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第二章 菱沼浩之の場合

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 水族館からの脱出。それは思っていたよりずっと簡単だった。それは飼育員の怠慢。そして水族館の立地のお陰だった。
 まず飼育員の怠慢だが、彼(僕の担当飼育員は男性だった)は定期的に僕の檻を開けっぱなしにして掃除をしていた。おそらくホースで水を流して拭き取るという手順を手早く熟すためだと思う。だからその都度僕は逃げる機会を与えられたわけだ。まぁ、さすがに油断させるために最初は気づかないフリをしたけれど。
 そして立地も良かった。これは水族館の建っている場所、そして僕の入れられた檻、その両方に言えたことだ。それが揃わなければ仮に間抜けな飼育員がいても脱走はしなかったと思う。
 水族館の建っている場所。それは海の真ん前だったのだ。僕の檻から手を伸ばせば太平洋に手が届きそう。それぐらいの距離だ。ここに閉じ込められたときは神を呪ったと同時に神に感謝した。天国と地獄がたかだか十数本の鉄格子によって区切られている。これは明らかなチャンスだ。しかも鉄格子は動かない。シャチのように殺されることもない。
 だから僕はタイミングを見計らって檻から逃げ出した。四つん這いになりながら無我夢中で海に向かって走った。誰かが追ってきているとか、これからどうなるだろうとか考える余裕はなかった。ただ逃げる。それだけだった――。

 ラッコさんはそこまで話すと深いため息を吐いた。
「それでそのあと上手く逃げ切れたんですか?」
 僕はラッコさんに話の続きを促した。
「うん。逃げ切れたよ。というか海に逃げたら人間なんかに捕まらないよ。こう見えて泳ぎは大得意なんだ」
「まぁ、ラッコならそうでしょうね」
 と僕はクソつまらない相づちを打った。ラッコさんは僕の相づちを「そうそう」と適当に流す。
「それからは大変だったよ。まず江ノ島を目指して泳いだ。場所はなんとなく分かっていたからね。まぁ……。結局、チェリーには会えなかったんだけどね」
 カワウソのチェリー。彼女はどうなったのだろう? ラッコさんの話が本当なら二〇年以上前の話になる。カワウソの寿命は知らないけれど、仮に生きていたとしてかなりの高齢のはずだ。
「そうですか……」
「うん。ま、ともかく僕はそれから内房と相模湾周辺でしばらく暮らしたよ。元々住んでた場所とは気候がまるで違ったから慣れるまで苦労したけどね」
 そこまで話すとラッコさんは「ふわぁ」と気の抜けた笑い声を上げた。
「そんな感じで僕は水族館から脱出したんだ。どうだい? 続きが気になるかい?」
 ラッコさんはまるでおちょくるように言った。実際、おちょくる気満々そうだ。
「ええ、聞きたいですね」
「そうかい。うん。じゃあ続きはまた今度に聞かせるよ。良かったらまた会いおいで」
 そう話すラッコさんの横顔は嬉しそうに見えた。まるで人間みたいだ――。
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