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第三章 月不知のセレネー
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鍵山邸での顔会わせから数日後。私は新宿駅前の喫茶店に訪れていた。今日は私一人ではない。この前クリエイター発掘部に異動になった柏木くんも一緒だ。
「春川部長って忙しそうっすね」
私が席でパソコンを広げると柏木くんに感心とも呆れとも取れるような口調でそう言われた。
「そう? 普通だよ。それより……。そのだらしないネクタイどうにかなんない?」
私はそう言って彼の曲がったネクタイを指差した。いくら他社への営業じゃないからってだらしなさ過ぎると思う。
「ああ、すいません」
柏木くんはそう言うとだるそうにネクタイを固く結び直した。柏木くんは一応同期なのに妙に子供っぽくて少しイライラする。
「今日は移動が多いから気を引き締めてね。これが終わったら次は高井戸行くよ」
「はーい。……なんか春川部長、営業みたいっすね」
そう言われて私は『営業みたいじゃない。営業なんだよ!』と心の中でツッコみを入れた。いつも通り余計なことは言わない。口は禍の元。触らぬ神になんとやらだ。
「そういえば柏木くんってボカロのソフト使えるんだっけ?」
「ああ、はい。使えますよ」
「へー。アレってなんか難しそうだよね」
「うーん。どうっすかね? 俺は別にそうは思わないですけど……。たぶん慣れなんじゃないっすか?」
柏木くんはこともなげに言うと「ふわぁあ」とみっともない欠伸をした。どうやらこの男はあまりやる気のあるタイプではないらしい。
彼とそんな話をしていると次第に店内は混み合ってきた。そしてその中にはニンヒアの他部署の社員の姿もあった。当然と言えば当然だ。ここはニンヒアから徒歩三分圏内だし、味も値段もちょうど良いのだ。だからニンヒアの社員の大半はここの常連なのだと思う。まぁ、かく言う私もその一人なのだけれど。
そうこうしていると私たちの席に一人の男性がやってきた。数日ぶりに見るその顔は甲府で見たときよりも少しだけ泥臭く見える。これは悪い意味ではない。スレていないのはある意味美徳だと思う。
「こんにちはー。お世話になっております」
彼はそう言うと軽く会釈して人懐っこい笑みを浮かべた。やはり少し泥臭い。彼の一挙手一投足に器用さと不器用さが同居しているように感じる。
「お世話になっております。先日はありがとうございました」
私はそう答えて立ち上がると柏木くんに自己紹介するように促した。そして柏木くんは「お世話になっております。私、株式会社ニンヒアレコード、クリエイター発掘部の柏木と申します」とごく普通に自己紹介して遠藤さんに名刺を差し出した。腐っても営業。流石に私の前以外では割とまともなようだ。
「ご丁寧にありがとうございます」
遠藤さんは柏木くんから名刺を受け取ると自身の名刺を柏木くんに差し出した。プラスチック製で水色の名刺には『インビジブルムーン 編曲担当 遠藤海音』と書かれている。
「『インビジブルムーン』さんですね……。いや、こんな大手のサークルさんにお会いできて光栄です」
柏木くんは感心したように言うと大事そうに名刺を拝んだ。どうやら『インビジブルムーン』は彼らボカロ界隈ではかなり有名らしい。残念ながら私はその手のジャンルに詳しくないので反応に困るのだけれど。
それから私たちは向かい合って座った。私の正面に遠藤さん、私の右隣に柏木くんという配置だ。
「今日はお忙しい中お時間作っていただきありがとうございます」
遠藤さんは席に着くなりそう言って深々と頭を下げた。
「いえいえ、こちらこそ弊社の近くまで来ていただきありがとうございます。私も柏木を紹介したかったので助かりました。それで……。今日はどういったご用件で?」
「ええ、実は……」
遠藤さんは少し言葉に詰まると今回上京した理由を語り始めた――。
喫茶店の店内はさっきより幾分混み合ってきたようだ。スーツ姿の男女が多い。おそらくニンヒアの社員以外にとってもここは居心地の良い場所なのだろう。
「来月からの出張の予定を調整したいんですよね」
遠藤さんはそう言うとスケジュール帳を取り出した。
「月音だけなら問題ないのですが僕の仕事も立て込んでまして……。最終週だけはどうしてもこちらに出向できないんです」
「そうでしたか……。分かりました、どうにかしましょう。では……。こちらも京極と話して調整してみますね」
私はそう言うと自身のスケジュール帳に『六月二〇日 京極さんとスケジュール打ち合わせ』と殴り書きした。明日は京極さんも本社に来るしちょうど良いだろう。
「ありがとうございます。本当に助かります」
彼はそう行ってペコリと頭を下げた。私は「いえいえ」と笑顔を作って答える。
「あとですね……。こちらを見ていただきたくて」
遠藤さんはそう言ってA4サイズで厚みのある茶封筒をバッグから取り出した。
「これは?」
「それは僕たち……。『インビジブルムーン』の今までの楽曲と未発表の曲。あとは月音が書いた歌詞をまとめたものです。何かの参考になればと思いまして」
「ありがとうございます。大切な資料としてお預かりさせていただきますね」
私はそう言って茶封筒の中身を取り出した。中には数十枚の楽譜と歌詞。あとCDーRが何枚か入っている。
「すごい! こんなにたくさんの曲を作ったんですね」
「ええ、自分で言うのもおこがましいですが僕らは本当にたくさんの曲を作ってきました。……まぁ、実際に曲と歌詞を作ったのは月音で僕はただそれを清書しただけなんですけどね」
遠藤さんはそう言って自嘲ぎみに笑った。そこには『もし月音の目が見えているなら僕は用なしです』そんな自嘲が含まれた言い方に聞こえる。
私が彼らの楽譜に目を通していると横から柏木くんが数枚の楽譜を抜き取った。どうやら彼も『インビジブルムーン』の楽曲には興味があるらしい。
「……見るのはいいけどバラバラにしないでね」
「はい。気を付けます」
柏木くんは私と二人きりのときとは違ってかなり丁寧な口調で答えた。そしてそのとき気づいた。ああ、この男は私を舐めているだな。だから二人きりだとあんなタルそうなんだな。と。
そんな私の気持ちなど意に介さないといった感じで柏木くんは真剣に楽譜を読みふけっていた。これじゃやる気があるのかないのか分からない……。
それから私たちは軽い昼食を食べてそこで解散した。
「では……。来月からよろしくお願いします」
「はい、こちらこそよろしくお願いいたします」
さて……。午前中の部はこれで終了だ。少し休んだら高井戸に行こう。
「春川部長って忙しそうっすね」
私が席でパソコンを広げると柏木くんに感心とも呆れとも取れるような口調でそう言われた。
「そう? 普通だよ。それより……。そのだらしないネクタイどうにかなんない?」
私はそう言って彼の曲がったネクタイを指差した。いくら他社への営業じゃないからってだらしなさ過ぎると思う。
「ああ、すいません」
柏木くんはそう言うとだるそうにネクタイを固く結び直した。柏木くんは一応同期なのに妙に子供っぽくて少しイライラする。
「今日は移動が多いから気を引き締めてね。これが終わったら次は高井戸行くよ」
「はーい。……なんか春川部長、営業みたいっすね」
そう言われて私は『営業みたいじゃない。営業なんだよ!』と心の中でツッコみを入れた。いつも通り余計なことは言わない。口は禍の元。触らぬ神になんとやらだ。
「そういえば柏木くんってボカロのソフト使えるんだっけ?」
「ああ、はい。使えますよ」
「へー。アレってなんか難しそうだよね」
「うーん。どうっすかね? 俺は別にそうは思わないですけど……。たぶん慣れなんじゃないっすか?」
柏木くんはこともなげに言うと「ふわぁあ」とみっともない欠伸をした。どうやらこの男はあまりやる気のあるタイプではないらしい。
彼とそんな話をしていると次第に店内は混み合ってきた。そしてその中にはニンヒアの他部署の社員の姿もあった。当然と言えば当然だ。ここはニンヒアから徒歩三分圏内だし、味も値段もちょうど良いのだ。だからニンヒアの社員の大半はここの常連なのだと思う。まぁ、かく言う私もその一人なのだけれど。
そうこうしていると私たちの席に一人の男性がやってきた。数日ぶりに見るその顔は甲府で見たときよりも少しだけ泥臭く見える。これは悪い意味ではない。スレていないのはある意味美徳だと思う。
「こんにちはー。お世話になっております」
彼はそう言うと軽く会釈して人懐っこい笑みを浮かべた。やはり少し泥臭い。彼の一挙手一投足に器用さと不器用さが同居しているように感じる。
「お世話になっております。先日はありがとうございました」
私はそう答えて立ち上がると柏木くんに自己紹介するように促した。そして柏木くんは「お世話になっております。私、株式会社ニンヒアレコード、クリエイター発掘部の柏木と申します」とごく普通に自己紹介して遠藤さんに名刺を差し出した。腐っても営業。流石に私の前以外では割とまともなようだ。
「ご丁寧にありがとうございます」
遠藤さんは柏木くんから名刺を受け取ると自身の名刺を柏木くんに差し出した。プラスチック製で水色の名刺には『インビジブルムーン 編曲担当 遠藤海音』と書かれている。
「『インビジブルムーン』さんですね……。いや、こんな大手のサークルさんにお会いできて光栄です」
柏木くんは感心したように言うと大事そうに名刺を拝んだ。どうやら『インビジブルムーン』は彼らボカロ界隈ではかなり有名らしい。残念ながら私はその手のジャンルに詳しくないので反応に困るのだけれど。
それから私たちは向かい合って座った。私の正面に遠藤さん、私の右隣に柏木くんという配置だ。
「今日はお忙しい中お時間作っていただきありがとうございます」
遠藤さんは席に着くなりそう言って深々と頭を下げた。
「いえいえ、こちらこそ弊社の近くまで来ていただきありがとうございます。私も柏木を紹介したかったので助かりました。それで……。今日はどういったご用件で?」
「ええ、実は……」
遠藤さんは少し言葉に詰まると今回上京した理由を語り始めた――。
喫茶店の店内はさっきより幾分混み合ってきたようだ。スーツ姿の男女が多い。おそらくニンヒアの社員以外にとってもここは居心地の良い場所なのだろう。
「来月からの出張の予定を調整したいんですよね」
遠藤さんはそう言うとスケジュール帳を取り出した。
「月音だけなら問題ないのですが僕の仕事も立て込んでまして……。最終週だけはどうしてもこちらに出向できないんです」
「そうでしたか……。分かりました、どうにかしましょう。では……。こちらも京極と話して調整してみますね」
私はそう言うと自身のスケジュール帳に『六月二〇日 京極さんとスケジュール打ち合わせ』と殴り書きした。明日は京極さんも本社に来るしちょうど良いだろう。
「ありがとうございます。本当に助かります」
彼はそう行ってペコリと頭を下げた。私は「いえいえ」と笑顔を作って答える。
「あとですね……。こちらを見ていただきたくて」
遠藤さんはそう言ってA4サイズで厚みのある茶封筒をバッグから取り出した。
「これは?」
「それは僕たち……。『インビジブルムーン』の今までの楽曲と未発表の曲。あとは月音が書いた歌詞をまとめたものです。何かの参考になればと思いまして」
「ありがとうございます。大切な資料としてお預かりさせていただきますね」
私はそう言って茶封筒の中身を取り出した。中には数十枚の楽譜と歌詞。あとCDーRが何枚か入っている。
「すごい! こんなにたくさんの曲を作ったんですね」
「ええ、自分で言うのもおこがましいですが僕らは本当にたくさんの曲を作ってきました。……まぁ、実際に曲と歌詞を作ったのは月音で僕はただそれを清書しただけなんですけどね」
遠藤さんはそう言って自嘲ぎみに笑った。そこには『もし月音の目が見えているなら僕は用なしです』そんな自嘲が含まれた言い方に聞こえる。
私が彼らの楽譜に目を通していると横から柏木くんが数枚の楽譜を抜き取った。どうやら彼も『インビジブルムーン』の楽曲には興味があるらしい。
「……見るのはいいけどバラバラにしないでね」
「はい。気を付けます」
柏木くんは私と二人きりのときとは違ってかなり丁寧な口調で答えた。そしてそのとき気づいた。ああ、この男は私を舐めているだな。だから二人きりだとあんなタルそうなんだな。と。
そんな私の気持ちなど意に介さないといった感じで柏木くんは真剣に楽譜を読みふけっていた。これじゃやる気があるのかないのか分からない……。
それから私たちは軽い昼食を食べてそこで解散した。
「では……。来月からよろしくお願いします」
「はい、こちらこそよろしくお願いいたします」
さて……。午前中の部はこれで終了だ。少し休んだら高井戸に行こう。
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