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第二章 菱沼浩之の場合

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 目を覚ますと目の前に人間の姿があった。それはそれなりに年を重ねた人間の女で、彼女は僕の身体をまるで時計でも点検するように丁寧に探っていた。前足、脇の下、後ろ足。彼女は僕の五体を注意深くチェックしていった。そしてクリップボードに何やら書き込む。
 一通りチェックを終えると「ごめんねー」と言って彼女は僕を抱き上げた。身体が宙に浮く。僕の体長の倍くらいの高さだ。ラッコライフで経験したことのない地上からの距離。落ちたら死んでしまうかもしれない。
 それから僕は一〇メートル四方くらいの部屋に連れて行かれた。その部屋の天井には明かりとり用の大きなガラスがはめられていた。そして部屋の中央にはそれより少し小さめのプールがあった。人工的に作られた海水と消毒液の匂いが鼻を突く。嗅いでいるだけで気持ち悪くなる匂いだ。
「今日からここがあなたのお家だよ」
 とその人間の女は言った。優しい声だった。今になって思えば思いやりのある女だったのだと思う。
 でも当時の僕には彼女がこの世の悪の権化のように思えた。僕の縄張りを返せ。ラッコの楽園に帰してくれ。あそこじゃなきゃダメなんだ。こんなクソつまらない小っこい水たまりに閉じ込められるくらいなら死んだ方がマシだ。そんなことを思った――。
 
 その日から僕のラッコライフは非常に退屈なものになった。当然のように毎日ご飯が運ばれてきてはそれを食べた。冷凍だったイカや貝類。噛むとシャリッとする。どうやら完全に解凍されてはいないようだ。僕の縄張りで食べたものとはわけが違う。
 でも人間様はそんなことお構いなしに冷凍イカを頬張る僕を見て笑っていた。「かわいい」だとか「やっぱりラッコは貝が好きなのねぇ」とかそんなことを言っていたと思う。正直言ってクソクラエと思った。僕はお前ら人間の見世物じゃない。
 ああ、人間が憎い。こいつらのせいで僕は自由を失ってしまった。箱庭に閉じ込めて観賞用の動物に成り下がってしまった。本当にいっそ死んでしまおうか。そんなことを思った。まぁ、僕の生存本能がそれを許してはくれなかったけれど……。
 箱庭でのラッコライフは僕を呆けさせた。あまりにも危険がない。ワシもキツネもホオジロザメもシャチもここにはいない。ヒレ三日月のシャチ――。奴もいない。
 だから僕は様々なことを考えるようになった。暇すぎる。やることがない。時間は無限近くある。
 まず僕は今までのラッコライフについて考えた。友達だったラッコについて、恋仲になったメスラッコについて、そして天敵との生存競争について。思い返すとずいぶんと荒っぽい生き方をしてきた気がする。子育て中のメスに手を出して噛みつかれたこともあった。彼女たちは子供を産むと子供のことしか考えられなくなってしまうのだ。(まぁ僕らオスは生涯発情しっぱなしなのでそっちの方が問題だとは思うけれど)
 そしてシャチから逃げ回る日々を思い出した。奴らの口に生えそろった歯を思い出すと今でも身震いする。口の中に死が綺麗に並んでいるのだ。その歯ひとつひとつが僕らを殺すために存在する。そんな気がした。
 こうして安全な箱庭にいると忘れがちだけれど生きているということは奇跡なのだ。他者の命……。僕らの場合はイカや貝を頂き、シャチの場合は僕らを平らげる。それが平常なのだ。命を奪い、奪われる。そんな日常が僕らにとって多数派だ。人間社会の言葉で言えば食物連鎖ってやつだと思う。
 ヒレ三日月のシャチはどうなったのだろう? ふとそんなことを思った。確かあの岩礁で最後の景色は奴のヒレだった。
 僕はヒレ三日月のシャチの姿を思い返した。死を具現化したような黒い身体。そして命をそぎ取る歯のことを――。

 そんな毎日を繰り返す内に僕は生き方を変えたいと思うようになっていった。生まれた場所や楽園のような岩礁に頼らず生きよう。そんな風に。
 そしてその機会は思わぬ形でやってきた。予想の遙か斜め上から。
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