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第三章 月不知のセレネー
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鍵山邸に到着したのはお昼過ぎだった。太陽がすっかり高くなり、一日で一番日の高い時間帯だと思う。
「さーて。長かったねぇ」
京極さんは背伸びしながら大あくびした。
「運転お疲れ様」
「うん、マジ疲れたよ。ねぇ陽子さぁーん! 東京戻ったらどっか家系ラーメン連れてってよ。全部濃いめで注文すっからさ」
京極さんはそう言うと悪戯っぽく笑った。どうやら彼女はジャンクな夕食をご所望のようだ。
「いいよ。ラーメンぐらいならいくらでも奢ってあげるから」
「マジ? やったぁ! ジュン、夕飯ラーメンで決まったよー」
そんな京極さんの様子を作家二人は微笑ましく眺めていた。そして半井さんも「家系美味しいですもんね」と京極さんの話に乗っかる。
「ラーメン……」
冬木さんがそう呟くと半井さんが「冬木先生も行きましょ!」と嬉しそうに彼女の肩を揺すった。これでラーメン六杯注文確定。と私は頭の中で六杯分の金額を反射的に計算した。まぁ一万あれば足りるとは思う。
車から降りると草の感触がパンプス越しに足の裏に伝わった。そして草花の匂いが鼻をくすぐった。都内ではなかなか感じられない匂いだ。庭にはたくさんの花が植えられていて、そのどれもが綺麗に手入れられていた。そして家の周りの芝生も雑草などなく綺麗に刈り揃えられていた。それは成金が見栄のために何となく建てた別荘とは一線を画するもののように感じる。生活感と非生活感、実用性と道楽、生と死。どうやらこの庭にはそんな二つの要素が綺麗に同居しているようだ。
私がそうやって庭を眺めていると鍵山邸のドアが開いた。そして遠藤さんが顔を覗かせる。
「こんにちは」
彼はそう言うと口元を緩めて私たちに会釈した。
「こんにちは。お世話になっております」
私は反射的にそう返す。
「遠いところからありがとうございます。さ、中へどうぞ」
それから私たちは遠藤さんに促されるまま鍵山邸に入った。家の中に入ると奥からピアノの音が聞こえてきた。曲はモーツアルトの交響曲第四〇番ト短調第一楽章。軽快なリズムの曲だ。ふと惣介の顔が思い浮かぶ。そういえば彼もこの曲を弾いていたっけ……。
奥に通されるとそこは大きな明かり取り用の窓のある二〇畳ほどの部屋だった。中央には鏡面のように磨かれた黒のグランドピアノがあり、部屋の奥手は全面ガラス張りだった。そしてその向こう側には細い木の植えられた中庭が見える。控えめに言って金持ちの道楽で建てた家だ。しかも半端な金持ちじゃない。もう資産家が本気で作った家。そんな風に感じる。
そんな部屋の中央で彼女は黙々とピアノを弾いていた。集中しているらしく私たちの存在には気づかない。
私たちはそのまま彼女の演奏が終わるのを待った。流れる運指が止まるまで待とうと示し合わせたわけでもないのに誰も何も言わなかった。
おそらく全員が圧倒されていたのだと思う。目の前にいるのが一七歳の少女だと忘れるほどに。
鍵山さんの指が鍵盤の上を流れていく。ときに優しく、ときに力強く。それはまるで聞き分けの良い馬に騎乗しているかのような演奏だった。
そして彼女は閉じた瞼を強く瞑ったり緩めたりしながら演奏し続けた。完全に集中しきっていて相変わらず私たちの入室にはまったく気づかない。おそらく指も耳も、そして身体の細胞ひとつひとつが演奏することだけに集中しているのだ。仮に今ここで火事が起きても気づかないかも……。思わずそんな馬鹿げた考えが浮かぶ。
ガラス越しに見える中庭の木に小鳥が留まっていた。瑠璃色の羽、雀と同じくらいの体格。そんな鳥だ。鳴き声は『ピィーキュキュキュ、チュチュチュ』と聞こえる。
私がその鳥の声に一瞬気をとられている間に鍵山さんの演奏が止まった。どうやら第一楽章が終わったらしい。
「月音。お客さんだよ」
演奏が止まると遠藤さんは鍵山さんに優しく声を掛けた。
「はい……」
鍵山さんはそれだけ言って私たちの方に身体を向けた。そして「こんにちは」と挨拶してくれた。瞼は閉じられている。まぁ彼女は冬木さんと違って全盲なので当然なのだけれど――。
それから私たちは前回打ち合わせをした部屋に移動した。八人全員が座ると流石に狭く感じる。
「すいません。練習中に来てしまって」
「いえいえ。こちらこそ申し訳ないです。待たせてしまってすいません」
鍵山さんは本当に申し訳なさそうに言うとペコリと頭を下げた。
「じゃあ早速ですが……」
私は挨拶もそこそこに今日の本題に移った。
「さーて。長かったねぇ」
京極さんは背伸びしながら大あくびした。
「運転お疲れ様」
「うん、マジ疲れたよ。ねぇ陽子さぁーん! 東京戻ったらどっか家系ラーメン連れてってよ。全部濃いめで注文すっからさ」
京極さんはそう言うと悪戯っぽく笑った。どうやら彼女はジャンクな夕食をご所望のようだ。
「いいよ。ラーメンぐらいならいくらでも奢ってあげるから」
「マジ? やったぁ! ジュン、夕飯ラーメンで決まったよー」
そんな京極さんの様子を作家二人は微笑ましく眺めていた。そして半井さんも「家系美味しいですもんね」と京極さんの話に乗っかる。
「ラーメン……」
冬木さんがそう呟くと半井さんが「冬木先生も行きましょ!」と嬉しそうに彼女の肩を揺すった。これでラーメン六杯注文確定。と私は頭の中で六杯分の金額を反射的に計算した。まぁ一万あれば足りるとは思う。
車から降りると草の感触がパンプス越しに足の裏に伝わった。そして草花の匂いが鼻をくすぐった。都内ではなかなか感じられない匂いだ。庭にはたくさんの花が植えられていて、そのどれもが綺麗に手入れられていた。そして家の周りの芝生も雑草などなく綺麗に刈り揃えられていた。それは成金が見栄のために何となく建てた別荘とは一線を画するもののように感じる。生活感と非生活感、実用性と道楽、生と死。どうやらこの庭にはそんな二つの要素が綺麗に同居しているようだ。
私がそうやって庭を眺めていると鍵山邸のドアが開いた。そして遠藤さんが顔を覗かせる。
「こんにちは」
彼はそう言うと口元を緩めて私たちに会釈した。
「こんにちは。お世話になっております」
私は反射的にそう返す。
「遠いところからありがとうございます。さ、中へどうぞ」
それから私たちは遠藤さんに促されるまま鍵山邸に入った。家の中に入ると奥からピアノの音が聞こえてきた。曲はモーツアルトの交響曲第四〇番ト短調第一楽章。軽快なリズムの曲だ。ふと惣介の顔が思い浮かぶ。そういえば彼もこの曲を弾いていたっけ……。
奥に通されるとそこは大きな明かり取り用の窓のある二〇畳ほどの部屋だった。中央には鏡面のように磨かれた黒のグランドピアノがあり、部屋の奥手は全面ガラス張りだった。そしてその向こう側には細い木の植えられた中庭が見える。控えめに言って金持ちの道楽で建てた家だ。しかも半端な金持ちじゃない。もう資産家が本気で作った家。そんな風に感じる。
そんな部屋の中央で彼女は黙々とピアノを弾いていた。集中しているらしく私たちの存在には気づかない。
私たちはそのまま彼女の演奏が終わるのを待った。流れる運指が止まるまで待とうと示し合わせたわけでもないのに誰も何も言わなかった。
おそらく全員が圧倒されていたのだと思う。目の前にいるのが一七歳の少女だと忘れるほどに。
鍵山さんの指が鍵盤の上を流れていく。ときに優しく、ときに力強く。それはまるで聞き分けの良い馬に騎乗しているかのような演奏だった。
そして彼女は閉じた瞼を強く瞑ったり緩めたりしながら演奏し続けた。完全に集中しきっていて相変わらず私たちの入室にはまったく気づかない。おそらく指も耳も、そして身体の細胞ひとつひとつが演奏することだけに集中しているのだ。仮に今ここで火事が起きても気づかないかも……。思わずそんな馬鹿げた考えが浮かぶ。
ガラス越しに見える中庭の木に小鳥が留まっていた。瑠璃色の羽、雀と同じくらいの体格。そんな鳥だ。鳴き声は『ピィーキュキュキュ、チュチュチュ』と聞こえる。
私がその鳥の声に一瞬気をとられている間に鍵山さんの演奏が止まった。どうやら第一楽章が終わったらしい。
「月音。お客さんだよ」
演奏が止まると遠藤さんは鍵山さんに優しく声を掛けた。
「はい……」
鍵山さんはそれだけ言って私たちの方に身体を向けた。そして「こんにちは」と挨拶してくれた。瞼は閉じられている。まぁ彼女は冬木さんと違って全盲なので当然なのだけれど――。
それから私たちは前回打ち合わせをした部屋に移動した。八人全員が座ると流石に狭く感じる。
「すいません。練習中に来てしまって」
「いえいえ。こちらこそ申し訳ないです。待たせてしまってすいません」
鍵山さんは本当に申し訳なさそうに言うとペコリと頭を下げた。
「じゃあ早速ですが……」
私は挨拶もそこそこに今日の本題に移った。
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