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第三章 月不知のセレネー
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そんな風に鍵山さんと話していると母が帰ってきた。玄関からビニールの買い物袋が擦れる音が聞こえる。音から察するに今日はかなり買い込んできたらしい。
「……母が帰ってきたみたいです」
私は気恥ずかしい気持ちを隠しつつ彼女にそんな言い訳をした。言い訳している横から「御苑ー。今日はスパゲッティーだからねぇ」という声が聞こえた。母はしっかり者だけれど少しデリカシーがないのだ。まぁ、私が誰かと通話することなんて滅多にないから仕方ないのだけれど。
『フフフ、明るいお母様ですね』
スピーカー越しに鍵山さんのそんな声が聞こえた。恥ずかしい。流石に顔が熱くなる。
「ハハハ……。まぁ」
私はそうやって語尾を濁して笑うことしかできなかった――。
それから私は母の夕飯作りの音を聞きながら鍵山さんと歌詞の打ち合わせを進めた。私が歌詞を諳んじて鍵山さんがそれに対して感想を言う。そんな音と言葉のキャッチボールだ。
『すごいです! やっぱりプロの作家さんって言葉選びが綺麗ですねぇ』
「ありがとうございます。そう言っていただけるととすごく嬉しいです」
『いやほんと! すごいです! こんな短時間でここまで歌詞が書けるなんて』
鍵山さんにそう言われてさっきとは違った意味で顔が熱くなった。文芸くらぶで貰う感想以上に嬉しい。素直にそう思う。
『実は私も一曲作ってみたんです。まだ仮ですが……』
鍵山さんは恥ずかしそうにそう言うとポロンとピアノを鳴らした。
「鍵山さんも早いじゃないですかぁ」
『ハハハ、まぁ……。実はこの話をいただいたときにはもうできあがってたんですけどね……。良かったら聴いてもらえますか?』
「もちろん! 是非聴かせてください」
私がそう答えると彼女はピアノの鍵盤を叩き始めた――。
それから私は彼女の演奏をスピーカー越しに黙って聴いた。曲調はドビュッシーに近い。どうやら彼女の作曲スタイルとはポップスよりはクラシック寄りのようだ。
綺麗な旋律を聴いていると見たこともないはずの彼女の姿が瞼の裏に浮かんだ。艶やかで長い黒髪。色白で切れ長な目。すっとした鼻筋と小さな口。そんな少女が私の頭の中でグランドピアノを弾いている。その姿はまるでギリシャ神話の女神のようだ。
思えば彼女の名前はセレネーだったっけ……。そんなことを今更思い出した。アルテミスやヘカテーと同じ月の女神。彼女はそんなファンタジックな名前なのだ。しかも私みたいにペンネームではなく本名……。そう考えると非常に珍しい名前だと思う。
私がそんなことを考えていると演奏はサビの部分に入った。どこかで聴いたことのあるような懐かしい曲調だ。もしかしたらコード進行自体はよく使われているものなのかも知れない。
でもそのメロディは今まで聴いたどんな曲よりも美しかった。ドビュッシーやショパンの楽曲と比較しても遜色ない。そう思うくらい彼女の作ったその曲は素晴らしかった。魂を削って作り上げた音……。聴いていてそう感じる。
サビが終わるとフェードアウトするみたいにピアノが音が途切れた。そして鍵山さんの小さなため息が聞こえた。
「素晴らしいです!」
私は素直に思っていたことを口にした。そして反射的に拍手もした。我ながら小学生みたいなリアクションだと思う。
『ありがとうございます』
鍵山さんは照れた様子で言うと再びため息を吐いた。
鍵山さんの演奏の余韻が部屋いっぱいに広がる。母の包丁の音も混ざっているけれどさっきよりは気にならなかった。むしろは母の作り出す包丁の音色さえ心地よく感じる。
『実はこの曲は昔から温めていた楽曲なんです』
鍵山さんは息を整えながらそう話した。
「そうだったんですね。どうりで完成度高いわけですね」
『ええ、私がまだボカロ曲作る前に構想していた曲なので……。まぁまだタイトルさえ決まってないんですけどね』
無名の名曲。私の頭の中にそんな矛盾した言葉が浮かんだ。知られていないという意味ではない。まだ名付けられていない。まだ生まれてさえいない。そんなニュアンスだ。
「タイトル決めって難しいですもんねぇ。私も毎回悩んでます。まぁ……。私の場合は最後にはいつも普通になっちゃうんですけどね」
そう言いながら私は自身の『異世界奇譚』のタイトルを思い浮かべた。私が考えたのは『自分たちの住む場所とは異なる世界での不思議な物語』という安直すぎるネーミングなのだ。我ながらどうかと思う。今の文くら系作品の方が何倍も創意工夫のあるタイトルを付けているのではないだろうか?
『そうなんですよ! カッコいいタイトルって難しいんですよね……。だから私たちのサークルでは海音ちゃんが全ての曲のタイトル考えてくれてるんですよね。情けないですが私には語彙力がないので……』
鍵山さんはそんな風に自虐すると『ふはぁ』と空気が漏れるような笑い声をこぼした。
「まぁまぁ。みんな才能には向き不向きがありますから。私もそうです。物語の世界観やキャラクターを作り出すのは得意ですが校正と校閲は苦手なんですよね。今は半井先生に手伝って貰ってどうにかやってますが……。だからきっと私は半人前の作家なんです。誰かの手を借りてやっと作品を作れてる感じなので」
『わかります! 私も誰かに手伝って貰わないと一人じゃできないんですよねぇ』
鍵山さんはそう言うと友達を見つけたみたいに人懐っこく笑った。私もつられて同じように笑う。きっと私たちはよく似ているのだ。境遇も周りの人間関係も。その両方が似通っていると思う。違うことがあるとすればビジネスパートナーの生死だけだろう。
「……それにしても綺麗な曲でした。まるで月面を散策してるような。そんな曲調でしたね。あ! すいません。わけの分からない例え持ち出して」
『いえいえ。っていうかすごいです! よくそのイメージ浮かびましたね。実はこの曲は月の海を歩いているイメージで書いたんですよ。クレーターの丘や渓谷を一人で歩いてる女の子を思い浮かべながら……。って感じです。。まぁ、そうは言っても私は生まれてから一度も月を見たことないんですけどね。だから私はそれがでこぼこした球体で地球の影で見え方が変わる地球の衛星ってこと以外は分からないんです。笑っちゃいますよね。私の名前に『月』の字が入ってるのに』
鍵山さんはそんな風に残念そうに言うと『いつか見れたらいいんですけどね』と付け加えた。
思えば私自身、最後に月を見たのもかなり昔だった気がする。それこそ小学校の低学年の頃。あの頃はまだ眼鏡も掛けてなかったし肉眼でお月見したっけ……。と、そんな遠い記憶がよみがえる。
だから私も鍵山さんと似たようなものなのだ。当然知識としては知っているけれど二度とまともに見ることが叶わない。それはとても悲しいことだと思う。
そこまで考えて私は最初から見えないのと途中から見えなくなったのではどちらが悲しいのだろう? と思った。思えば私は二年というそれなりの時間を掛けて少しずつ光を失ったのだ。思い返すとそれは非常に怖い経験だったと思う。
徐々に光を失ったせいで家族も友達も犬も猫も……。そして月さえも次第にぼやけていった。私の視界に広がるそれはあまりにも絶望的でまるで泥水の中で目を開いているようだった。
だから当時の私は色々なことを試した。目薬を大量に目に流し込んだりもした。視力が良くなるトレーニングも片っ端からやった。医者から無理だと言われてもそうするしかなかったのだ。まぁ結果だけ見れば医者の言う通りだったのだけれど。
私がそんなことを考えていると鍵山さんが『でも指先だけはしっかり月を覚えてるんです』と言った。
「指先だけ?」
『はい! 海音ちゃんが『月』の正確な模型買ってきてくれたんです。だから……。変な話ですが私は普通に目が見える人より月の地形には詳しいんです。少し撫でればそこがなんて名前の海か分かるくらいですからねぇ。ってあんまり役に立たない特技ですが』
鍵山さんは自分自身にツッコむとまた笑った。こうして話してみるとよく笑う子だと改めて感じる。
「それってすごい特技だと思いますよ。見たことがないものにすごく詳しいってかなり貴重だと思います」
『フフフ、そう言ってもらえると嬉しいです。まぁ、とは言っても見たことある人には敵わないんですけどね。結局、私は月を知らないんです。一番近しいのにその正確な姿さえ分からないんですからねぇ』
鍵山さんはそこまで話すと深いため息を吐いた。今日吐いた中で一番深いため息だと思う。
「あの……。もし良ければさっきの曲のタイトルの案出してもいいですか?」
『え!? いいんですか!? もちろんです! 作家さんに決めてもらえるなら最高です』
「ハハハ、実はさっきの話聞いてて思い立った言葉がありまして……」
私はそんな風に少しだけもったいぶった後に曲のタイトルを口にした――。
「……母が帰ってきたみたいです」
私は気恥ずかしい気持ちを隠しつつ彼女にそんな言い訳をした。言い訳している横から「御苑ー。今日はスパゲッティーだからねぇ」という声が聞こえた。母はしっかり者だけれど少しデリカシーがないのだ。まぁ、私が誰かと通話することなんて滅多にないから仕方ないのだけれど。
『フフフ、明るいお母様ですね』
スピーカー越しに鍵山さんのそんな声が聞こえた。恥ずかしい。流石に顔が熱くなる。
「ハハハ……。まぁ」
私はそうやって語尾を濁して笑うことしかできなかった――。
それから私は母の夕飯作りの音を聞きながら鍵山さんと歌詞の打ち合わせを進めた。私が歌詞を諳んじて鍵山さんがそれに対して感想を言う。そんな音と言葉のキャッチボールだ。
『すごいです! やっぱりプロの作家さんって言葉選びが綺麗ですねぇ』
「ありがとうございます。そう言っていただけるととすごく嬉しいです」
『いやほんと! すごいです! こんな短時間でここまで歌詞が書けるなんて』
鍵山さんにそう言われてさっきとは違った意味で顔が熱くなった。文芸くらぶで貰う感想以上に嬉しい。素直にそう思う。
『実は私も一曲作ってみたんです。まだ仮ですが……』
鍵山さんは恥ずかしそうにそう言うとポロンとピアノを鳴らした。
「鍵山さんも早いじゃないですかぁ」
『ハハハ、まぁ……。実はこの話をいただいたときにはもうできあがってたんですけどね……。良かったら聴いてもらえますか?』
「もちろん! 是非聴かせてください」
私がそう答えると彼女はピアノの鍵盤を叩き始めた――。
それから私は彼女の演奏をスピーカー越しに黙って聴いた。曲調はドビュッシーに近い。どうやら彼女の作曲スタイルとはポップスよりはクラシック寄りのようだ。
綺麗な旋律を聴いていると見たこともないはずの彼女の姿が瞼の裏に浮かんだ。艶やかで長い黒髪。色白で切れ長な目。すっとした鼻筋と小さな口。そんな少女が私の頭の中でグランドピアノを弾いている。その姿はまるでギリシャ神話の女神のようだ。
思えば彼女の名前はセレネーだったっけ……。そんなことを今更思い出した。アルテミスやヘカテーと同じ月の女神。彼女はそんなファンタジックな名前なのだ。しかも私みたいにペンネームではなく本名……。そう考えると非常に珍しい名前だと思う。
私がそんなことを考えていると演奏はサビの部分に入った。どこかで聴いたことのあるような懐かしい曲調だ。もしかしたらコード進行自体はよく使われているものなのかも知れない。
でもそのメロディは今まで聴いたどんな曲よりも美しかった。ドビュッシーやショパンの楽曲と比較しても遜色ない。そう思うくらい彼女の作ったその曲は素晴らしかった。魂を削って作り上げた音……。聴いていてそう感じる。
サビが終わるとフェードアウトするみたいにピアノが音が途切れた。そして鍵山さんの小さなため息が聞こえた。
「素晴らしいです!」
私は素直に思っていたことを口にした。そして反射的に拍手もした。我ながら小学生みたいなリアクションだと思う。
『ありがとうございます』
鍵山さんは照れた様子で言うと再びため息を吐いた。
鍵山さんの演奏の余韻が部屋いっぱいに広がる。母の包丁の音も混ざっているけれどさっきよりは気にならなかった。むしろは母の作り出す包丁の音色さえ心地よく感じる。
『実はこの曲は昔から温めていた楽曲なんです』
鍵山さんは息を整えながらそう話した。
「そうだったんですね。どうりで完成度高いわけですね」
『ええ、私がまだボカロ曲作る前に構想していた曲なので……。まぁまだタイトルさえ決まってないんですけどね』
無名の名曲。私の頭の中にそんな矛盾した言葉が浮かんだ。知られていないという意味ではない。まだ名付けられていない。まだ生まれてさえいない。そんなニュアンスだ。
「タイトル決めって難しいですもんねぇ。私も毎回悩んでます。まぁ……。私の場合は最後にはいつも普通になっちゃうんですけどね」
そう言いながら私は自身の『異世界奇譚』のタイトルを思い浮かべた。私が考えたのは『自分たちの住む場所とは異なる世界での不思議な物語』という安直すぎるネーミングなのだ。我ながらどうかと思う。今の文くら系作品の方が何倍も創意工夫のあるタイトルを付けているのではないだろうか?
『そうなんですよ! カッコいいタイトルって難しいんですよね……。だから私たちのサークルでは海音ちゃんが全ての曲のタイトル考えてくれてるんですよね。情けないですが私には語彙力がないので……』
鍵山さんはそんな風に自虐すると『ふはぁ』と空気が漏れるような笑い声をこぼした。
「まぁまぁ。みんな才能には向き不向きがありますから。私もそうです。物語の世界観やキャラクターを作り出すのは得意ですが校正と校閲は苦手なんですよね。今は半井先生に手伝って貰ってどうにかやってますが……。だからきっと私は半人前の作家なんです。誰かの手を借りてやっと作品を作れてる感じなので」
『わかります! 私も誰かに手伝って貰わないと一人じゃできないんですよねぇ』
鍵山さんはそう言うと友達を見つけたみたいに人懐っこく笑った。私もつられて同じように笑う。きっと私たちはよく似ているのだ。境遇も周りの人間関係も。その両方が似通っていると思う。違うことがあるとすればビジネスパートナーの生死だけだろう。
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『いえいえ。っていうかすごいです! よくそのイメージ浮かびましたね。実はこの曲は月の海を歩いているイメージで書いたんですよ。クレーターの丘や渓谷を一人で歩いてる女の子を思い浮かべながら……。って感じです。。まぁ、そうは言っても私は生まれてから一度も月を見たことないんですけどね。だから私はそれがでこぼこした球体で地球の影で見え方が変わる地球の衛星ってこと以外は分からないんです。笑っちゃいますよね。私の名前に『月』の字が入ってるのに』
鍵山さんはそんな風に残念そうに言うと『いつか見れたらいいんですけどね』と付け加えた。
思えば私自身、最後に月を見たのもかなり昔だった気がする。それこそ小学校の低学年の頃。あの頃はまだ眼鏡も掛けてなかったし肉眼でお月見したっけ……。と、そんな遠い記憶がよみがえる。
だから私も鍵山さんと似たようなものなのだ。当然知識としては知っているけれど二度とまともに見ることが叶わない。それはとても悲しいことだと思う。
そこまで考えて私は最初から見えないのと途中から見えなくなったのではどちらが悲しいのだろう? と思った。思えば私は二年というそれなりの時間を掛けて少しずつ光を失ったのだ。思い返すとそれは非常に怖い経験だったと思う。
徐々に光を失ったせいで家族も友達も犬も猫も……。そして月さえも次第にぼやけていった。私の視界に広がるそれはあまりにも絶望的でまるで泥水の中で目を開いているようだった。
だから当時の私は色々なことを試した。目薬を大量に目に流し込んだりもした。視力が良くなるトレーニングも片っ端からやった。医者から無理だと言われてもそうするしかなかったのだ。まぁ結果だけ見れば医者の言う通りだったのだけれど。
私がそんなことを考えていると鍵山さんが『でも指先だけはしっかり月を覚えてるんです』と言った。
「指先だけ?」
『はい! 海音ちゃんが『月』の正確な模型買ってきてくれたんです。だから……。変な話ですが私は普通に目が見える人より月の地形には詳しいんです。少し撫でればそこがなんて名前の海か分かるくらいですからねぇ。ってあんまり役に立たない特技ですが』
鍵山さんは自分自身にツッコむとまた笑った。こうして話してみるとよく笑う子だと改めて感じる。
「それってすごい特技だと思いますよ。見たことがないものにすごく詳しいってかなり貴重だと思います」
『フフフ、そう言ってもらえると嬉しいです。まぁ、とは言っても見たことある人には敵わないんですけどね。結局、私は月を知らないんです。一番近しいのにその正確な姿さえ分からないんですからねぇ』
鍵山さんはそこまで話すと深いため息を吐いた。今日吐いた中で一番深いため息だと思う。
「あの……。もし良ければさっきの曲のタイトルの案出してもいいですか?」
『え!? いいんですか!? もちろんです! 作家さんに決めてもらえるなら最高です』
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