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第二章 愚か者のブックマーク

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「月子ぉー。けんちゃんから電話やでー!」
 階段の下から母の甲高い声が聞こえた。
 私はゆっくりとベッドから起き上がる。
 本当は健次と話したくなんてない。でも電話には出るしかなかった。
 もし、出なければ健次は直接乗り込んでくるかもしれない。
 近所の弊害だ。
 私は一歩一歩階段を踏みしめながら電話へと向かった。
 階段を踏みしめる度、憂鬱ゆううつな気持ちが込み上げてくる。
 電話は受話器を下ろされ、私が出るのを今か今かと待っているように見えた。
 その黒電話は私の気持ちを反映するように黒々しく存在を主張している。
「もしもし?」
「あ! 月子! 栞知らんか!?」
 健次は挨拶もなしにいきなりそう言ってきた。
「へ? 栞? 知らんよ」
 話が飲み込めない。なんで健次は栞のことを私に尋ねるのだろう?
「そうか……。いやな、さっき栞のお母ちゃんから電話があってな。まだ帰ってきてないらしいんや」
「は!? どゆこと?」
「俺にもわからん。あんまり遅いんで栞のとうちゃんかあちゃん心配しとってな……。お前んとこおると思ったんやけど……」
 彼の声は明らかに動揺していた。
 気丈に振る舞おうとする健次の姿が目に浮かぶようだ。
「ごめん……。ウチにも栞がどこに居るか、心当たりないわ。部活にも今日は行かんかったし、今日は栞のことまったく見とらん」
「そうか……。わかった! 夜中に悪かったな!」
 健次はそう言うと電話を切ろうとした。その時……。
 私は記憶が目覚めるような感覚に襲われた。
 瞬間的覚醒とでも言えばいいのだろうか。
 栞の居場所……。もしかしたら……。
「ちょっと待ってけんちゃん!」
「ん? なんや?」
「やっぱり心当たりがある……。かも知れん……」
 栞の行き先にわずかだけれど心当たりがあった。
 落ちかけの線香花火ぐらいの可能性だけれど行ってみる価値はあると思う。
「マジか!? どこや?」
「ああ、したら案内するわ……」

 私は部屋着から外出用の私服に着替える。
 グレーのロングスカートを履き、トップスはリネンのシャツを着た。
 姿見の前に立って身支度を調える。
 本来ならこんなことしている場合ではないだろう。
 でも私は気分を切り替えるためにそうせざるを得なかった。
「ちょっとけんちゃんち行って勉強教えてくるでー」
 私は今に居間の両親に声を掛けるとそのまま健次の家へと向かった。
 外に出ると夜だというのに暖かかった。むしろ暑くさえ感じる。
 夜の空気を吸うと不思議と気持ちが落ち着いた。
 昼間感じたような吐き気もすっかり治まっている。
 私が健次の家に着くと、家の前でジャージ姿の健次がそわそわしながら立っていた。
「おお、悪いな」
「ああ、ええよ。それより栞や! 急いで行くで!」
「それで? どこや?」
 健次は相当栞のことが心配なようで全く落ち着きがない。
「ええから着いてきて! 松原まつばら方面に行くから!」
 私は健次の手首を掴むと力任せに彼を引っ張った。
「痛ててて! 引っ張るなや! 松原の場所ぐらいわかるから!」
 私は健次の手を離すと彼の前を先導するように前へ進んだ。
 京都市内は景観条例のためか、あまりネオンや人工的な明かりがない。
 ところどころにある小料理屋の明かりも提灯のように柔らかい光だ。
「こんなとこ初めて通ったで!」
「せやろね。小学校からも中学校からも遠いし、わざわざ通らんと来ん道やからね」
「なんでこんなとこに栞おると思ったんや?」
 健次の口調から、彼がいぶかしんでいるのは察することが出来た。
 私はそんな彼の態度を無視するように続ける。
「けんちゃんも知っとるやろ? 栞、小学校ん時いじめられてたんや。あの子はあんまり口には出さんけど、えらい傷ついてたんやないかな? だからあの子はわざわざ遠回りして帰っとったんやで。あんまり他の女子と同じ道は通りたくなかったんやろな」
「そうか……。そう言われればあいつ、小学校ん時みんなと帰るとこ見たことないなぁ」
「せや! ま、けんちゃんは別のクラスやったからあんまり知らんやろうけどな……。せやからウチもよくこの道通って、一緒に帰ってたんやで。たぶん栞はあそこに居ると思う……」
 あそこ……。
 小学校時代に栞と一緒に過ごしたあの場所。
 三年前の思い出がふとよみがえる。
「小学五年の時やけど、ウチと栞はよく松原橋まつばらばしの下で道草食っとったんや。あそこなら他の生徒に見つかることもなかったしな」
「知らんかったで……。でもそこでお前ら何しとったんや?」
「別に……。なーんもしとらんよ。ただ鴨川眺めて、たまーに石投げたりしとっただけや」
 本当に私と栞は何もしないで川縁に座っているだけだった。
 でもそんな時間が私は好きだったし、栞が嬉しそうに笑っている顔を見るのも嫌いじゃなかった。
 学校を飛び出した栞は見違えるほどのびのびしていた。
 普段なら私から話を振らないと話さない彼女もその川縁では違っていた。
 あの頃の栞は自分の夢について瞳を輝かせながらよく話してくれた。
「なんやろね。栞ってほんまにええ子なんや。真っ直ぐで実直で優しい子やでマジ。ウチみたいに気が強くないけど、あれでなかなか頑固やしなぁー」
 気が付くと私は栞について自慢するように話していた。
 健次も心なしか、嬉しそうに相づちを打ってくれる。
「お前はほんまに栞が好きなんやなー」
「当たり前や! 栞はウチの親友やで!? けんちゃんなにゆーて……」
 そこまで話して私は自分の気持ちに気が付いてしまった。
 そうだ……。私は栞が好きなのだ。
 彼女の紡ぐ言葉の一つ一つが美しく、仕草一つ一つがとても可愛らしかった。
「なんや? どうした?」
「……。なんか阿呆みたいやね。別に栞がけんちゃんと付き合おうがウチらの関係変わるわけでもないのに……」
 気が付くと私の目からは大粒の涙が流れていた。
 その涙は連休中に流れたそれとは別物……。まったくの別物だった。
「おま!? なんで泣くねん!?」
「ぜんぶ、けんちゃんのせいや!」
「はぁ!? なんで俺の?」
「もう! 知らん!」
 完全な八つ当たりだと思う。
 でもそんな八つ当たりしか私にはすることが出来なかった――。

 松原橋に着くと私は辺りを見渡した。
 川床のある小料理屋を横目に見ながら鴨川の縁をゆっくりと歩いていく。
 連休明けだというのに、川縁にはたくさんの男女が身を寄せ合っていた。
「この辺りか?」
「せや! いつもウチらはあの川床の辺りで道草食っとったんやで」
 私は思い出に触れるように鴨川を眺めた。
 夜の鴨川は穏やかに流れ、優しいせせらぎだけが聞こえた。
 そんなせせなぎに埋もれるようにその少女は佇んでいた。
 華奢な後ろ姿。
 夕闇にとけるような蒼い髪。
 どうやら私の感は当たっていたらしい。
 そこに居たのは間違いなく栞だった――。
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