十五年前の六月十二日、生まれた子供には妻が考えていた素直と命名して二人への治療が懸命に行われていた。ところがこの子はただ一度も泣くこと無く、僅か五日の生涯を閉じた。彼女もその後完全回復とはいかず入退院を繰り返し、素直の後を追うように一年後息を引き取った。
どれくらい眠ったか分からないが、山麓のカフェにいたはずの里見の視界にはわずかに白く霞んだ青一色の景色だった。周囲を確認しようと顔を動かすと、見たことの無いパステルカラーの花が至近距離に存在している。しかし感触も香りも無く、美しくはあったが味気の無いものであった。
その中で寝そべっていた里見は体を起こし、何となく人の姿を探す。ここは何処なのか? 夢の世界なのか? それとも冥土なのか? いるかどうかも分からない誰かを探すために立ち上がると、細身の女性のシルエットが浮かび上がり徒歩とは思えぬ速さで近付いてきた。
「三夏?」
彼の前に現れたシルエットは二十年以上前に死別した妻であった。彼女はモデルとして活躍していた頃の姿で、真っ白なワンピースがよく似合っている。
『こうして顔を合わせるのは久し振りね』
「えっ?」
『でもいつもあなたを見ていたわ、この子と一緒に』
三夏が左腕を少し浮かせると、見たことの無い長身の青年が何の脈略も無く浮き出てきた。しかし里見は彼の姿に懐かしさを感じ、思い付く名前を口に出していた。
「素直?」
青年は里見の声に笑顔を浮かべ、傍らにいる妻は満足げな表情を見せている。我が子は生後五日で世を去っているのに……その疑問に答えるように口を開いた。
『肉体が無くても魂は育つのよ。この世では叶えられなかった“育児”がここでできたから、いずれ来るあなたにこの子の成長を見せたかったの』
里見は成長した息子の魂を感慨深く見つめていた。素直は母の隣で口を動かしているのだが、何を言っているのか全く聞こえない。
『でも少し早かったみたい』
「えっ?」
『あなたにはまだこの世に思い残しているものがあるのね』
「いや、できることはやった。片付けはペンションの人に任せなきゃだけど遺書は用意してある」
『そういうことじゃないわ、心の声を無視しないで』
妻に諭された里見の脳裏に根田の笑顔が浮かぶ。別れも告げずこの世を去るのは心残りだが、寿命であれば仕方が無いと諦める気持ちもあった。彼にために作った曲は友人に預けてある、欲を言えばあと一日二日寿命を延ばしてきちんを別れを……それ以上の未練は残していない心づもりでいた。
『里見さんっ!』
背後から聞き慣れた声に反応して振り返ると一瞬にして景色が暗転する。
「悌っ?」
声の主の名を声に出した途端足場が失われた。景色の無い真っ暗闇の中、里見の体は終わり無く落下していく。
0
お気に入りに追加
8
あなたにおすすめの小説
ユメ/うつつ
hana4
ライト文芸
例えばここからが本編だったとしたら、プロローグにも満たない俺らはきっと短く纏められて、誰かの些細な回想シーンの一部でしかないのかもしれない。
もし俺の人生が誰かの創作物だったなら、この記憶も全部、比喩表現なのだろう。
それかこれが夢であるのならば、いつまでも醒めないままでいたかった。
隔ての空
宮塚恵一
ライト文芸
突如として空に現れた謎の円。
それは世界中のどこからでも見ることのできる不思議な円で、この世界にはあの円を見える人間とそうでない人間がいて、見える人間はひどく少ない。
僕もまたあの円が見える数少ない一人だった。
わたしの“おとうさん”
谷内 朋
ライト文芸
【本文のあらすじ】
母を亡くしたJKの前に三人の父親候補が現れて……というお話です。
【登場人物】
福島はるな《フクシマハルナ》(18)
主人公、語り部。突然の事故で母を亡くした女子高生→女子大生。
福島なつひ《フクシマナツヒ》(46)
はるなの叔母、実家で喫茶店を営んでいる。
千葉旭《チバアキラ》(54)
父親候補その一。国家公務員、既婚。
長野朔《ナガノサク》(49)
父親候補その二。企業経営者、独身。
神戸鷹《カンベタカ》(51)
父親候補その三。音楽プロデューサー、母の元ヒモ。
水戸リョウ《ミトリョウ》(29)
喫茶店の従業員。
福島ふゆみ《フクシマフユミ》(享年51)
はるなの母、仕事中事故に巻き込まれ帰らぬ人に。
ボイス~常識外れの三人~
Yamato
ライト文芸
29歳の山咲 伸一と30歳の下田 晴美と同級生の尾美 悦子
会社の社員とアルバイト。
北海道の田舎から上京した伸一。
東京生まれで中小企業の社長の娘 晴美。
同じく東京生まれで美人で、スタイルのよい悦子。
伸一は、甲斐性持ち男気溢れる凡庸な風貌。
晴美は、派手で美しい外見で勝気。
悦子はモデルのような顔とスタイルで、遊んでる男は多数いる。
伸一の勤める会社にアルバイトとして入ってきた二人。
晴美は伸一と東京駅でケンカした相手。
最悪な出会いで嫌悪感しかなかった。
しかし、友人の尾美 悦子は伸一に興味を抱く。
それまで遊んでいた悦子は、伸一によって初めて自分が求めていた男性だと知りのめり込む。
一方で、晴美は遊び人である影山 時弘に引っ掛かり、身体だけでなく心もボロボロにされた。
悦子は、晴美をなんとか救おうと試みるが時弘の巧みな話術で挫折する。
伸一の手助けを借りて、なんとか引き離したが晴美は今度は伸一に心を寄せるようになる。
それを知った悦子は晴美と敵対するようになり、伸一の傍を離れないようになった。
絶対に譲らない二人。しかし、どこかで悲しむ心もあった。
どちらかに決めてほしい二人の問い詰めに、伸一は人を愛せない過去の事情により答えられないと話す。
それを知った悦子は驚きの提案を二人にする。
三人の想いはどうなるのか?
【完結】ある神父の恋
真守 輪
ライト文芸
大人の俺だが、イマジナリーフレンド(架空の友人)がいる。
そんな俺に、彼らはある予言をする。
それは「神父になること」と「恋をすること」
神父になりたいと思った時から、俺は、生涯独身でいるつもりだった。だからこそ、神学校に入る前に恋人とは別れたのだ。
そんな俺のところへ、人見知りの美しい少女が現れた。
何気なく俺が言ったことで、彼女は過敏に反応して、耳まで赤く染まる。
なんてことだ。
これでは、俺が小さな女の子に手出しする悪いおじさんみたいじゃないか。
タイムトラベル同好会
小松広和
ライト文芸
とある有名私立高校にあるタイムトラベル同好会。その名の通りタイムマシンを制作して過去に行くのが目的のクラブだ。だが、なぜか誰も俺のこの壮大なる夢を理解する者がいない。あえて言えば幼なじみの胡桃が付き合ってくれるくらいか。あっ、いやこれは彼女として付き合うという意味では決してない。胡桃はただの幼なじみだ。誤解をしないようにしてくれ。俺と胡桃の平凡な日常のはずが突然・・・・。
気になる方はぜひ読んでみてください。SFっぽい恋愛っぽいストーリーです。よろしくお願いします。
ノイジーガール ~ちょっとそこの地下アイドルさん適性間違っていませんか?~
草野猫彦
ライト文芸
恵まれた環境に生まれた青年、渡辺俊は音大に通いながら、作曲や作詞を行い演奏までしつつも、ある水準を超えられない自分に苛立っていた。そんな彼は友人のバンドのヘルプに頼まれたライブスタジオで、対バンした地下アイドルグループの中に、インスピレーションを感じる声を持つアイドルを発見する。
欠点だらけの天才と、天才とまでは言えない技術者の二人が出会った時、一つの音楽の物語が始まった。
それは生き急ぐ若者たちの物語でもあった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる