上 下
35 / 70
第三章 秋川千鶴の場合

しおりを挟む
 仕事が終わった。残業はなし。飲み会もなし……。今日は帰ったら何をしよう。早い時間だし洗濯機を回してついでに掃除機もかけようかな? そんな主婦みたいな考えが私の頭の上をくるくる回る。
 基本的に普段は定時退社なんて出来ない。だから自然と笑みが零れた。今日あったゴタゴタは明日に回そう。そんな優しい気持ちになれる。
「お疲れ様でしたー」
 私はフロア全体に声を掛けた。山彦のように「お疲れ様です」と返ってくる。
 外に出ると都心の空気が肌に刺さった。新宿の街に夜が降り始めている。駅に向かう途中、水商売風の女性たちとすれ違った。彼女たちは皆きつい匂いの香水をプンプン漂わせながら足早に歌舞伎町方面に消えていった。彼女たちの戦場はあっちなのだろう。まぁ、私には関わりの無い世界だ。
 新宿駅は例によって酷い混みようだった。世界最大の昇降客数の駅というのは伊達でない。人々が一つの生き物のようにこちらに向かって流れてくる。そして改札を抜けると再び個に戻る。訓練された鰯の群れみたいだ。鰯が訓練できるかは知らないけれど――。

 山手線ホームのベンチに座った。そしてさっきスタバで買ったドリップコーヒーを飲みながら行き交う人たちと電車を眺めた。耳に痛いくらい甲高いアナウンスがホーム全体に響いている。
 それにしても今日は不思議な一日だった。広報部で揉めた一件のあとは酷く平和だった。あとは帰って寝るだけ。寝る前に好きな占い師の配信に行こうかな……。そんな行き当たりばったりなことを考えているうちに電車を三台も見送ってしまった。緑のラインの電車。私にとってのライフライン。山手線だ。
 思えば学生の頃から山手線ばかりに乗っていた気がする。高校も新宿だったし、大学だって山手線沿線だった。だから私にとってこの路線は本当に生命線なのだ。生きるために乗る電車。前に進むための電車。まぁ、山手線はどんなに前に進んでも元の場所に戻ってきてしまうのだけれど。
 四台目の車両がホームに入ってきた。これに乗れば帰れる。でも私はその電車にも乗らなかった。
 次にしよう。まだコーヒーは残っているし、もう一台くらいは出発する車両を眺めていたい。そんな無駄なことを思った。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい

白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。 私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。 「あの人、私が

JKがいつもしていること

フルーツパフェ
大衆娯楽
平凡な女子高生達の日常を描く日常の叙事詩。 挿絵から御察しの通り、それ以外、言いようがありません。

あなたの子ですが、内緒で育てます

椿蛍
恋愛
「本当にあなたの子ですか?」  突然現れた浮気相手、私の夫である国王陛下の子を身籠っているという。  夫、王妃の座、全て奪われ冷遇される日々――王宮から、追われた私のお腹には陛下の子が宿っていた。  私は強くなることを決意する。 「この子は私が育てます!」  お腹にいる子供は王の子。  王の子だけが不思議な力を持つ。  私は育った子供を連れて王宮へ戻る。  ――そして、私を追い出したことを後悔してください。 ※夫の後悔、浮気相手と虐げられからのざまあ ※他サイト様でも掲載しております。 ※hotランキング1位&エールありがとうございます!

[R18] 激しめエロつめあわせ♡

ねねこ
恋愛
短編のエロを色々と。 激しくて濃厚なの多め♡ 苦手な人はお気をつけくださいませ♡

あなたの秘密を知ってしまったから私は消えます

おぜいくと
恋愛
「あなたの秘密を知ってしまったから私は消えます。さようなら」 そう書き残してエアリーはいなくなった…… 緑豊かな高原地帯にあるデニスミール王国の王子ロイスは、来月にエアリーと結婚式を挙げる予定だった。エアリーは隣国アーランドの王女で、元々は政略結婚が目的で引き合わされたのだが、誰にでも平等に接するエアリーの姿勢や穢れを知らない澄んだ目に俺は惹かれた。俺はエアリーに素直な気持ちを伝え、王家に代々伝わる指輪を渡した。エアリーはとても喜んでくれた。俺は早めにエアリーを呼び寄せた。デニスミールでの暮らしに慣れてほしかったからだ。初めは人見知りを発揮していたエアリーだったが、次第に打ち解けていった。 そう思っていたのに。 エアリーは突然姿を消した。俺が渡した指輪を置いて…… ※ストーリーは、ロイスとエアリーそれぞれの視点で交互に進みます。

【完結】20年後の真実

ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
公爵令息のマリウスがが婚約者タチアナに婚約破棄を言い渡した。 マリウスは子爵令嬢のゾフィーとの恋に溺れ、婚約者を蔑ろにしていた。 それから20年。 マリウスはゾフィーと結婚し、タチアナは伯爵夫人となっていた。 そして、娘の恋愛を機にマリウスは婚約破棄騒動の真実を知る。 おじさんが昔を思い出しながらもだもだするだけのお話です。 全4話書き上げ済み。

王太子さま、側室さまがご懐妊です

家紋武範
恋愛
王太子の第二夫人が子どもを宿した。 愛する彼女を妃としたい王太子。 本妻である第一夫人は政略結婚の醜女。 そして国を奪い女王として君臨するとの噂もある。 あやしき第一夫人をどうにかして廃したいのであった。

処理中です...