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第三章 秋川千鶴の場合

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「まぁコレでも飲んで落ち着いて」
 笹原常務はコーヒーを両手に持って戻ってきた。そして一つを私に手渡すと隣に座った。
「ねぇ? とりあえずわけを話してくれないかしら?」
「理由は……」
 一生上の都合。理由なんてそれだけだ。ただここに居たくない。もうここは私の居場所ではない。そんな理由。まぁ……。さすがに正直に話すのは非常識過ぎるとは思うけれど。
 もし『嫌になったからです。会社も仕事自体も。それだけです』と言えたらどれほど気が楽だろう。でも、私にはそれが言えなかった。目の前に居るこの人がどれほどこの会社を愛しているか知っているから――。
 私はまるで会議室の空気中から彼女を納得させる言葉を探るように視線を泳がせた。当然のようにそこにあるのは広い空間と机だけだ。雨音は徐々に強くなり、私たちの声をかき消すように本降りに変わりつつある。
「ふぅ……。まぁ無理にとは言わないわ。あなたにはあなたの考えがあるんだと思うしね」
 笹原常務はそう言うと眼鏡を外してそれを袖で拭いた。
「ええ。本当に申し訳ありません」
「まったく! 本当よ! あなたにはずっと期待してきたのよ。将来は私のポジション渡すつもりだったのに」
 私は『そうでしょうね』と思った。どこからどう考えても私の将来的なポジションは彼女と同じなのだ。……というよりもこの会社のキャリアコースはそこが行き止まりなのだと思う。
「ご期待に添えず申し訳ありません。笹原常務には本当にお世話になりました」
 ごめんなさい、すいません、申し訳ありません。私は壊れたテープレコーダーのようにそれだけを繰り返した。理由なんて言えるはずがないのだ。それを言ってしまったら私自身壊れてしまうだろう。
「分かったわ。とりあえず、これは預かっておきます。でもね! 考え直した方いいわよ」
 笹原常務はそう言うと私の左手を両手で優しく握った。温かい。そして良い具合にシワの入った手だ――。

 辞表の提出を済ませると私は何事も無かったように仕事に取りかかった。会議室で行われた一方通行なやりとりなどまるでなかったみたいに。メールチェック、素材の発注、会議資料の作成。そういった作業だ。これといって特別なものなんてない。
 こうやって時間が過ぎていくんだ。私は柱に掛かった時計を眺めてそんなことを思った。水原さんが居ても居なくても時間は過ぎていく。まるで川からバケツ一杯の水をくみ上げても何も変わらないみたいに。
 そしてその考えはブーメランのように自分に返ってきた。私だって同じだ。私だって数多の中の一人。バケツ一杯の水に過ぎないのだから――。
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