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清算

その二

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 夜、川瀬が店番をしているところへ村木が慌ただしく訪ねてくる。
「小野坂智戻ってるしょ?」
「一緒じゃなかったの? 昼間顔を見せなかったからてっきり……」
 取り次がないで欲しいと言った小野坂の要望に忠実に従う川瀬はすっとぼけて質問返しをする。しかしそれで引き下がるはずもなく、フロントから離れようとしない。
「三時過ぎには別れてる、さすがに戻ってきてるしょ?」
「じゃ電話してみる、持ち場離れられないから」
 客室用の内線電話に手をかけた川瀬は、【サルビア】ルームに電話する。二度ほどのコールで小野坂からの反応はあったが、わざと何も答えず受話器を耳から外す。
「出ねえんかい?」
「うん、いつもちゃんと出てくださるから多分まだ戻ってきてないと思うよ」
 川瀬はもう一度受話器を耳に付ける。
『お手間お掛けしてすみません』
 フロントの状況を察知したのか、小野坂はそう告げて電話を切った。川瀬はそれを聞いてから受話器を置き、首を横に振った。さすがの村木もこれ以上は食い下がれず、ゴメンとしおらしく謝った。
「智が戻ってきたらさ、あの事責めてる人は誰も居ねって伝えて」
 村木は寂しそうに『オクトゴーヌ』を後にする。川瀬は嘘を吐いた事に少し心が痛んだが、仕事に私情は挟めないと敢えて感情に蓋をする。その間根田はドリンク無料チケットを利用した客の食器を洗っていたはずなのだが、いつまで経っても戻ってこない。
 持ち場離れて大丈夫かな? と思いつつ、誰も居ないので少しだけのつもりで厨房を覗くも誰も居ない。どこに行った?多分気にはなったが、トイレという事にしようとフロントに戻る。
 
 その頃根田は、普段取引している『パーネ』のパン、嶺山が未だ懲りずに持ってくる『アウローラ』のパンと紅茶を乗せたトレイを持って【サルビア】ルームの前に居た。既に夜食は断られていたのだが、彼にはどうしては尋ねておきたい事があった。
「失礼致します」
 根田は意を決してドアをノックしてからひと声かける。
「夜食でしたらお断りしましたよ」
 意外とすんなり顔を出した小野坂は従業員の手元にあるトレイを見て変な顔をする。しかし彼は全く表情を崩さずに容赦無く差し出した。
「食べ比べをお願いしてもよろしいでしょうか? お客様のご意見を伺いたいんです」
 俺に? 不思議そうに訊ねる客に、根田はハイと笑顔を見せる。
「実はボク、パンの取引先を替えた方が良いと思っているんです」
「は?」
 突然の内部事情の暴露に小野坂は目を丸くする。こんな話他の誰かに聞かれるのはマズイだろ? と根田を部屋に招き入れ、辺りを気にしてからドアを閉めた。
「ちょっとそれ失言だって、他の客に聞かれたらどうすんだよ?」
「大丈夫ですよ、皆様三階のお部屋をご利用ですから」
 呑気そうな返答をしてくる従業員にそう言う事じゃなくてと呆れてみせるも、当人は気にするでもなくトレイをテーブルの上に置いた。そして小野坂の向かいに座り、お願い出来ますか? と無邪気な顔で言うので断れなくなる。
「あなたならボクの言いたい事、ご理解頂けるかと思いまして」
 根田は小野坂が食事で出しているパンに手を付けていないことに気付いていた。そこを上手く利用し、『アウローラ』のパンに味を占めた事で密かに元従業員の小野坂を巻き込む作戦を練り上げていた。
 マイペースで話を進める根田に主導権を握られた小野坂は、仕方無く二種類のパンの食べ比べに付き合うことにする。まずは向かって左側にあるパンを手に取って半分に割る。行儀作法としては問題があるのだが、パンに鼻を近付けて匂いを嗅いだ。
「こっちが普段出してるパンだよね?」
「ハイ、先代から取引のあるパン屋さんだそうです」
「って事は『パーネ』か」
 彼は独り言を言いながら、気乗りしなさそうに一口かじる。しかしそれ以上は食べる気になれずにパンを皿に戻し、紅茶で口の中をリセットさせる。
 今度は右側のパンを手に取り、同じように半分に割る。こちらのパンは鼻を近付けなくても良い香りが広がってきて、これは絶対に美味いと直感させるほどの出来栄えだった。
「こっちのは食べた事無いな、どこのパン屋?」
「『アウローラ』ってパン屋さんです。先月オープンされたばかりで、最近店長さんが試食を持って来られるんです」
「へぇ、何時頃持って来たか覚えてる?」
 小野坂はいつしか真剣に食べ比べに取り組んでいて、根田は嬉しそうな表情を見せる。
「昼間に持って来られました。多分十一時頃に焼き上げてると思います」
「結構良い腕してる」
 小野坂はパンの割れ目をじっくりと観察し、しっかりと咀嚼して口の中に広がる香りを感じながら、美味いねと素直に感想を述べる。気付けばきれいに完食しており、それを見ていた根田は何か言いたげな顔で小野坂に擦り寄った。
「な、何?」
 小野坂は少し気味悪がって距離を取る。
「ねっ♪ 替えた方が良いと思いません?」
 根田は嬉しそうに身を乗り出して賛同を求める。しかしあくまで只の客である小野坂の意見は慎重だった。
「多分味だけの問題じゃないんだろ? 先代からって事は、五十年ほど取引のある所だからそう簡単に打ち切れないだろうし、金の事だってあるだろうしさ」
「お金の話は店長さんに伺ったんです、『仮に取引をするとして、原価はどうお考えですか?』って。ダメ元でお訪ねしたら今の所より良心的だったんです」
 彼は相当パン屋を替えたいと見えて話に熱がこもっている。しかし『パーネ』というパン屋には思い入れのある小野坂にとって、例えこのクオリティになっても取引を止められないのも分かる気がした。
「昔は美味かったんだよ『パーネ』。大正時代からある老舗のパン屋で、特に三代目の爺さんにはめちゃくちゃ良くしてもらったんだ」
 小野坂は突然昔話を始める、まるで過去を整理するかのように。

 夕食の後夜勤に備えて仮眠を取った堀江は、再びペンションに戻ろうと『離れ』を出たところで嶺山と鉢合わせる。彼はスポーツウェアに身を包み、軽くストレッチをしているところだった。
「こんばんは」
 堀江は挨拶だけして中に入ろうとすると、ちょっと待ってと呼び止められる。
「何でしょう?」
「何でウチとの取引、頑なに断る訳?理由くらい聞かしてくれへん?」
 嶺山は腕に自信を持っているらしく、ただただ断ってくる事に対して納得をしていないようだ。
「確かにあなたの作るパンはとても美味しいと思います。しかしここには五十年の歴史があるんです。現在取引のあるパン屋さんとも五十年のお付き合いがあります。私は親戚縁者ではありませんが、現実的なところだけで歴史を切り捨てるつもりはありません」
「うん、それは知ってる。俺の祖父母ここの出身で、『オクトゴーヌ』の初代と『パーネ』の三代目とは同級生やったから。けどあそこまで味落としてる『パーネ』に肩入れする必要なんてあるんか?」
「先代から受け継いでいるんです。『パーネ』さんも代替わりされたばかりですから経験を積まれれば……」
「それはどやろ? 俺に言わしたらあの五代目にパンへの情熱は感じられへんけど」
 嶺山の言葉は一見傲慢に聞こえるが、確かに彼の持ってくるパンには一つ一つ心を込めて丁寧に作っているのは感じ取れた。五十年の歴史、衛氏の遺言、それらが無ければ既に『アウローラ』に乗り替えているだろう。二軒のパン屋の実力差はそれくらい歴然だった。
「こちらからお願いしている以上、まずはいっぱしの取引先として信頼される事が大切だと考えています。だからこそ中途半端な事をしたくないんです」
「それ初日だか二日目だかに言うてたな。けど最終的に満足させるべき相手は誰や? 歴史とかにこだわる前に、そこを踏まえた上で考えてみてくれんかな?」
 嶺山はストレッチを終えて堀江に背を向けると、なかなか良い勢いで走り去った。背中が見えなくなるまで何となく見送っていると、今度は村木が『オクトゴーヌ』にやって来る。
「こんばんは、こんな遅くにどうしたんです?」
 堀江の挨拶に対し、いつもなら気持ち良いくらいの挨拶をしてくる村木が、この時はうんとしか言わず、表情も冴えない。
「もしかして、小野坂さんと何かあったんですか?」
「え? なして?」
 村木ははぐらかそうとしているのか分かって欲しいのか中途半端な態度を見せる。しかし何から何まで分かり易い男なので、堀江は村木を誘って厨房に入ると、川瀬が『アウローラ』のケースを見つめている。
「悌が戻って来ないんです。カフェ営業はとおに終わってるし、トイレにしてもちょっと遅すぎる気がして」
 川瀬はパンが減っているケースを堀江に見せる。
「嫌な予感がします、まさか……」
「参ったな、さすがにそれは注意しないと」
 堀江は頭に手を当ててため息を吐く。その会話の隙に村木は店内に入り、そのまま客室に繋がる階段を上り始めた。
「礼さん?」
 堀江は村木を追い掛けようと厨房から出ようとする。しかし川瀬がそれを引き留め、先程ここに来た事を告げた。
「その時は取り次がなかったんですけど、小野坂さんが居なくなった事情を知ってるみたいなのでここは任せてみませんか?」
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