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神戸1995⑩

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 私は空腹だった。グゥーという音が鳴り、胃が収縮する。その生理的反応は私の意思とは関係なくどんどん強くなった。カラカラに渇いた口の中で唾液だけが染み出す。
 夜空を見上げると冬の乾いた空気が鼻から喉に掛けてなだれ込んできた。冷たい空気は私の空腹感を一気に加速させていく。熱を生むための燃料が足りない。そう身体が訴えてくる。
 病院に戻ろう。この場にいても何も解決しないし、ただ悪戯にエネルギーを消費するだけだ。私は生理的欲求に従って再び歩き始めた。さっきまであれほど燃えさかっていた火事は鎮火に向かっているのか、その赤い光を失おうとしていた。
 何も考えずに病院から出たものの、私には行く当てがなかった。よく考えれば父も弟もあの病院にいると思う。いないはずがない。正直、あの陰鬱で意地の悪い病院に戻るのは気が引けたけど、戻らないわけにもいかないだろう。もしかしたら弟が泣いて私を探しているかもしれない。
 暗がりに民家が見えた。どの家も薄暗い。辛うじて見える明かりも懐中電灯や蝋燭のような弱い明かりだけ。私は暗がりで身を寄せ合っている人たちの姿を思い浮かべた。きっと彼らは毛布を被り、この凍えるような寒さから身を守っているのだろう。
 病院へ戻る道すがら奇妙な老人と会った。お世辞にも身綺麗とは言えず、明るい場所で見たならば間違いなく声を掛けないような老人だ。彼は瓦礫から拾ってきたのか、木片を積んでたき火をしていた。たき火の炎は一メートルぐらいの高さまで燃え上がり、暗がりを照らしている。
「お嬢ちゃん一人か?」
 老人は私の姿を見つけると声を掛けてきた。その声はとても小さく、たき火の燃えさかる音に紛れて辛うじて聞き取れる程度だ。
「はい……。一人です」
「そうか……。寒いやろ。あたってけ。どうせどこ行っても同じやからな」
 私が戸惑っていると、老人はビールケースを裏返してたき火の前に置いた。ここに座れということらしい。
 仕方ないのでそこに座った。たき火の炎は宙に火の粉を散らす。改めて見る老人の姿は本当に見窄らしかった。青いはんてんに毛玉だらけのズボン。口元に蓄えられた髭は白髪交じりで縮れている。
「お嬢ちゃん、家族は?」
「わからないです」
 会話終了。老人は「そうか……」というとそれ以上詮索しようとはしなかった。
 老人と対照的にたき火の炎は綺麗だった。さっきの火事もそうだけど、私は火が好きなのかもしれない。思い返せば、小学校で行ったキャンプで見たキャンプファイヤーも私は好きだった。まぁ、あの場には繁樹もヒロもいたから余計楽しく感じたのかもしれないけど……。
 繁樹とヒロ……。二人は無事だろうか? 私の家が崩れたのだから彼らの家だって無事ではないと思う。
 ふと、昨日のことを思い出した。帰りがけ、ヒロと喧嘩したっけ……。そんなことを思い出す。二人に会ったのが酷く昔のことのように思えた。あれほど毎日会っていたのに、もう会えないような気がした。ヒロと繁樹だけではない。父にも弟にももう会えないかもしれない。そう考えると急に怖くなった。怖くて怖くてたまらなくなった。
 母のことを思い出す。彼女とは本当にもう二度と会えない。
 可愛そうなお母ちゃん。独りぼっちで冷たいテーブルに潰されて死んでしまった。彼女の死に顔を見たわけではないけど、私の中で母の死を絶対的なものになっていた。あの青白い手と広がった血は私を納得させるには充分だった。
 最後に母と話した会話を思い出す。実に下らない会話だった。毎日繰り返されるような本当に下らない……。そんな会話。
 二度と会えないならもっと有意義な会話がしたかった。そんな何の意味もない後悔だけが私の中に淡々と流れる。分かっているのだ。これは結果論で、母が死んでしまった。だからそんな風に思うだけだ。きっと地震がなければ、今日も母に反抗的な態度をとっていただろう。彼女の作る手料理を仏頂面で平らげ、彼女の小言を適当に流していたはずだ。
 あれほど嫌だった母の小言を懐かしく感じた。もうあの眉間の皺もほうれい線の入った顔も二度と見ることは叶わない。人は失って、そのもののありがたみが分かるというけど、それは本当だったようだ。それは紛れもない事実で、残酷な真実だ。失わなければ学べないなら、その学びにいったい何の意味があるのだろう? もう二度と取り返せないのに、学んだところで何の意味があるのだろう?
 昔の人はこういう場面に適切な慣用句を用意してくれた。その残酷な事実を突き詰めるための慣用句。
『覆水盆に返らず』
 後悔したって零れた水は元に戻せない。そこに残るのは空の器と水たまりだけ。
 たき火の炎を見つめながら、私は今更後悔を覚えた。老人はその蓄えた髭を左手でさすっていた。
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