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女の決断

その一

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 北海道の季節の移り変わりは夏が過ぎると同時に一気に駆け足となり、十月ともなると辺りは紅葉が本格化していた。まどかの出産まで二ヶ月を切り、今のところ何事もなく順調に過ごしている。
 ところがいつものように店の手伝いをしていたある日の午後、もうじき仕事帰りの客がやって来る時間帯で忙しくなり始めた矢先にドサッ! という音と共に大量の果物が床一面に転がった。
「まどか?」
 すぐ近くで作業をしていた赤岩が物音と果物に気付いて視線をやると、商品の補充に精を出していたまどかが倒れている。
「礼! ばんぺ頼む!」
 彼は奥の倉庫で在庫チェックをしている村木を店頭に呼び付けて店番を任せると、香世子に掛かりつけの病院に電話をさせてからまどかを抱えて病院ヘ直行した。その直後、チェックイン業務でこの日の仕事を終えていた小野坂が客として『赤岩青果店』に顔を出す。
 今日は随分忙しそうだな……異常にばたついている店内の様子を覗うと、村木が一人で店の切り盛りをしているのが見えた。それだけであれば今更気にも留めないが、この時間にはほぼいるはずの赤岩夫妻が不在なのが気になり邪魔になるのを承知で声を掛けた。
「この時間帯に一人なんて珍しいじゃねぇか」
「まどかが倒れて二人共病院なんだへ! 今日はバイトも来ねえしさ……」
 村木は友の問い掛けに答えながらも、次々にやって来る客の相手をせっせとこなしている。かつてここでアルバイト経験のある小野坂は荷物を奥に放り込み、手伝うよと村木の隣に立つ。
「レジは無理たぞ、値段まで分かんねぇから」
 彼は客が購入する商品を袋詰めにして手渡す作業を引き受け、一つ作業が減った村木の客捌きのペースが一気に上がる。二人は息の合った連携プレーでこの忙しさを乗り切り、辺りが暗くなって接客が一段落すると、さすがに疲れた村木はレジスペースの中で座り込んだ。代わりに小野坂が店に出て売り切れている商品を補充する。
「おばんです、今日は誰も居ねえんですか?」
 と、ここ数日大学の試験で休んでいるアルバイトの男子学生が訪ねてきた。彼からは村木の姿が見えず、代わりに働いている小野坂に声を掛ける。
「今は村木しか居ねぇんだ、小せぇから見えてないと思うけどレジの奥でへばってる」
「したっけ社長は?」
「急用が出来て席を外してるらしいんだ。香世子さんとまどかちゃんも」
「したら戻ってこられるまでの間だけ手伝います。試験は明日一日空くんで」
 彼は倉庫の奥にある従業員用のロッカールームに入って支度を始める。
「悪かったな、手伝わして。バイト来たしたからもういいべ」
「明日の夜まで休みだから遠さんたちが戻ってくるまで居るよ。それに……」
 小野坂はまどかが倒れた事が気に掛かり、とても帰る気になれなかった。何も無ければ良いけど……一人先に戻ってきた赤岩が慌ただし家中をく動き回っているのが見えていたので引き続き仕事を手伝い、閉店してから購入予定だったアボカドを買って自宅に戻れたのは午後九時を過ぎた頃だった。

 午後八時に閉店した『赤岩青果店』、普段なら客がいれば多少時間を押して営業するのだが、この日はさっさと閉店の片付けを始めていた。赤岩は小野坂とアルバイト君を先に帰宅させ、夕飯の支度を村木に託して再び病院に向かおうと家を出る。
「まどか、倒れた原因はなんだべか?」
「……飯ん時に説明する、正直どっからくっちゃっていいか俺にも分からん」
 叔父の言葉は歯切れが悪く、重苦しい空気を纏っていた。普段の村木なら何とかそれを打破しようとする性分なのだが、この時はさすがに何も思い浮かばず、ただただ見送る事しかできなかった。
 まどかは検査入院が必要となり、戻ってきたのは赤岩夫妻だけだった。食事の支度を任されていた村木だったが、実際料理が出来る訳ではないので、白米とインスタント味噌汁、昼食の残り物を並べただけの夕飯となる。三人は何となく沈んだ空気の中食事にありつき、テレビの音だけが虚しく響き渡る。
「まどかの体どっか悪いんかい?『飯まくらう時説明する』ぬかしたべ」
 村木は妹が心配で早く事情が知りたかった。
「そうだったな」
 赤岩は一度箸休め、香世子は夫の横顔を見つめている。
「アイツな、腎臓に疾患があるって。出産にはリスクが伴うしたから、本来なら治療を先にした方が良いそうなんだけど本人が『産むっ!』っつって聞かんかったらしいんだ。したっけ病院としても出来る限りのサポートをする形を取って今に至ってるてさ。どうも恋人と別れたんもそこが原因みてえでな」
「……」
 これまで殆ど病院に縁の無かった妹に病がある事を知った村木は、予想以上のショックで何も言えなかった。香世子は赤岩から村木に視線を移したが、どう声を掛けて良いものか思案に暮れている。
「……なしてんな選択したんだべ?産んで終わりでねえのにさ」
「そりゃあ腎疾患になったからって子供が産めなくなる訳じゃないべさ。可能性はゼロでねえのに、折角宿った命を潰す事が出来んかったんでないかい?」
「……」
「まどかに生きてて欲しいのは分かるよ、けどあの子の子供を産む決意は固いからさ。私たちはその気持ちを尊重して、出来る事をする方がいくないかい?」
 香世子はそう言ったか、まどかを失うんはイヤだ!それしか頭に無い村木は叔母の言葉が腹に入らない。それでも既に出産以外の選択を望んでいない以上、兄としてしてやれる事はもはや何も残っていないような気さえしてきた。
「……オレには産む事しか考えてねえようにしか聞こえねえべ、子供は勝手に育つ訳でねえのに。それが母親の自覚ってやつなのかい? 男だか分からんだけなのかい?」
 村木はそれ以上食事に手を付けずに席を立つとそのまま自室に籠り、電気も点けずにベッドの上に座り込んでいた。

 彼はまどかと共に過ごした頃の記憶を辿っていた。彼女は他人にくっ付き回るような女の子ではなく、時折何処かへ出掛けては迷子になってなかなか戻ってこない事もしばしばあった。
 子供の頃、秘密の場所を見つけてきたと二人で山奥に入り、湧水を飲み過ぎてお腹を壊したり、またある時は気球船を追い掛けて隣町まで行き、気球船を飛ばしていた企業の女性社員に保護されたこともあった。
 更には当時交際していた男子学生と共に過ごしたいがために夏休みを利用して彼の進学先へ家出し、新学期になっても戻ってこないと騒ぎになった。結果村木が説得のためにそこへ出向く羽目となったが、彼自身もほだされて一週間遊び呆けてからの帰宅となり両親に大目玉を食らった。
 そんな跳ねっ返りの妹が腎疾患? 死ぬ可能性すらある大病を患っていることが未だ想像出来ない村木は、本当にまどかが居なくなったらどうしよう……と頭の中の整理が付かずベッドに寝転んだが、急に感傷に浸って涙をこぼす。
 兄としてオレに出来ることって何なのか? 子供を産んで育てるのは今でないといけないのか? 考えたくはないが仮にまどかが死んで子供だけが遺ったら、育児経験の無い自分たちだけでどう育てるのか? この時の彼には何の答えも見つけられず、いつの間にか眠っていた。
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