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神戸1995⑫

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 夕闇のなか病院だけが明るかった。おそらく非常電源があるのだろう。入り口の非常灯が緑色に光る。非常口のピクトサインにヒビが入り、その隙間から白い光が漏れていた。待合室の蛍光灯は最低限な明かりを除いて消されている。
 昼間と違って患者の数は少なかった。それでも待合室のベンチに横たわる患者は残っている。夜中だというのに病院内は騒がしく、遠くから患者たちのうなり声や子供の泣き声が聞こえた。病院中に消毒液の嫌な臭いが漂っていて気分が悪くなる。空腹なので尚更そう思う。淀んだ空気を吸っていると目眩がした。院内の乾いた空気が私の喉に突き刺さる。
 病院の廊下を黙って歩いた。通りすがりに見る人たちの顔には生気がなく、皆虚ろな目で何処か遠いところを見つめていた。何人かの医者や看護士と会ったけど、彼らは私に何も言わなかった。
「逢子ちゃん!」
 声を掛けられて振り返ると、そこには中学時代の同級生が立っていた。
「香奈恵ちゃんか……? ひさしぶりやな」
「ほんまね! 逢子ちゃんちは大丈夫やった?」
 大丈夫ではない……。とは言わなかった。そんなこと言っても仕方ないし、ひさしぶりに会った同級生に心配を掛けるのもどうかと思う。
「ああ、なんとかな。そっちは?」
「ウチはおばあちゃんが転んで怪我しててん。ま、そない大きな怪我やないから良かったけどな」
 彼女は安心したような、心配したような。そんな口ぶりで話した。
「なぁ? ウチのお父ちゃんとコウタ見んかった? ちょっとはぐれてもうてな……」
「見てへんかな……。あ! でも繁樹くんならさっきおうたで! お母さんが怪我して入院したんやて」
 香奈恵曰く、繁樹もこの病院にいるらしい。
「そうか……。繁樹のお母ちゃんどこにおるんやろな?」
「ああ、それやったら三階の整形病棟やで! ウチもさっきおうたから間違いない」
 そう言うと香奈恵は部屋番号をノートの切れ端に書いてくれた。
「ありがと。したら行ってくるわ。香奈恵ちゃんも気ぃつけてな」
「ああ、お互いにな。家族と会えるとええね」
 私は香奈恵にお礼を言うとその場を後にした――。
 三階に辿り着くと酷い有様だった。どの病室からも悲痛な声が聞こえ、看護士が険しい顔で走り回っている。ナースステーションは節電のためか、非常灯だけが灯っていた。
 薄暗い廊下はあまりに不気味で、まるで怪奇特集の再現VTRに出てきそうだ。
 薄明かりの中、香奈恵に教えて貰った病室を目指した。通り過ぎる病室を覗くたび、患者の悲痛な顔が目に映った。その光景はあまりにも凄惨で現実味がない。彼らだって、昨日はこうなるとは予想しなかっただろう。
 繁樹の母親の病室に辿り着くと中を覗き込んだ。六人部屋に八人分のベッドが隙間なく並べられ、プライベートを守るためのカーテンもその役割を放棄していた。
 繁樹の家族はそんな無理矢理並べられたベッドの一番奥にいた。ベッドには繁樹の母親が横たわり、わずかな隙間に繁樹と彼の父親が疲れた顔で座っている。
「繁樹……」
 私は部屋の入り口から彼に小さく声を掛けた。ワンテンポ遅れて彼が私の方に振り向く。
「逢子か……?」
 彼は椅子から立ち上がり私の方へやってきた。繁樹の目の下には大きなクマができている。着ているジャンパーには泥がこびり付き、デニムの膝の部分はすり切れていた。
「無事で良かったわ……。おばちゃん大丈夫なん?」
「ああ、なんとかな。腕の骨が折れたのと、切り傷はあるけど命には別状ないみたいやで」
「そうか……」
「病室やとみんなの迷惑やから待合室行こか?」
 彼はそう言うと私の手を引いて病室を出た。繁樹の手には小さな擦り傷がたくさんあった。爪は割れ、指先からは血が滲んでいる。
 待合室に着くと、彼は缶コーヒーを買って私に手渡してくれた。
「ありがとな……。今朝から何も食っとらんから助かる」
 私は受け取った缶コーヒーを開けると一気に喉に流し込んだ。その缶コーヒーの味は今まで飲んだどんな飲み物よりも美味しく感じた。身体中にコーヒーの糖分が染み渡り、さっきまであれほど冷たかった手も温かくなった。きっと身体は正直なのだと思う。どうやら私は自分が思っていた以上に飢えていたようだ。
「大変やったな……。パンでええならやるで? 避難するときにぎょうさん持ってきたからな」
「ああ、ほんまに助かる……。ありがとうな」
 それから繁樹はパンをたくさん持ってきてくれた。私は受け取るとすかさずそれにかじりついた。
 ああ、こんなにアンパンが美味いと感じたんは生まれて初めてや。ほんまに美味い。と思った。
 気が付くと私は涙を流しながらパンを食べていた。きっと繁樹と会った安心感もあったのだろう。飢えから解放され、ようやく人間らしい自分に戻れた気がした。
「何も泣くことないやろ……」
「これが泣かずにおられるかい……」
 繁樹はあきれ顔だったけど、私は気にすることなく食べ続けた。待合室の時計の針はもうすぐ一二時を指そうとしていた。
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