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第一章 水原雪乃の場合

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 会社を出るとそのまま新宿駅へ向かった。日が沈みかけて西の空が茜色に染まり始めている。新宿の街に夜がやってくる。それを告げるような焼ける空だ。駅に着くとすぐに改札を抜けて中央線のホームに降りた。そして高尾方面に向かう電車に乗り込んだ。目的地は私の家の最寄り駅である吉祥寺。勝手知ったるホームグラウンドだ。
 中央線快速はまだそこまで混んではいなかった。サラリーマンは少なく学生が多い。あと三〇分もしたらそれが逆になると思う。学生時代はこの時間帯に電車に乗っていたっけ……。と数年前の記憶がふと蘇る。
 電車に揺られながら路面に広がる景色を眺めた。ファストフードや美容整形、あとは消費者金融。そんな欲望に満ちた看板が走馬灯のように流れていった。人の欲を印刷して町中に掲げる。そう考えるとその看板たちがとても狂気的で可哀想に思えた。単に人の欲望を刺激するためだけにインクが大量に消費されている。そんな悲しさだ――。

 吉祥寺駅に着くと速攻で印刷屋へ資料を届けに行った。弊社の営業担当は私ではないけれど、こうしてしょっちゅう小間使いしていると私が担当みたいに思われてそうだ。気がつけば先方の営業担当ともすっかり顔なじみだ。
 それから私は吉祥寺商店街のスーパーへ向かった。生食用の殻付きホタテを買うのはいつもここだ。(毎回ホタテだけ五個買うので変な奴だと思われてそうだけれど)
 左肩にはバッグ。右手にはホタテと缶チューハイの入ったビニール袋。皺の寄ったスーツに汗で落ちかけた化粧。どう取り繕っても魅力的な女性には見えないと思う。
 まぁいいだろう。ラッコさんは人間ではないのだ。仮に私がジャージ上下のすっぴんだって彼は気にしないはずだ。まぁ、ラッコさんの場合はもし彼が人間だったとしても気にしないような気もするけれど……。
 とぼとぼと彼の貯水池へ向かう。パンプスのカツカツとした音が体中に響く。
 カツカツカツカツ。そんな疲れの擬音みたいな音が帰り道にこだましていた。
『今日も無事終えることが出来そうです。ありがとうございました、まる』
 そんな風に心の中で神様に感謝を伝えた――。
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