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第一章 樹脂製の森に吹く涼しい風
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買い物から帰ると母が帰っていた。珍しく化粧っ気があり唇も赤い。
「おかえりなさい」
「ああ、栞。ただいま。おかえりなさい」
母はリビングのテーブルに書類を広げて作業していた。契約書やら見積書が雑多に広げられている。
「ワイン買ってきたよ。おつまみはクラッカーでいい?」
「うん。ありがとう。担当さんがローストビーフとチーズくれたからちょうどいいわ」
担当。たしか母の担当は美加野さんという若い女性編集者だったと思う。母の話だと彼女は入社一年目の新人らしい。例によって今回も母は新人教育係のようだ。
「お父さん六時には帰るらしいよ」
「そっか。もうしばらく会ってない気がするよ」
父に最後にあったのはずいぶんと前だ。同じ屋根の下に暮らしているのに不思議だけれど。
「お父さん朝早いからねー。今日から新学期だから心配してたわよ?」
「ハハハ、お父さん心配性だよね」
「あの人は昔からそうなのよね。京都転勤してからは毎晩、栞の寝顔見てたのよ。あ、これは内緒だけどね」
そう言いながら母は懐かしそうにため息を吐いた。室内の空気の五パーセントぐらいはありそうな深いため息。
「じゃあ夕飯の支度しちゃうよ。今晩は生姜焼きでいい?」
「やったー。じゃあエプロン取ってくるわ」
「あ、いいよ。お母さん仕事でしょ? 今日は私が作るから」
「あらそう? じゃあ今日はお願いしちゃう!」
語弊があるかもしれないが母は家事をあまりしないのだ。決して家事ができないわけではない。極力やらないで生活しているのだ。だから炊事も基本的に外食を好むし、掃除や洗濯も機械任せだ。まぁ、最低限の家事はするけれど、世間一般の主婦からみたらきっとサボっているようにみえるのではないだろうか?
そのおかげで私は自然と家事を覚えた。特に炊事……。料理に関しては母より上手いぐらいだと思う。
買ってきた食材を取り出すと調理を始める。調味料を準備し、タマネギを刻んだ。私は料理の段取りが好きだ。母のように目分量で料理が作れるわけではないけれど、調味料を計量したり、野菜を刻んだりするのは楽しいと思う。
一通り準備を終えると豚肉に下味をつけた。祖母も両親も生姜の味は濃いめが好きなので今回は生姜汁を多めに使う。
「栞ずいぶんと手際良くなったわね」
「けっこう料理してるからね。でもまだ包丁は難しいかも」
「うーん。まぁ徐々に覚えればいいわよ。あ、私、手が空いたから手伝うよ。キャベツ刻んどけばいい?」
「助かるよ。じゃあ千切りお願いね」
こうして母と一緒に料理するのもひさしぶりだ。中学生になってからは初めてかもしれない。小学校までは母に包丁の使い方を教わっていたけれど、中学以降は私一人でやるほうが多い。
ひさしぶりに見る母の手つきは相変わらず綺麗だった。同じ幅でキャベツが切りそろえられ、まるで機械で作ったように仕上がっていく。
「やっぱりお母さんには敵わないね」
「んー? こんなの経験だよ。栞だってずいぶん上手いと思うよ? あと二、三年したら私なんか追い越されちゃうよ」
きっと母は私が知らないだけで、かなり苦労しているのだ。だから炊事だってそれ以外だって私なんかよりずっとできる。祖母から聞いた話だと若い頃は海外をしばらく放浪していたらしい。ヒッチハイクもしたし、野宿だってした……。まぁ、これは祖母の受け売りなので真相は分からないけれど。
「学校どうだった? いいお友達できそう?」
母は味噌汁の具を刻みながら私に尋ねてきた。視線はまな板を向いたままだ。
「普通かな……。この前知り合った男の子と同じクラスになったよ」
「あらあら、じゃあ知り合いがいて安心よね。たしかナカライくんだっけ?」
「そう! 今日も一緒に帰ってきたんだよ!」
母は「そう!」と言って嬉しそうに笑った。
「急な引っ越しだったから心配してたのよ。月子ちゃんともちゃんとお別れしなかったでしょ?」
「大丈夫だよ。なんとかやってけると思う」
なんとかやっていける。そんな気がする。将来なんて分からないけれど、不思議とそう思う。
「なら良かったよ……。そうだ! 月子ちゃんにちゃんとお返事書きなさいね。あの子わざわざ挨拶に来てくれたんだから」
「分かってるよ。週末にでも書くよ……」
月子……。私の親友。彼女のことを思い出すと胸が苦しくなる。
私はきっと月子に後ろめたさがあるのだと思う。だからきちんと別れも言えなかったし、未だにお別れの手紙の返事も書けずにいる。
別に返事が思いつかないわけではない。ただ、書いたとしてもそんなものはうわべの返事になってしまう気がするのだ。真心も下心もないそんな手紙。そんな何の価値もない駄文。
だから私は手紙を書けずにいた。もしかしたらずっと書けないかもしれない。
母と協力して無事夕飯の準備ができた。生姜焼きの甘い香りが漂う。
さて……。あとは父の帰りを待つだけだ。
「おかえりなさい」
「ああ、栞。ただいま。おかえりなさい」
母はリビングのテーブルに書類を広げて作業していた。契約書やら見積書が雑多に広げられている。
「ワイン買ってきたよ。おつまみはクラッカーでいい?」
「うん。ありがとう。担当さんがローストビーフとチーズくれたからちょうどいいわ」
担当。たしか母の担当は美加野さんという若い女性編集者だったと思う。母の話だと彼女は入社一年目の新人らしい。例によって今回も母は新人教育係のようだ。
「お父さん六時には帰るらしいよ」
「そっか。もうしばらく会ってない気がするよ」
父に最後にあったのはずいぶんと前だ。同じ屋根の下に暮らしているのに不思議だけれど。
「お父さん朝早いからねー。今日から新学期だから心配してたわよ?」
「ハハハ、お父さん心配性だよね」
「あの人は昔からそうなのよね。京都転勤してからは毎晩、栞の寝顔見てたのよ。あ、これは内緒だけどね」
そう言いながら母は懐かしそうにため息を吐いた。室内の空気の五パーセントぐらいはありそうな深いため息。
「じゃあ夕飯の支度しちゃうよ。今晩は生姜焼きでいい?」
「やったー。じゃあエプロン取ってくるわ」
「あ、いいよ。お母さん仕事でしょ? 今日は私が作るから」
「あらそう? じゃあ今日はお願いしちゃう!」
語弊があるかもしれないが母は家事をあまりしないのだ。決して家事ができないわけではない。極力やらないで生活しているのだ。だから炊事も基本的に外食を好むし、掃除や洗濯も機械任せだ。まぁ、最低限の家事はするけれど、世間一般の主婦からみたらきっとサボっているようにみえるのではないだろうか?
そのおかげで私は自然と家事を覚えた。特に炊事……。料理に関しては母より上手いぐらいだと思う。
買ってきた食材を取り出すと調理を始める。調味料を準備し、タマネギを刻んだ。私は料理の段取りが好きだ。母のように目分量で料理が作れるわけではないけれど、調味料を計量したり、野菜を刻んだりするのは楽しいと思う。
一通り準備を終えると豚肉に下味をつけた。祖母も両親も生姜の味は濃いめが好きなので今回は生姜汁を多めに使う。
「栞ずいぶんと手際良くなったわね」
「けっこう料理してるからね。でもまだ包丁は難しいかも」
「うーん。まぁ徐々に覚えればいいわよ。あ、私、手が空いたから手伝うよ。キャベツ刻んどけばいい?」
「助かるよ。じゃあ千切りお願いね」
こうして母と一緒に料理するのもひさしぶりだ。中学生になってからは初めてかもしれない。小学校までは母に包丁の使い方を教わっていたけれど、中学以降は私一人でやるほうが多い。
ひさしぶりに見る母の手つきは相変わらず綺麗だった。同じ幅でキャベツが切りそろえられ、まるで機械で作ったように仕上がっていく。
「やっぱりお母さんには敵わないね」
「んー? こんなの経験だよ。栞だってずいぶん上手いと思うよ? あと二、三年したら私なんか追い越されちゃうよ」
きっと母は私が知らないだけで、かなり苦労しているのだ。だから炊事だってそれ以外だって私なんかよりずっとできる。祖母から聞いた話だと若い頃は海外をしばらく放浪していたらしい。ヒッチハイクもしたし、野宿だってした……。まぁ、これは祖母の受け売りなので真相は分からないけれど。
「学校どうだった? いいお友達できそう?」
母は味噌汁の具を刻みながら私に尋ねてきた。視線はまな板を向いたままだ。
「普通かな……。この前知り合った男の子と同じクラスになったよ」
「あらあら、じゃあ知り合いがいて安心よね。たしかナカライくんだっけ?」
「そう! 今日も一緒に帰ってきたんだよ!」
母は「そう!」と言って嬉しそうに笑った。
「急な引っ越しだったから心配してたのよ。月子ちゃんともちゃんとお別れしなかったでしょ?」
「大丈夫だよ。なんとかやってけると思う」
なんとかやっていける。そんな気がする。将来なんて分からないけれど、不思議とそう思う。
「なら良かったよ……。そうだ! 月子ちゃんにちゃんとお返事書きなさいね。あの子わざわざ挨拶に来てくれたんだから」
「分かってるよ。週末にでも書くよ……」
月子……。私の親友。彼女のことを思い出すと胸が苦しくなる。
私はきっと月子に後ろめたさがあるのだと思う。だからきちんと別れも言えなかったし、未だにお別れの手紙の返事も書けずにいる。
別に返事が思いつかないわけではない。ただ、書いたとしてもそんなものはうわべの返事になってしまう気がするのだ。真心も下心もないそんな手紙。そんな何の価値もない駄文。
だから私は手紙を書けずにいた。もしかしたらずっと書けないかもしれない。
母と協力して無事夕飯の準備ができた。生姜焼きの甘い香りが漂う。
さて……。あとは父の帰りを待つだけだ。
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