月の女神と夜の女王

海獺屋ぼの

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下弦の月

月姫 危機の海

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 原付で通い慣れた農道を走り抜ける。学校の制服で原付に乗っているとスカートがひらひら揺れた。もうすぐ新学期だと言うのに私は夏休み気分が抜けきらずにいた。私の人生最後の夏休みも意外とあっけなく終わってしまうというのに……。
 空気は不思議なほど澄んでいた。近所の農家の人たちが秋の準備を始めている。最後の高校生活。少しずつ空気が冷たくなり、あっという間に冬服になる。
 時間は待ってくれないと私は考えていた。麗奈や茉奈美とももしかしたらすっかり疎遠になってしまうかもしれない。それを考えるととても悲しく、そして怖くなった。田村さんのように私の大切な人たちがどんどんいなくなってしまうと思うととても恐ろしかった。
 学校の仲のいい友達とも卒業したら会わなくなってしまうかもしれない。
 失いたくない。寂しいと言うよりも、そんな気持ちの方が強い気がする。私は大切なものが失われていくのを見るのがとても辛かった。両手ですくった水が少しずつ零れ落ちてどんどんなくなっていく、それが怖くて辛い。
 村井君に皮肉を言ったけど、実際に盆に水を戻せないのは私かもしれない。母親の事もへカテーの事も結局、私は諦めてしまったんだと思う。だからせめて父さんぐらいは失いたくないと思ったんだと今になって理解した。へカテーの言っていた事は少しだけ当たっていた。
 雲間から顔を覗かせた夜空の月は、ふっくらとした上弦の月になっていた。《つきのめがみとよるのじょおう》の二人があの天体にいる様子を想像してみる。彼女たちははたして仲直りできたのだろうか? 結局、絵本のちぎれたページは見つからなかった。一体誰があのページを破ってしまったのだろうか? 母かヘカテーのどちらかかもしれないけど、それなら家のどこかにあるんじゃないだろうか?
 取り留めのない考えを抱きながら原付で走ると自宅にたどり着いた。家の電気は消えている。父さんは寝てしまったようだ。私は原付から降りてヘルメットを外すと、真っ暗な自宅の玄関の鍵を開けた。玄関を開けて小さな声で独り言のように「ただいま」と呟く。返事はない。
 私は台所に行って紅茶を準備した。今日中に進路指導の要点をまとめようと思う。いつもなら夕飯を軽く食べるところだけど、今日は食べる気がしなかった。ティーパックをお湯の入ったカップに入れると煙のように紅茶の褐色が透き通ったお湯に溶け出して緋色に染めて行く。
 私は紅茶とスクールバッグを持って二階の自分の部屋に向かった。
 部屋に入ると机の前に座り、スクールバッグから就職関連の資料を取り出す。バックをあさっていると、さっき麗奈から預かった封筒が出てきた。
 小包はA4サイズより少し小さめの封筒でずっしり重い。私はペン立てからはさみを取って封を開けた。
 封を開けると中から一冊の絵本と手紙が出てきた。絵本は以前から私が欲しかった英語版の不思議の国のアリスだった。クレヨンで書いたような奇麗な絵柄の可愛らしい絵本でなかなか手に入れる事ができなかったものだ。手紙はシンプルな茶色の封筒に入っていた。封筒の表紙には『京極月姫様へ』と書かれていて、裏面を見ると『田村雪樹』と田村さんの名前が書いてあった。
 私はその封筒を開封した。便せんが三枚入っている。私はある種の恐怖を感じながらも彼からの手紙を読み始めた。

  京極月姫様
  こんばんは。もしくはこんにちはかな?
  ルナちゃんにこうやって手紙書くのなんて初めてだからちょっと緊張しています。
  だって書いてる俺の手も震えてるしね(笑)。
  この前はありがとう! 本当に楽しい時間過ごせてよかったよ。
  一緒に水族館行って、色々な魚やイルカなんかを見るのは新鮮ですごくよかったね。
  最後のイルカショーで濡れちゃったのは予想外だった気がするけど。
  やっぱりルナちゃんの言う通り俺は雨男なのかもしれないね。
  それからお姉さんの話もちゃんと話してくれてありがとう。
  ルナちゃん、辛かったんだよね。
  でもきっとお姉さんと和解できる日も来るから大丈夫。
  今は会いたくないって思っていても少しずつ良くなるといいね。
  さて、この前ベリストアでルナちゃんに会った時はごめんね。
  俺も正直なかなか言い出せなかったんだよ。
  海岸でルナちゃんが一生懸命俺に気持ち伝えてくれたのがわかったからさ。
  ルナちゃんに好きって言ってもらえて嬉しかったのは本当に正直な気持ちです。
  君くらい可愛くて、思いやりがあって、実直な子はいないと思う。
  そう言うと、なんで気持ちに答えられないのかって思うだろうね。
  ルナちゃん? もし理由を知りたいと思うなら続きの便せんを捲ってね。
  知りたくないなら、このまま便せんをしまうか処分してくれると嬉しい。
  
  捲ったんだね?
  わかったよ。
  理由を話す。
  本当はさ、ルナちゃんとは今までみたいな関係でいたかった。
  時々、何となく会って笑って話すような関係でいたかったんだ。
  もし、ルナちゃんがそんな関係を望むなら俺は構わないけど。
  きっと、ルナちゃんはそんな関係望まないと思う。
  
  ルナちゃん実はね。俺付き合ってる娘がいるんだ。
  同じ大学の同級生なんだけどね。
  こんな話すると「じゃあなんで私と遊んだの?」って思うかもしれないね。
  本当にごめんね。
  ルナちゃんとは「先輩と後輩」っていういい関係でいたかったんだ。
  これは俺のワガママだから言い訳できないよね。
  本当にルナちゃんの相談に乗りたいだけだったんだよね。
  あまりにも鈍感でごめんね。
  
  きっと二枚目まで読んでルナちゃん怒ったよね?
  俺は最低の男だよ。
  でもね。
  ルナちゃんのことは大切に思っているよ。
  可愛い後輩だし、人間として尊敬もしてる。
  こんな事言うとあんまりよくないよね。
  でもこれだけは伝えたかったんだ。
  本当にありがとう、そしてごめんなさい。
  一緒に入れた本は俺からのプレゼントだよ。
  どうにか手に入れる事できたからルナちゃんにあげたかったんだ。
  それじゃあ、名残惜しいけどここら辺で。
  ルナちゃんにこれからも楽しい毎日が来るように祈っています。
  田村雪樹

 私は便せんを丁寧に折って封筒に元通りに戻した。読みながら零れた涙は、うれし涙でもあるし悲し涙でもあった。田村さんと気持ちが通じている部分があるのが嬉しかった。でも彼に気持ちを受け取ってもらえなかった事、彼女がいることを知らなかった事は悲しかった。
 私は涙を流しながら田村さんからもらった絵本を抱きしめた。今まで我慢してきた事が一気に流れ出してしまった気がする。ベッドの上で私は泣き続けた。
 資料整理をそっちのけにして私は泣きつかれて眠ってしまった。夏の終わりに私はまた大切なものをなくしてしまったようだ。そしてまた大切なものをなくそうとしていた。鈴虫の声が妙に良く聞こえた。
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