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第五章 珈琲と占いの店 地底人
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香取美鈴の話
私が生まれたのは横浜市中区にある山下町と言う場所だ。そこは世間的にはお洒落だと思われているような街で近所の山下公園なんかはもっぱらデートスポットだったと思う。まぁ……。私が生まれたのはその街の中でもドブみたいな場所だったのだけれど――。
そんなこの世の掃きだめみたいな場所で私は母と二人で暮らしていた。父親と呼べるような人はいない。……というよりも当時の私には子供には両親がいるのが普通という感覚がなかった。ボロアパートの一室という狭い世界でだけ生きていた。今思い返すとそう思う。
母は中華パブで働いていていつも帰りが遅かった。そしていつも家に男を連れ込むような女だった。名前は趙美麗。美しく麗しい。そんな字を書く。そしてそれはある意味で名は体を表していたようにも思う。母はとても綺麗な女性だったのだ。美貌だけなら中華街一だったかも……。そう思うほどに。
でもその反面、彼女は母親としては最低だった。家事なんてほとんどしなかったし、いつも私をひとりぼっちにしては遊び歩いていた。今風に言えばネグレクトってやつだったのだと思う。
思い返すとそんな彼女から教わったことは……。思い出せる限り綺麗な発音の日本語だけだった。どういうわけか彼女は私にやたら丁寧に日本語を教えてくれたのだ。そして発音が上手いと普段とは違って猫かわいがりしてくれた。
『そうそう。上手いわメイリン』
彼女はそんな風に言って私の頭を撫でてくれた。
だから私は必死になって彼女から日本語を習った。私にとってのネイティブな言葉はあくまで中国語だったけれど、それを忘れるくらい必死に日本語漬けになった。たぶん幼い私にはそれだけが母親から愛情を貰える手段なのだと分かっていたのだろう。まぁ……。今になって思えば母親は別の思惑で私に日本語教育をしたのだとは思うけれど……。
そして……。私の四歳の誕生日。母はアパートに帰ってこなくなった――。
母がいない。それは四歳の私にとって最悪なことだった。単に寂しいとか心細いとか、そんな問題ではない。子供一人ではとてもじゃないが生きてはいけないのだ。
冷蔵庫を覗くと中には酒と調味料とわずかな冷凍食品だけが入っていた。それ以外は何もない。誕生日だというのにケーキもない。いや、ケーキなんてあるわけないのだ。だって……。母は私の誕生日に何かしてくれたことなんてただの一度もなかったのだから。
そう思うと急に涙がこみ上げてきた。世界でひとりぼっちにされた気がした。こんなボロアパートの部屋の中で一人で死んじゃうかも。そう考えると全身が震えた。嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。こんなのってあんまりだ。私が何したっていうんだ。日本語の勉強だって一生懸命した。下手だったかも知れないけれど家のことだって頑張ってやった。自転車だって補助輪なしで乗れたし、一人で買い物だっていけた。なのに何で? 何でお母さんは私を一人にするんだ。
「こんなのって……ないよ」
私は独り言のように呟いた。当然返事なんてない。
だから私は『ああ、ここで死んじゃうんだな。生まれてきたことは間違いだったんだ』と思った。『このままお腹が空いてそのまま痩せっぽっちになってミイラになっちゃうんだ』とも思った。
でも……。そんな絶望的な状況の中でも私の身体は食べ物を欲していた。生きたい。こんなところで死んじゃダメ。生きるんだメイリン。お母さんだってそのうち帰ってくるさ。腹の虫はまるでそう伝えたいみたいに大きく鳴り続けた。
気がつくと私は冷蔵庫の中から冷凍チャーハンを取りだして凍ったままむさぼり食っていた。口に入れた氷の塊が少しずつ溶けてしょっぱい味が口いっぱいに広がった。ああ、美味しい。私まだ生きてて良いんだ。そのチャーハンの味は私にそう思わせてくれた。……残念ながら思わせてくれただけで何の解決にもならなかったのだけれど。
チャーハンの袋が空になると私は部屋中を探し回った。食べ物を探さなきゃ。少しでも長く生きたい。ミイラになんかなりたくない。お母さんのことだからどこかにお金しまってるかも。そんなことを考えながら部屋中を探し回る。
そしてしばらく探し回ると茶色の封筒をに入った一万円札を二枚見つけた。
「ありがとうお母さん。これでご飯食べれるよ。大きくなったらちゃんと返すからね」
私は封筒に向かってそう呟いた。やはり返事はない。そして返す当てもない。
――その日から私の生き残るための生活が始まった。今思えば……。それは四歳の子供にとってあまりにも無謀なことだったと思う――。
サバイバル生活二日目。まず私は食べ物の調達から始めた。幸いなことに中華街の人たちは私に対して優しく、色々と親切にしてくれた。
『お使いか? 偉いねメイリン』
近所の弁当屋のおばちゃんはそう言って油淋鶏とご飯を大盛りにしてくれた。
『ありがとうおばちゃん』
私はおばちゃんにお礼を言うとそれを受け取ってルンルン気分でアパートに帰った。そしてサクサクカリカリの油淋鶏を半分ぐらい食べた。あとは夕ご飯の分。上手くいけば明日の朝ご飯にもなるかも。幼いながらもそんなことを思った。
残りのお金は一九四〇〇円。大事に使わなくちゃな。お母さんが帰ってくるまで持てばいいけど……。お腹いっぱいになったせいか私はそんな風に少しだけ母に期待を持ち始めていた。完全に希望的観測だと言うのに――。
それから三週間。私は様々なことをしながらどうにか生き抜いた。幸いなことにライフラインは止まっていない。だから水道もガスも電気も使えた。まぁ……。流石にガスコンロで料理なんかはできなかったけれど。
お風呂にも入った。手洗いで洗濯もした。お掃除だって少しはした。それ自体は別に苦痛でも何でもなかった。逆に母が男と寝た後の処理をしないで済むだけマシかも知れない。
でも……。最終的にはお金がなくなってしまった。残金八円。実質的にゲームオーバーだ。
それでも私は生き抜くために必死だった。弁当屋のおばちゃんに頭を下げて余ったお弁当を分けて貰いもした。乞食でもなんでもしなければ。そのときの私はそう思っていたのだ。せめて最後にお母さんに会いたい。本気でそう思っていた。
そんな私の思いとは裏腹に私の身体は次第に動かなくなっていった。やはり人間は食事を摂らなければ死んでしまう生き物なのだと身をもって味わった。目はかすみ、耳に届く音は酷く籠もって聞こえた。
『やっぱり……。生まれなきゃよかったな』
私は独り言のように呟いた。その声は自分の声とは思えないくらい掠れていて、まるで死にかけの老婆のようだ。
私はそのままゆっくりと目を閉じた。眠い。もう起きていられない。
次起きたときは天国かな? それともお母さんのお金取ったから地獄かな? そんなことを思った。そして私の意識はそこで完全に途切れた――。
私が生まれたのは横浜市中区にある山下町と言う場所だ。そこは世間的にはお洒落だと思われているような街で近所の山下公園なんかはもっぱらデートスポットだったと思う。まぁ……。私が生まれたのはその街の中でもドブみたいな場所だったのだけれど――。
そんなこの世の掃きだめみたいな場所で私は母と二人で暮らしていた。父親と呼べるような人はいない。……というよりも当時の私には子供には両親がいるのが普通という感覚がなかった。ボロアパートの一室という狭い世界でだけ生きていた。今思い返すとそう思う。
母は中華パブで働いていていつも帰りが遅かった。そしていつも家に男を連れ込むような女だった。名前は趙美麗。美しく麗しい。そんな字を書く。そしてそれはある意味で名は体を表していたようにも思う。母はとても綺麗な女性だったのだ。美貌だけなら中華街一だったかも……。そう思うほどに。
でもその反面、彼女は母親としては最低だった。家事なんてほとんどしなかったし、いつも私をひとりぼっちにしては遊び歩いていた。今風に言えばネグレクトってやつだったのだと思う。
思い返すとそんな彼女から教わったことは……。思い出せる限り綺麗な発音の日本語だけだった。どういうわけか彼女は私にやたら丁寧に日本語を教えてくれたのだ。そして発音が上手いと普段とは違って猫かわいがりしてくれた。
『そうそう。上手いわメイリン』
彼女はそんな風に言って私の頭を撫でてくれた。
だから私は必死になって彼女から日本語を習った。私にとってのネイティブな言葉はあくまで中国語だったけれど、それを忘れるくらい必死に日本語漬けになった。たぶん幼い私にはそれだけが母親から愛情を貰える手段なのだと分かっていたのだろう。まぁ……。今になって思えば母親は別の思惑で私に日本語教育をしたのだとは思うけれど……。
そして……。私の四歳の誕生日。母はアパートに帰ってこなくなった――。
母がいない。それは四歳の私にとって最悪なことだった。単に寂しいとか心細いとか、そんな問題ではない。子供一人ではとてもじゃないが生きてはいけないのだ。
冷蔵庫を覗くと中には酒と調味料とわずかな冷凍食品だけが入っていた。それ以外は何もない。誕生日だというのにケーキもない。いや、ケーキなんてあるわけないのだ。だって……。母は私の誕生日に何かしてくれたことなんてただの一度もなかったのだから。
そう思うと急に涙がこみ上げてきた。世界でひとりぼっちにされた気がした。こんなボロアパートの部屋の中で一人で死んじゃうかも。そう考えると全身が震えた。嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。こんなのってあんまりだ。私が何したっていうんだ。日本語の勉強だって一生懸命した。下手だったかも知れないけれど家のことだって頑張ってやった。自転車だって補助輪なしで乗れたし、一人で買い物だっていけた。なのに何で? 何でお母さんは私を一人にするんだ。
「こんなのって……ないよ」
私は独り言のように呟いた。当然返事なんてない。
だから私は『ああ、ここで死んじゃうんだな。生まれてきたことは間違いだったんだ』と思った。『このままお腹が空いてそのまま痩せっぽっちになってミイラになっちゃうんだ』とも思った。
でも……。そんな絶望的な状況の中でも私の身体は食べ物を欲していた。生きたい。こんなところで死んじゃダメ。生きるんだメイリン。お母さんだってそのうち帰ってくるさ。腹の虫はまるでそう伝えたいみたいに大きく鳴り続けた。
気がつくと私は冷蔵庫の中から冷凍チャーハンを取りだして凍ったままむさぼり食っていた。口に入れた氷の塊が少しずつ溶けてしょっぱい味が口いっぱいに広がった。ああ、美味しい。私まだ生きてて良いんだ。そのチャーハンの味は私にそう思わせてくれた。……残念ながら思わせてくれただけで何の解決にもならなかったのだけれど。
チャーハンの袋が空になると私は部屋中を探し回った。食べ物を探さなきゃ。少しでも長く生きたい。ミイラになんかなりたくない。お母さんのことだからどこかにお金しまってるかも。そんなことを考えながら部屋中を探し回る。
そしてしばらく探し回ると茶色の封筒をに入った一万円札を二枚見つけた。
「ありがとうお母さん。これでご飯食べれるよ。大きくなったらちゃんと返すからね」
私は封筒に向かってそう呟いた。やはり返事はない。そして返す当てもない。
――その日から私の生き残るための生活が始まった。今思えば……。それは四歳の子供にとってあまりにも無謀なことだったと思う――。
サバイバル生活二日目。まず私は食べ物の調達から始めた。幸いなことに中華街の人たちは私に対して優しく、色々と親切にしてくれた。
『お使いか? 偉いねメイリン』
近所の弁当屋のおばちゃんはそう言って油淋鶏とご飯を大盛りにしてくれた。
『ありがとうおばちゃん』
私はおばちゃんにお礼を言うとそれを受け取ってルンルン気分でアパートに帰った。そしてサクサクカリカリの油淋鶏を半分ぐらい食べた。あとは夕ご飯の分。上手くいけば明日の朝ご飯にもなるかも。幼いながらもそんなことを思った。
残りのお金は一九四〇〇円。大事に使わなくちゃな。お母さんが帰ってくるまで持てばいいけど……。お腹いっぱいになったせいか私はそんな風に少しだけ母に期待を持ち始めていた。完全に希望的観測だと言うのに――。
それから三週間。私は様々なことをしながらどうにか生き抜いた。幸いなことにライフラインは止まっていない。だから水道もガスも電気も使えた。まぁ……。流石にガスコンロで料理なんかはできなかったけれど。
お風呂にも入った。手洗いで洗濯もした。お掃除だって少しはした。それ自体は別に苦痛でも何でもなかった。逆に母が男と寝た後の処理をしないで済むだけマシかも知れない。
でも……。最終的にはお金がなくなってしまった。残金八円。実質的にゲームオーバーだ。
それでも私は生き抜くために必死だった。弁当屋のおばちゃんに頭を下げて余ったお弁当を分けて貰いもした。乞食でもなんでもしなければ。そのときの私はそう思っていたのだ。せめて最後にお母さんに会いたい。本気でそう思っていた。
そんな私の思いとは裏腹に私の身体は次第に動かなくなっていった。やはり人間は食事を摂らなければ死んでしまう生き物なのだと身をもって味わった。目はかすみ、耳に届く音は酷く籠もって聞こえた。
『やっぱり……。生まれなきゃよかったな』
私は独り言のように呟いた。その声は自分の声とは思えないくらい掠れていて、まるで死にかけの老婆のようだ。
私はそのままゆっくりと目を閉じた。眠い。もう起きていられない。
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