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第二章 菱沼浩之の場合

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 ラッコの話。なかなか興味深い。しかもディスカバリーチャンネルとかでやっている『ラッコの生態』みたいなものとはまるで違いそうだ。
「聞かせてください」
 少し考えてから僕はそう応えた。ラッコさんは「じゃあ……」と言って話し始めた。自身の生い立ち、そしてこの小さな貯水池に流れ着いた経緯について――。
 ライト文芸作家のラッコ『潮田楽尾』の話

 あれはたしか西暦二〇〇〇年より前だったと思う。正確な時期はわからない。当時の僕にはカレンダーなんてなかったし、まだ言葉を持っていなかった。持っていたのは貝を割るための石と岩礁に囲まれた縄張りだけだ。
 その岩礁はとても豊かな場所で潜れば様々な海の幸を手に入れることができた。ホタテにミル貝、ウニにアワビ。そんなふうによりどりみどりだ。特にホタテはお気に入りで、すいすい逃げるように泳ぐホタテを追いかけて捕まえることが僕のライフワークだった。まぁ、小難しく言ったけれど、ようは普通のラッコとして生活していたわけだ。人間諸兄が思うラッコのイメージでだいたい合っていると思う。
 そんな普通のラッコライフを送っていたある日、僕はラッコライフ最大の危機に見舞われた。極端に大きくて黒い身体、背びれに入った三日月型の傷。口を開ければ大量の尖った歯。そんな海獣――。君たちの世界の分類で言うところのシャチと出会ったのだ。
 シャチは僕たちの天敵だ。実を言うと友達を何人も食われている。奴らはすごいスピードでやってきてあっという間にラッコを食べてしまうのだ。
 人間諸兄は僕らがただプカプカ浮いているだけだと思うかも知れない。でもその実情はかなりリスキーだった。空からはワシに狙われ、陸に上がればキツネに襲われる。海は言わずもがな。僕は会ったことがないけれどホオジロザメはシャチ以上に危険な存在らしい……。
 だからあのヒレ三日月のシャチに出会ってしまったときは死を覚悟した。そして同時に何が何でも生き残りたいと思った――。

 ヒレ三日月のシャチは死そのものだった。海の死神。そんな名前がぴったりだ。きっと彼らはそんな肩書き欲しくないと思う。でも僕らラッコにとって……。いや、おそらく海に住む多くの生き物にとって彼らはそういう存在だったのだ。シャチとの出会い。それ自体が死へと直結するのだから。
 僕がヒレ三日月のシャチの背びれを認めたときにはすでに他のラッコたちは岩礁の上やら陸上やらに逃げていた。おそらく僕以外のラッコたちは防衛本能が高いのだと思う。(もしかしたらそれが普通のラッコの防衛本能なのかもしれないけれど)
 だからヒレ三日月のシャチは僕目がけてやってきた。一直線に。何の迷いもなく。
 きっとヒレ三日月のシャチは「あの馬鹿でのろまなラッコ野郎を昼飯にしてやろう」と思っていたはずだ。そこはある種の嘲笑があったと思う。
「恨むなら自分の間抜けさを恨め」そんな嘲笑。
 僕はシャチに気づくと同時に岩礁へ向かって泳いだ。決して間に合わない。それぐらいは分かった。この距離とシャチのスピードを考えれば数秒後に僕の身体は彼の口の中に収まっているはずだ。もしかしたら上半身と下半身に分かれているかもしれない。でも逃げないわけにはいかなかった。生き残りたい。僕の遺伝子を引き継いだ種を残したい。まだ言葉を持たなかったけれど、僕はそんなことを考えていたと思う。
 そこから記憶が飛んだ。意識が飛んだと言った方が正しいかも知れない。必死に泳いでいる間に意識がプツリと途絶えたのだ。認識出来なかったけれどそれは『死』に限りなく近い感覚だったと思う。いきなり自我が途絶える。さっきまであった道が消える。そんな感覚だ。
 でも幸か不幸か、僕は意識を取りも出した。取り戻した場所は僕の知る場所ではなかったけれど……。
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