寵愛のテベル

春咲 司

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罪人は罪を知らず

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 薄暗い城内には昼夜関係なく銀の燭台に火が灯され、明るく照らされた壁には回廊を走り回る兵の姿がゆらゆらと映し出されている。
 それだけで見知っている城とは別の場所のように見えてしまう。
 ハーミヤは窓辺に寄ると空を仰いだ。人々の努力も神への祈りさえも嘲笑うかのように、曇天からは絶え間なく雨が降り注ぐ。

「降り止みませんね」

 そう呟いたルドルフの横顔は、物憂げなものだった。

「ええ、このまま大地が海になってしまいそう」

 絶えず波紋を作り続ける水溜りは、徐々にその大きさを増していく。見れば見るほど、世界という名の水槽に水が溜まっていくように思えた。

「今の世界の状況は、まるで神様が罰を与えているように思えませんか?」

「罰、ですか」

 何気ないハーミヤのひと言に、ルドルフは息を呑んだ。

「はい、罰です。そうだとすれば、私たちは一体どんな罪を犯してしまったのでしょうか」

 そう言ってハーミヤは目を伏せた。
 現実逃避の泣き言にしか聞こえないかもしれないが、そんな気がしてしまったのだ。

「……もし神の怒りというものがあるのならば、罰を受けるのは私一人だ」

 囁かれたその言葉は、会話の返事ではなく独白だった。
 思いもよらないその言葉に、ハーミヤはルドルフを見つめた。するとルドルフはしまった、とばかりに口を手で抑えた。声に出して言ったつもりはなかったようだ。

「ルドルフ……?」

 声を掛けると、ルドルフは罰の悪い顔をした。
 隣に立っているはずのルドルフが急に遠くに感じられて、ハーミヤは不安を覚えた。
 異様な空気が流れ、二人して黙り込んでしまう。
 ルドルフの言葉にいったいどんな意味があるのか。尋ねたくても、おそらくルドルフはそれに触れられたくはないのだろう。
 聞こうか聞くまいかとハーミヤが悩んでいるうちに、年若い兵が二人の元へと駆け寄ってきた。
 兵はしっかりと敬礼してから用件を切り出す。

「ルドルフ様、国王陛下がお呼びです。至急謁見の間までお願い致します」

「わかった。謁見の間だな」

 ルドルフはそれに頷くと、ハーミヤの方へと顔を向けた。

「ハーミヤ様、私はこれで」

「あ……」

 儚げに微笑んだルドルフに、ハーミヤは何も言えなくなってしまった。兵と連れ立って歩き出すルドルフをただ見送ることしかできない。だがその時のハーミヤには、ルドルフが引き立てられる罪人のように映った。

 ハーミヤは一人、ルドルフの姿が回廊の角に消えるまで見つめていた。
 それから間を置かずして、カツンカツンと床を鳴らす高い音が聞こえてきた。聞き慣れたヒールの靴が出す音に、ハーミヤは後ろを振り返った。

「帰っていたのね、ハーミヤ」

「フレイアお姉様」

 ちょうどルドルフ達と入れ違う形でやって来たフレイアは、ハーミヤの肩に両手を乗せた。

「ランズールお兄様にはお会いできた?」

「はい、門の前でお会いしました」

「そう、良かった。きっとしばらくはお帰りになれないと思うから。私もお兄様と一緒に各地の被害報告を聞いていたのだけれど、かなり酷い状況らしいの」

 フレイアは深刻な表情で言った。
 ハーミヤはフレイアの言った各地という言葉に反応した。出立前のランズールも言っていた言葉だ。

「あの、ポートネール以外でも大きな災害が?」

「ええ。長雨による影響で各地で水害が発生しているわ。そういえば、ルドルフは一緒ではないの?」

 フレイアはそう言って、辺りをキョロキョロと探した。

「ルドルフはお父様に呼ばれて謁見の間へ行きました」

「そう、ならダーウェントにはやはりルドルフが向かうことになりそうね」

 フレイアは頬に手をやりそう呟いた。

「あの、ダーウェントでも被害が?」

 ハーミヤが恐る恐ると言った様子で問いかけると、フレイアはそれに頷いた。

「山で土砂崩れが起こって、それに街が呑まれたそうなの」

「そんなっ……」

 ハーミヤは悲鳴のような声を上げた。
 要塞都市であるダーウェントは、街の後方を山によって守らせている。しかし雨によって山の地盤が緩み、大量の土砂が押し寄せる事態を引き起こしてしまったというのだ。

「ダーウェントの駐屯所も被害に遭って、民の救援活動も滞っているそうなの。それが十日前の話よ」

 ダーウェントから王都までは馬の足で十日の距離。今から向かえば更に十日を費やすことになり、その間にも被害は拡大を続けるだろう。

「でも、なぜルドルフなのですか? 彼は近衛騎士ではありませんか」

 近衛騎士の職務は、王とそれに連なる王族の護衛である。本来の役目から離れて地方へ赴くということはありえないことだった。

「今は非常時で深刻な人員不足だから。ルドルフは以前ダーウェントにいたし、その土地に詳しい彼が派遣されるのではないかとお兄様と話していたの。そしてルドルフがお父様に呼ばれた。彼が向かうのは間違いないわ」

「そうですか」

 ハーミヤは目を伏せると小さく漏らした。
 その顔をフレイアがそっと覗き込む。

「ルドルフと離れるのは、嫌?」

 その問いにハーミヤは咄嗟に首を振った。この緊急時に嫌などと口にするのは我が儘にほかならない。
 フレイアは苦笑すると、珍しく気弱なことを口にした。

「我が国は長雨による影響で水害。エランリーク王国では火山の噴火。ラドニス帝国ではハリケーンが猛威を振るっている。なんだか、天変地異よね。このさき世界はどうなってしまうのかしら」

 ハーミヤの脳裏には、このまま世界が滅んでしまうのではないかという思いが浮上した。
 そしてすぐにそんな恐ろしいことを考えたことを後悔し、忘れようと努めた。
 しかしその時、ハーミヤを猛烈な頭痛と目眩が襲った。
 目の前がチカチカと明滅し、足元が歪む。壁に取り付けられた燭台の火は青色に変わって、ひらひらと飛び回る蝶へと転じた。ハーミヤは堪らず壁に手をついた。
 異変に気付いたフレイアがハーミヤの名を呼ぶが、それに答えることさえできなかった。
 頭痛が激しくなると、今度は頭の中に言葉が浮かび上がってきた。

 長く過ごしていくなかで、主は気付いた。
 この地の寿命に。
 そう遠くない未来、この地は失われる。
 大陸の端から荒廃が始まり、いずれ全てが世界を飲み込む。

 それは声も音もない、ただの文字。だがそこには猛烈な既視感があった。
 恐ろしくて気持ちが悪くてハーミヤは、遂にその場に座り込んでしまった。
 フレイアの心配する声がどこか遠くに聞こえていた。
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