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第一章
第三話 塵も積もれば山となる
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「遥くん。お昼ごはん、一緒に食べない?」
俺の背中から、林郷の声がした。
いきなり話しかけられたこと。そして、話しかけてきた人が林郷であることと、下の名前で呼ばれたこと。
衝撃のあまり、俺は言葉が出ずにいたが、林郷は気にせず話しかけてきた。
「急でごめんね。でも、どうしても一緒に食べたいの」
わからない。林郷の心境の変化が、全くわからない!
こんなにグイグイ来る子だったっけ?
……いや、そんなことを考えても仕方がない。
とにかく今は、言われた言葉だけを受け取ることにしよう。
「わわ、わかった。でも、向かい合って食べることは、で、できないぞ」
林郷はそれを聞いた後、急いで自席へ向かった。
そして、自分の机を椅子を、俺の隣まで移動させてきた。
「……隣の席なら、顔は合わないよね。このくらいの距離でも、大丈夫?」
俺は圧倒されながら「だ、大丈夫」と呟いた。
まるで人が変わったかのような態度を見せた林郷だったが、その姿は他の皆にとっても衝撃だったようだ。
津島とあけびは目を合わせたまま、しばらく静止していた。
古市は食事の手を止め、林郷の方をじっと見つめている。
柘榴も頭に疑問符を浮かべていたが、特に何もせず黙々と牛乳を啜っていた。
ちなみに、梅村は不在だ。
林郷はかわいらしいキャラクターのお弁当箱を広げると、「いただきます」と言ってから、おかずに手を付けた。
「遥くん。卵焼き、甘いのとしょっぱいの、どっちが好き?」
「あ、甘いの…か、な」
「私と一緒だね」
……駄目だ。この違和感に耐えられない。
答えてくれなくても良い。俺は半ば自棄になりながら、口を開いた。
「りり、林郷。急に俺に、は、話しかけて、どうしたんだ?」
林郷は箸を止める。短い沈黙のあと、俺にしか聞こえないくらいの大きさの声でこう言った。
「遥くんの話を聞いて、考えを改めたの」
「?ど、どういうこと?」
「一時限目のとき、どんなときに具合が悪くなっちゃうか、教えてくれたでしょう?
それを聞いて、ああ、遥くんは、たくさん大変な目にあってきたんだなあって思って」
『安全対策マニュアルは血で書かれている』というのは、有名な言葉だ。
確かに俺は、この症状と向き合うために、何度も何度もぶっ倒れた。
そのせいで一日中動けなくなったときもあったが、新たな発見から、対策を見出すこともできたし、克服できたことも少なからずある。
ぶっ倒れた過去の俺がいるからこそ、ある程度は外出もできるし、今こうして、学校に通うこともできている。
「このクラスの子はみんな良い人だから、良い関係を築けてはいるし、決して仲が悪いわけじゃない。
それで十分だと思ってた。でも……私、本当は、もっと皆と仲良くしたいって思ってる。
……それで、ええと……要領を得なくて、ごめんね。つまり、何が言いたいかっていうと……」
林郷の声が震えている。俺は何も言わず、彼女の続きの言葉を待った。
「遥くんのことを知ったおかげで、勇気が出たの。決心がついたの。
私、失敗が怖くて……それを言い訳にして、皆から距離を取ってた……ように思う。
いろんな経験して、いろんな失敗をして、自分ができることを増やそうって、そう思えたの。だから、ありがとう」
林郷はそう言うと、お弁当を食べ進める。
俺はただ、症状や発症条件を知ってほしい一心で、深く気にせずに事実だけを伝えたつもりだった。
でも林郷は、そこから多くのことを考えてくれて、悩んでくれて、気にしてくれて、思ってくれた。
思わず、涙が出そうになった。
過去の自分の努力が、俺以外の人に影響を与えたことを、誇らしく思えた。
「ねえ、遥くん。明日も隣で食べてもいい?」
「わ、わかった。……桃と彼方も、いい、一緒になると思うが、か、構わないか?」
「それはもちろん。そういう決まりごととかって、考えてあるの?」
「厳しく、決めてるわけじゃない。さ、最低限、登下校と、お昼は……っ一緒だ」
俺はなんだか照れくさくなって、三食そぼろ弁当を一口頬張った。
するとその時、後ろから彼方の声が聞こえた。
「お兄ちゃん!林郷先輩!一緒に食べよ!」
「彼方ちゃん、こんにちは」
「桃、彼方、遅かったな」
彼方は林郷に挨拶すると、俺の膝の上に乗ってきた。重い。
「いや、桃が先に着いてたはずなんだけど、なんか、ずっとここの廊下で座ってたの」
「わーっ!い、言わなくていいから!」
桃は彼方の口を塞ぐ。「もがもが」と言いながら、器用にお弁当を開き始めた。……俺の机が狭くなった。
「そうだったのか。すぐに話しかければよかったのに……何かあったのか?」
「ちょっ……ちょっと、胃が痛くて~……ハハハ」
「麻平さん、大丈夫?胃腸に良い漢方、あげようか?」
「い、いえっ!林郷先輩!お気持ちだけありがたく頂戴致しますっ!お気遣い傷み入りますっ!」
武士?
桃は教室の後ろから椅子を持ってきて、林郷の机の上にお弁当箱を置く。
明日からは、昼休みが騒がしくなりそうだ。
有意義なこの時間が、今後どのような良い変化をもたらしてくれるのか。俺は楽しみで仕方がなかった。
+++
そんな日々が二週間ほど過ぎた頃、校内の体育館を使って、部活紹介イベントが開催された。
それをきっかけに、学校全体で部活勧誘が活発になり始めた。
掲示板にはポスターがびっしり貼られ、廊下では部員たちが演説行進を行っていた。教室に入って来る部活もあった。
青果花高校は、植物園を兼ねているだけあって、特に、園芸部、生物部、料理部といった果物や花にちなんだ部活に力を入れているらしい。
かくいう俺は、部活に入るつもりはない。
桃や彼方の負担も大きくなるし、無作為に関係を広める必要はないからな。
「なあなあ、柘榴。お前は、部活どっか入るのか?」
俺は柘榴の背中を叩き、そう聞いた。
今は、四時限目の授業が終わったばかり。雑談する時間くらいはあるだろう。
柘榴は顔をこちらに向けず、ゲーム開発の本を見つめたまま答えた。
「……囲碁将棋部」
「ぶっ」
しまった、思わず吹き出してしまった。
怒った柘榴は本を机の上に置き、俺の頭を手のひらで叩いた。
「何で笑うんだよ!失礼だろ!」
「い、いや、悪い……想像したら、あまりにも似合わなすぎて……くくっ」
部活紹介イベントで出ていた囲碁将棋部の部員たちは、メガネでひょろっとした……失礼だが、いわゆる、オタクっぽい男子ばかりだった。
とはいえ、部室内は畳の部屋で、小物も和風のものばかり。
服も和服で統一されているようで、そのまま歴史の教科書に載りそうなくらい気合が入っていた。
その厳かな雰囲気には、正直圧倒された。コンセプトを大切にした、硬派な部活というイメージだ。
そんな、日本らしさ一色ともいえる部活に、金髪碧眼の柘榴が入部するのだから、似合わないって思うのも無理はないと思う。
……いや、むしろ良いアクセントになるかもしれない。柘榴であれば和服も着こなすだろうし、女子人気も出そうだ。
囲碁将棋部員の心情が気になるところだ。今度、こっそりお邪魔してみることにしよう。
「ちなみにボクは陶芸部だよ!もちろん、次期部長の座は既に確保したるのさ。なんたって梅村の家系だからね」
梅村は、柘榴の横から割り込み、鼻息を荒くして語りだす。
お前には聞いてないんだが……というか
「へぇ。梅村って陶芸の家系なのか?」
「そうとも!江戸時代から続く名門で、文化財保護賞に選ばれたこともあるのさ!」
「……なんか、『落ちた名家www』『お先真っ暗』とか言われてるぞ」
柘榴が梅村にスマートフォンを向ける。
どこかのブログ記事に、一部侮辱的なコメントが付いていたようだ。
「なっ……!失礼な!悪質な誹謗中傷だ!訴えてやる!」
「まあ待て梅村。確かそれ、眉唾な情報しか載せない変なブログだろ。顔の見えない奴らの評価に惑わされるもんじゃないぞ。
……柘榴も、そういうのを本人に見せるのはよくないぞ」
ギスギスした雰囲気になりそうだったので、全力でフォローを入れた。
柘榴は一言「悪い」と言い、教室を後にする。
残った梅村は、さきほど以上に誇らしげな表情を浮かべ、口を開いた。
「遥クン!キミ、わかっているじゃないか!そう。梅村家の栄光は、まだ失われてはいないのさ!」
あれ、衰退しつつあるのは事実っぽいぞ。
……これ以上、この話題に触れるのはやめよう。
「ふ、古市は、部活とか入っているのか?」
俺は話題を逸らすような形で、隣の席に目を向ける。
古市は、大股を開きながらハンドグリップを握っている。
俺よりタッパも筋肉量もあるし、スポーツ部員垂涎ものの体格だ。きっと、何かしらのスポーツ部で大活躍していることだろう。
「私は帰宅部です」
思わずズッコケそうになった。
「じゃ、じゃあ、地域のスポーツクラブに所属していたりとか……?」
「いいえ。いろいろな方から勧誘はされますが、今までに何かやったことはないですし、新しく始めるつもりもありません」
俺の心の中の、何かしらのスポーツの監督が涙を流していた。
……父さんが古市に会ったら、本当に喉から手を出すぐらいの勢いで勧誘してきそうだ。
なるべく会わせないようにしよう。
「ですが、風紀委員の活動をしています。部活には所属せず、委員会活動のみを行う生徒も多いんですよ。
このクラスだと……津島がそうですね。彼女は図書委員です」
古市は風紀委員の仕事を誇らしく思っているのか、今までにないくらい口調が軽やかだった。
俺はその機会を逃さないよう、詳細な説明を求めた。
「風紀委員って、具体的にはどんなことをしているんだ?」
「主に行っているのは、服装点検と持ち物検査、校則違反の取り締まりです。
他にも、校内の巡回とか……そうそう。以前、喧嘩の仲裁に入ったこともありました」
喧嘩していた人たちは、無事だったんだろうか。
それにしても古市は、誰よりも礼儀や礼節を大切にしていて凄いな。風紀委員の皆さんや先生方も、さぞかし彼を頼りにしていることだろう。
……だとすると、態度やガラだけを悪く見せているのは、一体何故なんだろうか。
そう思いつつ、青果花高校の他の委員会活動について尋ねようとした。
そのときだった。
「こんこーん!失礼しまぁ~す」
瓜二つな見知らぬ男が二人、いきなり教室に入ってきた。
そして彼らは何も言わずに黒板の前に立ち、何かのプリントを配ろうとしている。
「ねえちょっと。邪魔だから出て行ってもらえる?」
授業の板書を消していた津島が、ギロッと睨み、低い声で彼らを非難する。怖い。
「ごーめんごめん!すぐ終わるから!」
「え、てかキミ、綺麗だね!彼氏とかいる?」
しかし、彼らは手を止める様子を見せないどころか、むしろ津島に絡みに行った。強い。
「……キモッ。……アンタら、いつか大怪我するわよ」
津島はゴミを見るような目で彼らを一瞥すると、ガン無視モードに移行してしまった。
津島ーっ!諦めないでくれー!
「えーっと、俺たちバスケ部なんだけどぉ……部長がうるさいんで、勧誘しに来ました~」
「ここの紙、後で見といてね~。んで、俺たちの部活なんだけど~去年は地区大会でぇ~……」
どうやら、彼らはバスケ部員のようだ。
その態度で勧誘されては、入部したいと思う人はいなさそうだが……。
そう思っていながら横に目をやると、今にも爆発しそうな古市がプルプルと拳を震わせていた。
古市の一番嫌いなタイプなのだろう。古市も態度が悪い節はあるが……それにしても、こいつらのは品がなさすぎる。
彼らが要領を得ないまま演説を繰り広げていると、林郷とあけびが席を立つ。
後ろ姿しか見えないが、おそらく精一杯睨んでいるのだろう。そして、下品な彼らに向かって牙を剝いた。
「あ、あの。もう授業が始まる時間だし、教室に戻った方がいいんじゃないかな」
「そーそー!うるさいし、どっかいってよー!」
「あっ!女子部員も大歓迎だよ~、ね、兄ちゃん?」
「そうそう!女子バスケ部でもマネージャーでもおっけー!
……ってかキミ、とってもチャーミングだね!ねね、連絡先交換しない?」
またしても、彼らに"にらみつける"は通用しなかったようだ。
こいつら無敵か?いくらなんでも、聞く耳持たなすぎだろ。
「美術部だから、バスケ無理だし!てか、交換もしないし!」「私は料理部に入ってるので」
「そっか~、残念……えっ!!!ちょっと待って!?!?」
林郷のことをジロジロと見ていた男子生徒が、今まで以上に大きな声を出す。
何だ?何か気になることでもあったのか?
「兄ちゃん、この子、めっちゃおっぱいデカいよ!!!」
「うーわマジか!!!タイプだわ!!!」
よし、今すぐ追い出そう。
すぐにでも追い出さなかったことを後悔しながら、俺は林郷とあけびの前に出た。
「おい、失礼だぞ。さっさと帰れ。二度と来るな」
「「……」」
間に男が入ったのが気に食わなかったのか、彼らのテンションは急速に冷めていった。
「チッつまんねー。行こうぜ」
「……おい、黒弥(くろや)。こいつの顔、どっかで見たことねーか?」
「んー?……あぁ~!」
黒弥?どこかで聞いたことがあるような……あっ。
俺たちはほぼ同じタイミングで、その事実に気が付いた。……気が付いてしまった。
「青翔(あおと)兄ちゃん!こいつ、中学のとき不登校になった奴だ!」
「っあ~そうだそうだ!名前なんつったっけ?女みたいな名前だったのは覚えてるんだけどなぁ~」
こいつらは、倫辺青翔(りんべあおと)と倫辺黒弥(りんべくろや)。
俺と同じ、増佳(ますか)中学校出身の双子で……一度も話したことはないが、クラスメイトだ。
雰囲気が変わりすぎていて、気が付かなかった。当時はもっと根暗な印象だったが……。
俺は、この後双子から言われるであろう言葉を想像して、全身の血の気が引いた。
「なんで最後の方、学校来てなかったの~?」
「あれ、こいつが不登校になった理由って確か……女が怖いから?とかじゃなかったっけ?!」
「え、そーなん?!ってことは、ホモなん?!
……あ、だから"モンスタークラス"にいるのか!納得だわ!」
「あなたたち!黙って聞いていれば……さっきから失礼すぎではありませんか!?」
「古市クン!落ち着いて!暴力はダメだ!」
梅村が必死に古市を止めている。
俺は深呼吸し、ドクドクと音を立てる心臓を落ち着かせる。
「そんなの、どうだっていいだろ。……ほら、さっさと教室戻れよ」
本当は思い切りぶん殴ってやりたかった。空手の基礎は習っているし、こいつら程度であれば、容易くかたが付く。
だが、父さんは「武術は人を守るためにある」と言っていた。その教えを無碍にはできない。
それに、大事にすると悪い噂も立つだろう。クラスの皆に迷惑がかかる。
「ちょっとくらいいいじゃん!話そーぜ!……え、てか、ここ通ってるってことは治ったん?
それとも、やっぱネタだったり?ま、誰にでもそういう時期あるもんな!俺には感情がない……みたいな?」
「女なんて弱っちいモン、大した事ないだろ?ビビりすぎなんだよ!陰キャかっ!
までも、これで女とセックスできるな!よかったな!これでもう、男のケツ追っかけなくて済むぞ!」
「いい加減にして!」
怒声が教室内に響き渡る。一瞬、誰の声なのかわからなかった。
しかし、すぐにその声の主は判明した。
林郷だ。彼女は大粒の涙をボロボロと流しながら、身体を震わせている。
「何も知らない癖に、知ったような口利かないで!
私のことはいくら侮辱したっていい。でも、遥くんの……"友達"のこと、馬鹿にしないで!」
「そんなマジに怒んなよ~。え、もしかしてキミ……こいつのこと好きな……っ!?」
次の瞬間、いつの間にか倫辺兄弟の背後に回っていた古市が、彼らの後襟を掴んだ。
「オイ!なにすんだよ!」「く、苦しっ…!離せっての!」
「……」
倫辺兄弟はジタバタともがき抵抗していたが、古市の巨躯には一切通用していなかった。
古市はそのままずんずんと歩き、彼らを廊下に突き出すと、教室の扉の内鍵を閉めた。
ガチャリ。
教室の後ろからも、鍵を閉める音が聞こえた。津島だ。
これで、彼らはもうこの教室には入れない。
「チッ……つまんねーの。黒弥、行こうぜ」「わかったよ、兄ちゃん」
彼らはまだ何か言いたそうにしていたが、古市にビビったようで、そのままどこかに行ってしまった。
「ら、雷くん、ありがとう……」
「泣かないで~シュリちゃん~」
涙声でお礼を言う林郷。
そんな林郷を、あけびはまるで母親のように抱きしめていた。
「……悪い。本来であれば、俺がやるべきことだった」
俺は古市に頭を下げる。
今思えば、同じように廊下まで引きずり出せばよかった。
……中学の頃の記憶が蘇ってしまい、そこまで気が回らなかった。というのは、言い訳だな。
古市は席に戻ると「お気になさらず。このような時の為に、鍛えてきたので」と言い、次の授業の準備を始めた。
「や、やれやれっ!こんなことなら、ボクが古市くんを止めておく必要はなかったかなっ!」
梅村は大きな声でそう言ったあと、全員の顔をチラリと見る。
明らかに「そんなことないよ」待ちではあるが、普段通りの梅村を見て、俺の心が少しずつ晴れてきた。
「いえ。あの時の私は、頭に血が上りすぎていました。静止していただき、ありがとうございます」
「バイソン、よくライチを止められたね~!ちっちゃいのに!」
「あ、あけびクン!一言余計だよ!」
確かに、あの対格差で古市を静止できていたのは驚きだな。力ではなく、言葉で説得していたのだろうか。
そう考えると、梅村のよく回る口は一種の才能なのかもしれない。
ガタガタ!ガタガタ!
「!?お、おい、何で鍵閉まってんだよ!開けろ!」
どこかに行っていた柘榴が、教室の扉を揺らしている。
「……ふふふっ」
珍しく大慌てしている柘榴の姿を見て、林郷は思わず噴き出していた。
もう、涙は引いたのだろうか。
それを確かめることは、俺にはできない。
俺は扉の鍵を開けながら、林郷の言葉を思い返していた。
"遥くんの……"友達"のこと、馬鹿にしないで!"
+++
帰りのHR後、俺たちは柿澤先生に、倫辺兄弟のことについて報告した。
「そんなことがあったのですね。教えてくれてありがとう。担任の網掛(あみかけ)先生と、バスケ部顧問の葉院(はいん)先生に伝えておきます」
柿澤先生はそう言うと、教室を後にした。クラスの皆もそれに続いて、下校を始めている。
そして、先生と入れ違う形で、桃が教室に入ってきた。
「遥先輩!一緒に帰りましょ!」
「桃か。今日は早かったな。彼方は一緒じゃないのか?」
「なんか、生徒会の用事があるみたいです。
先に帰っていいって言っていましたけど、どうします?彼方のこと、待ちますか?」
「ちょうどいい。俺も少し用事があるから、彼方のこと待とう。
……あっ!りりり、林郷っ!す、少し……時間、いいかな」
俺は、最後に教室を出ようとしていた林郷を呼び止める。
林郷は目線を合わせないまま、俺の方に少し近づいた。
「う、うん。大丈夫だよ。……何かあった?」
「えっと……桃。悪いが、少しだけ席を外してくれるか」
「えっ!で、でも先輩、大丈夫ですか?女の子と二人きりなんて……いくら広い教室でも……」
「距離を保っていれば、大丈夫だ。もし少しでも異変を感じたら、すぐ連絡するから」
桃は不服そうな顔をしていたが、林郷の顔をチラリと見て、「わかりました」と言った。
「ありがとう。この後、彼方を待つことになるだろうし、これで何か飲み物でも買ってきてくれないか」
俺は財布から千円札を取り出し、桃に手渡す。
そして、購買に向かう桃の背中を見送ったあと、林郷の前に立った。
「わ、悪い。まま、待たせたな。
……桃には、秘密にしておこうと思って」
「えっ!な、何を……?」
「き、今日のこと。あいつ正義感強いから、あ、あの兄弟のこと聞いたら、じじ、直談判しに行きそうだ」
隠し事はトラブルの元だ。だが、俺としては、倫辺兄弟と関わるのは今日限りにしたかった。
「あっ……ああ、成程……」
何故か、林郷は残念そうにしていた。
「ほほ、本題に入るが……り、林郷。あのとき、お、俺のこと、友達って……言ってくれたよな」
声が震えて、思わず言葉が途切れる。
けれどどうしても、この気持ちを伝えたかった。
「そ、その場の嘘でも、そう言われたのが……う、嬉しくて」
「う、嘘なんかじゃないよ!」
「え?」
「……確かに私たちは、お昼ごはんを一緒に食べているだけで、友達らしいことはしていないかもしれない。
でも、私は……私は、遥くんのこと、友達だと思ってるよ」
その言葉を聞いた瞬間、自分の視野がどれほど狭くなっていたのかを痛感させられた。
そうだ。俺は"あの事件"以来ずっと、女性恐怖症を克服しようと必死だった。
そしていつの間にか、克服するというのは、ただ目を合わせるとか、触れ合うとか、そんな目に見える距離を縮めることだと思い込んでいた。
でも、そうじゃなかった。
目に見える距離にこだわらなくても、心の距離を少しずつ近づけていくこと――。
それも"克服"であり、"前進"の一つなんだと、そう気付かされた。
「じゃあ林郷は、俺にとって初めての女友達だな」
気が付けば、俺の声は自然で、どもることもなくなっていた。
彼女はしばらく黙っていたが、やがて
「……そう思ってくれるなら、名前で呼んでほしいな」
と、照れくさそうな声でそう応えた。
視界の端で、彼女が右手を伸ばしたのがわかった。
けれど、俺にはまだその手を握ることはできない。
それでも、何かを踏み出したくて、俺も右手をゆっくりと伸ばした。
「これからよろしく。朱里」
「こちらこそ、よろしくね、遥くん」
差し出された手と自分の手が、わずかに宙を彷徨う。
「変な握手だね」
朱里がくすりと笑い、俺も自然と笑顔がこぼれた。
俺たちの間には距離があり、握手すら叶わない。
けれど、心の中では確実に、その距離が少しずつ縮まっているような気がした。
+++
私は購買で悩んでいた。
何を買おうかで悩んでいるわけじゃない。遥先輩のことだ。
きっと先輩は、私に何か隠し事をしている。
別に隠し事そのものが悪いわけじゃない。私だって、先輩に伝えていないことがいくつかあるし。
でも、問題は……先輩が林郷先輩と二人きりで話していることだ。
遥先輩は入学してすぐ、思い切って林郷先輩に話しかけて……そして倒れた。
それなのに、また林郷先輩に何かアクションを起こそうとしている。
お昼ごはんのときの様子を見た感じdと、確かに以前よりは、適切な距離感を保っているように思える。
でも、それは私と彼方が側にいたからだ。二人きりになっても平気かどうかは、わからない。
……今頃、あの二人は何を話しているんだろう。
こんなことなら、購買に来ないで、盗み聞きすればよかった。
……そうだ、そうすればよかったんだ!何を律義に買い物をしているんだ私は!
私は持っていたバームクーヘンを棚に戻し、二年一組の教室へと急いで戻り始める。
廊下を早歩きしながら、私は再び悩みごとをしていた。
最近、自分の気持ちが分からなくなってきている。
遥先輩のことは大切だし、恐怖症を克服して自由な生活を送ってほしいと思っている。
なのに、林郷先輩が先輩をお昼に誘ったと知った瞬間、何故か胸が苦しくなった。
林郷先輩の行動は、先輩の克服の第一歩に繋がるのに、だ。
事が悪い方向に転じて、恐怖症が悪化してしまうことを恐れているのだろうか?
それとも……先輩が変わってしまうことが、怖い?
いや、それは違う。だって、この高校に通うことを勧めたのは私だ。
もしも変わってほしくないと思っていたのなら、こんなふうに先輩の背中を押すなんてこと、しなかった。
「う、嘘なんかじゃないよ!」
ふと、林郷先輩の声が聞こえた。
いつの間にか、二年一組に着いていたようだ。
こっそり聞いていたことが知られたら、嫌われるかもしれないという考えが一瞬脳裏をよぎった。
それでも、私は先輩たちの会話を盗み聞き続けた。
「……確かに私たちは、お昼ごはんを一緒に食べているだけで、友達らしいことはしていないかもしれない。
でも、私は……私は、遥くんのこと、友達だと思ってるよ」
私は二人の様子を見守る。林郷先輩の顔は見えなかったが、遥先輩の表情が目に入った。
遥先輩は、どこか解放されたような……心のつかえが取れたような、そんな穏やかな表情を浮かべていた。
林郷先輩は、どうしてこんなにも、遥先輩に親切なのだろう。
純粋に、遥先輩と仲良くしたいだけなのか、それとも、女性恐怖症の先輩を憐れんで優しく接しているのか。
……あるいは、遥先輩に他の感情を抱いているのだろうか。
それを確かめる術は、私にはない。
しかし、林郷先輩にどんな意図があろうとも、遥先輩はいま確実に自分の殻を破り、一歩踏み出している。
この事実に間違いはない。その一歩は、私にとっても意味のあることだった。
林郷先輩の歩み寄りがきっかけで、遥先輩が前進したのなら、私も勇気を持って先輩たちに歩み寄るべきだ。
……そうだ。私も林郷先輩と友達になればいい。
彼女にもっと近づいて、どんな人なのか知り、本心を確かめればいい。
そして、私が林郷先輩と仲良くなることは、遥先輩にとっても良い兆しになるに違いない。
くよくよ悩んでいても仕方ない。
事が悪い方向に転じたとしても、私が、遥先輩を支えればいいだけだ。
そう思った矢先だった。
「じゃあ林郷は、俺にとって初めての女友達だな」
私の高揚した気持ちは、一瞬でどん底に落ちていった。悩みごとが消えて晴れやかだったのに、遥先輩はいつも私の心を雨模様にする。
遥先輩と仲良くなったのは、私が先なのに。
林郷先輩が、先輩にとっての初めての女友達。
遥先輩。それなら……桃は、先輩にとって何なんでしょうか。
―――ふと、スマホが振動した。
タイミングが良いのか悪いのか。とりあえず、通知をオフにしておいてよかった。
画面を見ると、私と遥先輩と彼方の三人で作ったグループチャットに、彼方からのメッセージが表示されていた。
「生徒会終わった!お兄ちゃん、もう帰った?」
それを見た私は「まだ校内にいるよ。今からそっち向かう」と、すぐに返信を打ち込んだ。
本当は、彼方を迎えに行く必要なんてない。
でも……今はただ、誰かと話したり、気持ちを紛らわせたくて仕方がない。
私はスマホをぎゅっと握りしめ、心の曇り空を晴らすように、生徒会室に向かって駆け出した。
彼方に会えば、少しはこの気持ちが軽くなるかもしれない。そんなわずかな期待を抱きながら。
+++
お互いに握手の手を止めると、朱里さんが何かを言いたそうにしている気がした。
「どうかしたか?」
俺がそう問いかけると、朱里さんは少し迷うような様子で、ためらいがちに言葉を発した。
「……麻平桃さん、って」
一瞬、言葉が途切れる。
そして、小さな息を飲み込む音が聞こえた。
「ご、ごめんね。答えなくてもいいんだけど……麻平桃さんは、遥くんにとって……初めての"女友達"じゃないの?」
その質問には、何かを確かめたいような……そんな真意が含まれているように感じた。
彼女がなぜこんなことを聞くのかはわからない。
でも、俺にとっての答えは決まっている。
「桃は、友達以上の特別な……大切な存在なんだ。
だから、友達って表現は、少し違う」
口に出して言うのは少し照れくさかったが、これが俺の本当の気持ちだった。
もしあの頃、桃に出会っていなかったら、俺は自分の将来に絶望し、家族は後悔の念に苛まれ続けていたことだろう。
でも、桃の存在は、俺と家族に希望を与えてくれた。
母さんも父さんも彼方も、桃のことを本当の家族のように思っているし、俺も思っている。
そう。俺にとって桃は大切な……もう一人の妹のような存在なんだ。
「……そう、なんだ」
朱里の声が、かすかに沈んだ気がした。
先ほどまでの柔らかな雰囲気が消えてしまったようで、戸惑いを覚える。
朱里はいま、どんな表情をしているのだろう。
それを確かめる術は、俺にはない。
俺の背中から、林郷の声がした。
いきなり話しかけられたこと。そして、話しかけてきた人が林郷であることと、下の名前で呼ばれたこと。
衝撃のあまり、俺は言葉が出ずにいたが、林郷は気にせず話しかけてきた。
「急でごめんね。でも、どうしても一緒に食べたいの」
わからない。林郷の心境の変化が、全くわからない!
こんなにグイグイ来る子だったっけ?
……いや、そんなことを考えても仕方がない。
とにかく今は、言われた言葉だけを受け取ることにしよう。
「わわ、わかった。でも、向かい合って食べることは、で、できないぞ」
林郷はそれを聞いた後、急いで自席へ向かった。
そして、自分の机を椅子を、俺の隣まで移動させてきた。
「……隣の席なら、顔は合わないよね。このくらいの距離でも、大丈夫?」
俺は圧倒されながら「だ、大丈夫」と呟いた。
まるで人が変わったかのような態度を見せた林郷だったが、その姿は他の皆にとっても衝撃だったようだ。
津島とあけびは目を合わせたまま、しばらく静止していた。
古市は食事の手を止め、林郷の方をじっと見つめている。
柘榴も頭に疑問符を浮かべていたが、特に何もせず黙々と牛乳を啜っていた。
ちなみに、梅村は不在だ。
林郷はかわいらしいキャラクターのお弁当箱を広げると、「いただきます」と言ってから、おかずに手を付けた。
「遥くん。卵焼き、甘いのとしょっぱいの、どっちが好き?」
「あ、甘いの…か、な」
「私と一緒だね」
……駄目だ。この違和感に耐えられない。
答えてくれなくても良い。俺は半ば自棄になりながら、口を開いた。
「りり、林郷。急に俺に、は、話しかけて、どうしたんだ?」
林郷は箸を止める。短い沈黙のあと、俺にしか聞こえないくらいの大きさの声でこう言った。
「遥くんの話を聞いて、考えを改めたの」
「?ど、どういうこと?」
「一時限目のとき、どんなときに具合が悪くなっちゃうか、教えてくれたでしょう?
それを聞いて、ああ、遥くんは、たくさん大変な目にあってきたんだなあって思って」
『安全対策マニュアルは血で書かれている』というのは、有名な言葉だ。
確かに俺は、この症状と向き合うために、何度も何度もぶっ倒れた。
そのせいで一日中動けなくなったときもあったが、新たな発見から、対策を見出すこともできたし、克服できたことも少なからずある。
ぶっ倒れた過去の俺がいるからこそ、ある程度は外出もできるし、今こうして、学校に通うこともできている。
「このクラスの子はみんな良い人だから、良い関係を築けてはいるし、決して仲が悪いわけじゃない。
それで十分だと思ってた。でも……私、本当は、もっと皆と仲良くしたいって思ってる。
……それで、ええと……要領を得なくて、ごめんね。つまり、何が言いたいかっていうと……」
林郷の声が震えている。俺は何も言わず、彼女の続きの言葉を待った。
「遥くんのことを知ったおかげで、勇気が出たの。決心がついたの。
私、失敗が怖くて……それを言い訳にして、皆から距離を取ってた……ように思う。
いろんな経験して、いろんな失敗をして、自分ができることを増やそうって、そう思えたの。だから、ありがとう」
林郷はそう言うと、お弁当を食べ進める。
俺はただ、症状や発症条件を知ってほしい一心で、深く気にせずに事実だけを伝えたつもりだった。
でも林郷は、そこから多くのことを考えてくれて、悩んでくれて、気にしてくれて、思ってくれた。
思わず、涙が出そうになった。
過去の自分の努力が、俺以外の人に影響を与えたことを、誇らしく思えた。
「ねえ、遥くん。明日も隣で食べてもいい?」
「わ、わかった。……桃と彼方も、いい、一緒になると思うが、か、構わないか?」
「それはもちろん。そういう決まりごととかって、考えてあるの?」
「厳しく、決めてるわけじゃない。さ、最低限、登下校と、お昼は……っ一緒だ」
俺はなんだか照れくさくなって、三食そぼろ弁当を一口頬張った。
するとその時、後ろから彼方の声が聞こえた。
「お兄ちゃん!林郷先輩!一緒に食べよ!」
「彼方ちゃん、こんにちは」
「桃、彼方、遅かったな」
彼方は林郷に挨拶すると、俺の膝の上に乗ってきた。重い。
「いや、桃が先に着いてたはずなんだけど、なんか、ずっとここの廊下で座ってたの」
「わーっ!い、言わなくていいから!」
桃は彼方の口を塞ぐ。「もがもが」と言いながら、器用にお弁当を開き始めた。……俺の机が狭くなった。
「そうだったのか。すぐに話しかければよかったのに……何かあったのか?」
「ちょっ……ちょっと、胃が痛くて~……ハハハ」
「麻平さん、大丈夫?胃腸に良い漢方、あげようか?」
「い、いえっ!林郷先輩!お気持ちだけありがたく頂戴致しますっ!お気遣い傷み入りますっ!」
武士?
桃は教室の後ろから椅子を持ってきて、林郷の机の上にお弁当箱を置く。
明日からは、昼休みが騒がしくなりそうだ。
有意義なこの時間が、今後どのような良い変化をもたらしてくれるのか。俺は楽しみで仕方がなかった。
+++
そんな日々が二週間ほど過ぎた頃、校内の体育館を使って、部活紹介イベントが開催された。
それをきっかけに、学校全体で部活勧誘が活発になり始めた。
掲示板にはポスターがびっしり貼られ、廊下では部員たちが演説行進を行っていた。教室に入って来る部活もあった。
青果花高校は、植物園を兼ねているだけあって、特に、園芸部、生物部、料理部といった果物や花にちなんだ部活に力を入れているらしい。
かくいう俺は、部活に入るつもりはない。
桃や彼方の負担も大きくなるし、無作為に関係を広める必要はないからな。
「なあなあ、柘榴。お前は、部活どっか入るのか?」
俺は柘榴の背中を叩き、そう聞いた。
今は、四時限目の授業が終わったばかり。雑談する時間くらいはあるだろう。
柘榴は顔をこちらに向けず、ゲーム開発の本を見つめたまま答えた。
「……囲碁将棋部」
「ぶっ」
しまった、思わず吹き出してしまった。
怒った柘榴は本を机の上に置き、俺の頭を手のひらで叩いた。
「何で笑うんだよ!失礼だろ!」
「い、いや、悪い……想像したら、あまりにも似合わなすぎて……くくっ」
部活紹介イベントで出ていた囲碁将棋部の部員たちは、メガネでひょろっとした……失礼だが、いわゆる、オタクっぽい男子ばかりだった。
とはいえ、部室内は畳の部屋で、小物も和風のものばかり。
服も和服で統一されているようで、そのまま歴史の教科書に載りそうなくらい気合が入っていた。
その厳かな雰囲気には、正直圧倒された。コンセプトを大切にした、硬派な部活というイメージだ。
そんな、日本らしさ一色ともいえる部活に、金髪碧眼の柘榴が入部するのだから、似合わないって思うのも無理はないと思う。
……いや、むしろ良いアクセントになるかもしれない。柘榴であれば和服も着こなすだろうし、女子人気も出そうだ。
囲碁将棋部員の心情が気になるところだ。今度、こっそりお邪魔してみることにしよう。
「ちなみにボクは陶芸部だよ!もちろん、次期部長の座は既に確保したるのさ。なんたって梅村の家系だからね」
梅村は、柘榴の横から割り込み、鼻息を荒くして語りだす。
お前には聞いてないんだが……というか
「へぇ。梅村って陶芸の家系なのか?」
「そうとも!江戸時代から続く名門で、文化財保護賞に選ばれたこともあるのさ!」
「……なんか、『落ちた名家www』『お先真っ暗』とか言われてるぞ」
柘榴が梅村にスマートフォンを向ける。
どこかのブログ記事に、一部侮辱的なコメントが付いていたようだ。
「なっ……!失礼な!悪質な誹謗中傷だ!訴えてやる!」
「まあ待て梅村。確かそれ、眉唾な情報しか載せない変なブログだろ。顔の見えない奴らの評価に惑わされるもんじゃないぞ。
……柘榴も、そういうのを本人に見せるのはよくないぞ」
ギスギスした雰囲気になりそうだったので、全力でフォローを入れた。
柘榴は一言「悪い」と言い、教室を後にする。
残った梅村は、さきほど以上に誇らしげな表情を浮かべ、口を開いた。
「遥クン!キミ、わかっているじゃないか!そう。梅村家の栄光は、まだ失われてはいないのさ!」
あれ、衰退しつつあるのは事実っぽいぞ。
……これ以上、この話題に触れるのはやめよう。
「ふ、古市は、部活とか入っているのか?」
俺は話題を逸らすような形で、隣の席に目を向ける。
古市は、大股を開きながらハンドグリップを握っている。
俺よりタッパも筋肉量もあるし、スポーツ部員垂涎ものの体格だ。きっと、何かしらのスポーツ部で大活躍していることだろう。
「私は帰宅部です」
思わずズッコケそうになった。
「じゃ、じゃあ、地域のスポーツクラブに所属していたりとか……?」
「いいえ。いろいろな方から勧誘はされますが、今までに何かやったことはないですし、新しく始めるつもりもありません」
俺の心の中の、何かしらのスポーツの監督が涙を流していた。
……父さんが古市に会ったら、本当に喉から手を出すぐらいの勢いで勧誘してきそうだ。
なるべく会わせないようにしよう。
「ですが、風紀委員の活動をしています。部活には所属せず、委員会活動のみを行う生徒も多いんですよ。
このクラスだと……津島がそうですね。彼女は図書委員です」
古市は風紀委員の仕事を誇らしく思っているのか、今までにないくらい口調が軽やかだった。
俺はその機会を逃さないよう、詳細な説明を求めた。
「風紀委員って、具体的にはどんなことをしているんだ?」
「主に行っているのは、服装点検と持ち物検査、校則違反の取り締まりです。
他にも、校内の巡回とか……そうそう。以前、喧嘩の仲裁に入ったこともありました」
喧嘩していた人たちは、無事だったんだろうか。
それにしても古市は、誰よりも礼儀や礼節を大切にしていて凄いな。風紀委員の皆さんや先生方も、さぞかし彼を頼りにしていることだろう。
……だとすると、態度やガラだけを悪く見せているのは、一体何故なんだろうか。
そう思いつつ、青果花高校の他の委員会活動について尋ねようとした。
そのときだった。
「こんこーん!失礼しまぁ~す」
瓜二つな見知らぬ男が二人、いきなり教室に入ってきた。
そして彼らは何も言わずに黒板の前に立ち、何かのプリントを配ろうとしている。
「ねえちょっと。邪魔だから出て行ってもらえる?」
授業の板書を消していた津島が、ギロッと睨み、低い声で彼らを非難する。怖い。
「ごーめんごめん!すぐ終わるから!」
「え、てかキミ、綺麗だね!彼氏とかいる?」
しかし、彼らは手を止める様子を見せないどころか、むしろ津島に絡みに行った。強い。
「……キモッ。……アンタら、いつか大怪我するわよ」
津島はゴミを見るような目で彼らを一瞥すると、ガン無視モードに移行してしまった。
津島ーっ!諦めないでくれー!
「えーっと、俺たちバスケ部なんだけどぉ……部長がうるさいんで、勧誘しに来ました~」
「ここの紙、後で見といてね~。んで、俺たちの部活なんだけど~去年は地区大会でぇ~……」
どうやら、彼らはバスケ部員のようだ。
その態度で勧誘されては、入部したいと思う人はいなさそうだが……。
そう思っていながら横に目をやると、今にも爆発しそうな古市がプルプルと拳を震わせていた。
古市の一番嫌いなタイプなのだろう。古市も態度が悪い節はあるが……それにしても、こいつらのは品がなさすぎる。
彼らが要領を得ないまま演説を繰り広げていると、林郷とあけびが席を立つ。
後ろ姿しか見えないが、おそらく精一杯睨んでいるのだろう。そして、下品な彼らに向かって牙を剝いた。
「あ、あの。もう授業が始まる時間だし、教室に戻った方がいいんじゃないかな」
「そーそー!うるさいし、どっかいってよー!」
「あっ!女子部員も大歓迎だよ~、ね、兄ちゃん?」
「そうそう!女子バスケ部でもマネージャーでもおっけー!
……ってかキミ、とってもチャーミングだね!ねね、連絡先交換しない?」
またしても、彼らに"にらみつける"は通用しなかったようだ。
こいつら無敵か?いくらなんでも、聞く耳持たなすぎだろ。
「美術部だから、バスケ無理だし!てか、交換もしないし!」「私は料理部に入ってるので」
「そっか~、残念……えっ!!!ちょっと待って!?!?」
林郷のことをジロジロと見ていた男子生徒が、今まで以上に大きな声を出す。
何だ?何か気になることでもあったのか?
「兄ちゃん、この子、めっちゃおっぱいデカいよ!!!」
「うーわマジか!!!タイプだわ!!!」
よし、今すぐ追い出そう。
すぐにでも追い出さなかったことを後悔しながら、俺は林郷とあけびの前に出た。
「おい、失礼だぞ。さっさと帰れ。二度と来るな」
「「……」」
間に男が入ったのが気に食わなかったのか、彼らのテンションは急速に冷めていった。
「チッつまんねー。行こうぜ」
「……おい、黒弥(くろや)。こいつの顔、どっかで見たことねーか?」
「んー?……あぁ~!」
黒弥?どこかで聞いたことがあるような……あっ。
俺たちはほぼ同じタイミングで、その事実に気が付いた。……気が付いてしまった。
「青翔(あおと)兄ちゃん!こいつ、中学のとき不登校になった奴だ!」
「っあ~そうだそうだ!名前なんつったっけ?女みたいな名前だったのは覚えてるんだけどなぁ~」
こいつらは、倫辺青翔(りんべあおと)と倫辺黒弥(りんべくろや)。
俺と同じ、増佳(ますか)中学校出身の双子で……一度も話したことはないが、クラスメイトだ。
雰囲気が変わりすぎていて、気が付かなかった。当時はもっと根暗な印象だったが……。
俺は、この後双子から言われるであろう言葉を想像して、全身の血の気が引いた。
「なんで最後の方、学校来てなかったの~?」
「あれ、こいつが不登校になった理由って確か……女が怖いから?とかじゃなかったっけ?!」
「え、そーなん?!ってことは、ホモなん?!
……あ、だから"モンスタークラス"にいるのか!納得だわ!」
「あなたたち!黙って聞いていれば……さっきから失礼すぎではありませんか!?」
「古市クン!落ち着いて!暴力はダメだ!」
梅村が必死に古市を止めている。
俺は深呼吸し、ドクドクと音を立てる心臓を落ち着かせる。
「そんなの、どうだっていいだろ。……ほら、さっさと教室戻れよ」
本当は思い切りぶん殴ってやりたかった。空手の基礎は習っているし、こいつら程度であれば、容易くかたが付く。
だが、父さんは「武術は人を守るためにある」と言っていた。その教えを無碍にはできない。
それに、大事にすると悪い噂も立つだろう。クラスの皆に迷惑がかかる。
「ちょっとくらいいいじゃん!話そーぜ!……え、てか、ここ通ってるってことは治ったん?
それとも、やっぱネタだったり?ま、誰にでもそういう時期あるもんな!俺には感情がない……みたいな?」
「女なんて弱っちいモン、大した事ないだろ?ビビりすぎなんだよ!陰キャかっ!
までも、これで女とセックスできるな!よかったな!これでもう、男のケツ追っかけなくて済むぞ!」
「いい加減にして!」
怒声が教室内に響き渡る。一瞬、誰の声なのかわからなかった。
しかし、すぐにその声の主は判明した。
林郷だ。彼女は大粒の涙をボロボロと流しながら、身体を震わせている。
「何も知らない癖に、知ったような口利かないで!
私のことはいくら侮辱したっていい。でも、遥くんの……"友達"のこと、馬鹿にしないで!」
「そんなマジに怒んなよ~。え、もしかしてキミ……こいつのこと好きな……っ!?」
次の瞬間、いつの間にか倫辺兄弟の背後に回っていた古市が、彼らの後襟を掴んだ。
「オイ!なにすんだよ!」「く、苦しっ…!離せっての!」
「……」
倫辺兄弟はジタバタともがき抵抗していたが、古市の巨躯には一切通用していなかった。
古市はそのままずんずんと歩き、彼らを廊下に突き出すと、教室の扉の内鍵を閉めた。
ガチャリ。
教室の後ろからも、鍵を閉める音が聞こえた。津島だ。
これで、彼らはもうこの教室には入れない。
「チッ……つまんねーの。黒弥、行こうぜ」「わかったよ、兄ちゃん」
彼らはまだ何か言いたそうにしていたが、古市にビビったようで、そのままどこかに行ってしまった。
「ら、雷くん、ありがとう……」
「泣かないで~シュリちゃん~」
涙声でお礼を言う林郷。
そんな林郷を、あけびはまるで母親のように抱きしめていた。
「……悪い。本来であれば、俺がやるべきことだった」
俺は古市に頭を下げる。
今思えば、同じように廊下まで引きずり出せばよかった。
……中学の頃の記憶が蘇ってしまい、そこまで気が回らなかった。というのは、言い訳だな。
古市は席に戻ると「お気になさらず。このような時の為に、鍛えてきたので」と言い、次の授業の準備を始めた。
「や、やれやれっ!こんなことなら、ボクが古市くんを止めておく必要はなかったかなっ!」
梅村は大きな声でそう言ったあと、全員の顔をチラリと見る。
明らかに「そんなことないよ」待ちではあるが、普段通りの梅村を見て、俺の心が少しずつ晴れてきた。
「いえ。あの時の私は、頭に血が上りすぎていました。静止していただき、ありがとうございます」
「バイソン、よくライチを止められたね~!ちっちゃいのに!」
「あ、あけびクン!一言余計だよ!」
確かに、あの対格差で古市を静止できていたのは驚きだな。力ではなく、言葉で説得していたのだろうか。
そう考えると、梅村のよく回る口は一種の才能なのかもしれない。
ガタガタ!ガタガタ!
「!?お、おい、何で鍵閉まってんだよ!開けろ!」
どこかに行っていた柘榴が、教室の扉を揺らしている。
「……ふふふっ」
珍しく大慌てしている柘榴の姿を見て、林郷は思わず噴き出していた。
もう、涙は引いたのだろうか。
それを確かめることは、俺にはできない。
俺は扉の鍵を開けながら、林郷の言葉を思い返していた。
"遥くんの……"友達"のこと、馬鹿にしないで!"
+++
帰りのHR後、俺たちは柿澤先生に、倫辺兄弟のことについて報告した。
「そんなことがあったのですね。教えてくれてありがとう。担任の網掛(あみかけ)先生と、バスケ部顧問の葉院(はいん)先生に伝えておきます」
柿澤先生はそう言うと、教室を後にした。クラスの皆もそれに続いて、下校を始めている。
そして、先生と入れ違う形で、桃が教室に入ってきた。
「遥先輩!一緒に帰りましょ!」
「桃か。今日は早かったな。彼方は一緒じゃないのか?」
「なんか、生徒会の用事があるみたいです。
先に帰っていいって言っていましたけど、どうします?彼方のこと、待ちますか?」
「ちょうどいい。俺も少し用事があるから、彼方のこと待とう。
……あっ!りりり、林郷っ!す、少し……時間、いいかな」
俺は、最後に教室を出ようとしていた林郷を呼び止める。
林郷は目線を合わせないまま、俺の方に少し近づいた。
「う、うん。大丈夫だよ。……何かあった?」
「えっと……桃。悪いが、少しだけ席を外してくれるか」
「えっ!で、でも先輩、大丈夫ですか?女の子と二人きりなんて……いくら広い教室でも……」
「距離を保っていれば、大丈夫だ。もし少しでも異変を感じたら、すぐ連絡するから」
桃は不服そうな顔をしていたが、林郷の顔をチラリと見て、「わかりました」と言った。
「ありがとう。この後、彼方を待つことになるだろうし、これで何か飲み物でも買ってきてくれないか」
俺は財布から千円札を取り出し、桃に手渡す。
そして、購買に向かう桃の背中を見送ったあと、林郷の前に立った。
「わ、悪い。まま、待たせたな。
……桃には、秘密にしておこうと思って」
「えっ!な、何を……?」
「き、今日のこと。あいつ正義感強いから、あ、あの兄弟のこと聞いたら、じじ、直談判しに行きそうだ」
隠し事はトラブルの元だ。だが、俺としては、倫辺兄弟と関わるのは今日限りにしたかった。
「あっ……ああ、成程……」
何故か、林郷は残念そうにしていた。
「ほほ、本題に入るが……り、林郷。あのとき、お、俺のこと、友達って……言ってくれたよな」
声が震えて、思わず言葉が途切れる。
けれどどうしても、この気持ちを伝えたかった。
「そ、その場の嘘でも、そう言われたのが……う、嬉しくて」
「う、嘘なんかじゃないよ!」
「え?」
「……確かに私たちは、お昼ごはんを一緒に食べているだけで、友達らしいことはしていないかもしれない。
でも、私は……私は、遥くんのこと、友達だと思ってるよ」
その言葉を聞いた瞬間、自分の視野がどれほど狭くなっていたのかを痛感させられた。
そうだ。俺は"あの事件"以来ずっと、女性恐怖症を克服しようと必死だった。
そしていつの間にか、克服するというのは、ただ目を合わせるとか、触れ合うとか、そんな目に見える距離を縮めることだと思い込んでいた。
でも、そうじゃなかった。
目に見える距離にこだわらなくても、心の距離を少しずつ近づけていくこと――。
それも"克服"であり、"前進"の一つなんだと、そう気付かされた。
「じゃあ林郷は、俺にとって初めての女友達だな」
気が付けば、俺の声は自然で、どもることもなくなっていた。
彼女はしばらく黙っていたが、やがて
「……そう思ってくれるなら、名前で呼んでほしいな」
と、照れくさそうな声でそう応えた。
視界の端で、彼女が右手を伸ばしたのがわかった。
けれど、俺にはまだその手を握ることはできない。
それでも、何かを踏み出したくて、俺も右手をゆっくりと伸ばした。
「これからよろしく。朱里」
「こちらこそ、よろしくね、遥くん」
差し出された手と自分の手が、わずかに宙を彷徨う。
「変な握手だね」
朱里がくすりと笑い、俺も自然と笑顔がこぼれた。
俺たちの間には距離があり、握手すら叶わない。
けれど、心の中では確実に、その距離が少しずつ縮まっているような気がした。
+++
私は購買で悩んでいた。
何を買おうかで悩んでいるわけじゃない。遥先輩のことだ。
きっと先輩は、私に何か隠し事をしている。
別に隠し事そのものが悪いわけじゃない。私だって、先輩に伝えていないことがいくつかあるし。
でも、問題は……先輩が林郷先輩と二人きりで話していることだ。
遥先輩は入学してすぐ、思い切って林郷先輩に話しかけて……そして倒れた。
それなのに、また林郷先輩に何かアクションを起こそうとしている。
お昼ごはんのときの様子を見た感じdと、確かに以前よりは、適切な距離感を保っているように思える。
でも、それは私と彼方が側にいたからだ。二人きりになっても平気かどうかは、わからない。
……今頃、あの二人は何を話しているんだろう。
こんなことなら、購買に来ないで、盗み聞きすればよかった。
……そうだ、そうすればよかったんだ!何を律義に買い物をしているんだ私は!
私は持っていたバームクーヘンを棚に戻し、二年一組の教室へと急いで戻り始める。
廊下を早歩きしながら、私は再び悩みごとをしていた。
最近、自分の気持ちが分からなくなってきている。
遥先輩のことは大切だし、恐怖症を克服して自由な生活を送ってほしいと思っている。
なのに、林郷先輩が先輩をお昼に誘ったと知った瞬間、何故か胸が苦しくなった。
林郷先輩の行動は、先輩の克服の第一歩に繋がるのに、だ。
事が悪い方向に転じて、恐怖症が悪化してしまうことを恐れているのだろうか?
それとも……先輩が変わってしまうことが、怖い?
いや、それは違う。だって、この高校に通うことを勧めたのは私だ。
もしも変わってほしくないと思っていたのなら、こんなふうに先輩の背中を押すなんてこと、しなかった。
「う、嘘なんかじゃないよ!」
ふと、林郷先輩の声が聞こえた。
いつの間にか、二年一組に着いていたようだ。
こっそり聞いていたことが知られたら、嫌われるかもしれないという考えが一瞬脳裏をよぎった。
それでも、私は先輩たちの会話を盗み聞き続けた。
「……確かに私たちは、お昼ごはんを一緒に食べているだけで、友達らしいことはしていないかもしれない。
でも、私は……私は、遥くんのこと、友達だと思ってるよ」
私は二人の様子を見守る。林郷先輩の顔は見えなかったが、遥先輩の表情が目に入った。
遥先輩は、どこか解放されたような……心のつかえが取れたような、そんな穏やかな表情を浮かべていた。
林郷先輩は、どうしてこんなにも、遥先輩に親切なのだろう。
純粋に、遥先輩と仲良くしたいだけなのか、それとも、女性恐怖症の先輩を憐れんで優しく接しているのか。
……あるいは、遥先輩に他の感情を抱いているのだろうか。
それを確かめる術は、私にはない。
しかし、林郷先輩にどんな意図があろうとも、遥先輩はいま確実に自分の殻を破り、一歩踏み出している。
この事実に間違いはない。その一歩は、私にとっても意味のあることだった。
林郷先輩の歩み寄りがきっかけで、遥先輩が前進したのなら、私も勇気を持って先輩たちに歩み寄るべきだ。
……そうだ。私も林郷先輩と友達になればいい。
彼女にもっと近づいて、どんな人なのか知り、本心を確かめればいい。
そして、私が林郷先輩と仲良くなることは、遥先輩にとっても良い兆しになるに違いない。
くよくよ悩んでいても仕方ない。
事が悪い方向に転じたとしても、私が、遥先輩を支えればいいだけだ。
そう思った矢先だった。
「じゃあ林郷は、俺にとって初めての女友達だな」
私の高揚した気持ちは、一瞬でどん底に落ちていった。悩みごとが消えて晴れやかだったのに、遥先輩はいつも私の心を雨模様にする。
遥先輩と仲良くなったのは、私が先なのに。
林郷先輩が、先輩にとっての初めての女友達。
遥先輩。それなら……桃は、先輩にとって何なんでしょうか。
―――ふと、スマホが振動した。
タイミングが良いのか悪いのか。とりあえず、通知をオフにしておいてよかった。
画面を見ると、私と遥先輩と彼方の三人で作ったグループチャットに、彼方からのメッセージが表示されていた。
「生徒会終わった!お兄ちゃん、もう帰った?」
それを見た私は「まだ校内にいるよ。今からそっち向かう」と、すぐに返信を打ち込んだ。
本当は、彼方を迎えに行く必要なんてない。
でも……今はただ、誰かと話したり、気持ちを紛らわせたくて仕方がない。
私はスマホをぎゅっと握りしめ、心の曇り空を晴らすように、生徒会室に向かって駆け出した。
彼方に会えば、少しはこの気持ちが軽くなるかもしれない。そんなわずかな期待を抱きながら。
+++
お互いに握手の手を止めると、朱里さんが何かを言いたそうにしている気がした。
「どうかしたか?」
俺がそう問いかけると、朱里さんは少し迷うような様子で、ためらいがちに言葉を発した。
「……麻平桃さん、って」
一瞬、言葉が途切れる。
そして、小さな息を飲み込む音が聞こえた。
「ご、ごめんね。答えなくてもいいんだけど……麻平桃さんは、遥くんにとって……初めての"女友達"じゃないの?」
その質問には、何かを確かめたいような……そんな真意が含まれているように感じた。
彼女がなぜこんなことを聞くのかはわからない。
でも、俺にとっての答えは決まっている。
「桃は、友達以上の特別な……大切な存在なんだ。
だから、友達って表現は、少し違う」
口に出して言うのは少し照れくさかったが、これが俺の本当の気持ちだった。
もしあの頃、桃に出会っていなかったら、俺は自分の将来に絶望し、家族は後悔の念に苛まれ続けていたことだろう。
でも、桃の存在は、俺と家族に希望を与えてくれた。
母さんも父さんも彼方も、桃のことを本当の家族のように思っているし、俺も思っている。
そう。俺にとって桃は大切な……もう一人の妹のような存在なんだ。
「……そう、なんだ」
朱里の声が、かすかに沈んだ気がした。
先ほどまでの柔らかな雰囲気が消えてしまったようで、戸惑いを覚える。
朱里はいま、どんな表情をしているのだろう。
それを確かめる術は、俺にはない。
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