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藤沢~片瀬東浜

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 これで私と彼女の物語は終わりだ。
 結論から言えば、私は二度と彼女に会うことはできなかった。そしておそらく、これからも会うことはないだろう。
 ここから先の物語は、私の物語、ないしは彼女の物語である。
 しかし彼女との出逢いと別れは、それからずいぶん長い年月、私の心に影を落とし、同時に光で照らした。だからもう少しだけ私の話を続けよう。

 彼女の書き置きに気づいた私は、慌ててそれを開いた。もしかしたらそれを読むより先に彼女を探すべきだったのかもしれない。そのときならまだ、彼女はそう遠くに行っていなかったかもしれないのだ。
 けれど私はその手紙を開いた。手が震え、複雑に畳まれた紙を開くときに一部が破れてしまったけれど、なんとか開くことができた。

「優しい地球人さんへ

ここまで送っていただきありがとうございました。
また、いろいろな話を聞かせていただき、とても楽しく幸せなひとときを過ごすことができました。親切な地球人さんに感謝します。
さて、この期に及んでこのようなことを申し上げるのは大変心苦しいのですが、ここでお別れしなくてはなりません。探査船を見せるわけにはいきませんので。
私のことなら心配しないでください。なんとかやっていきます。
なんのお礼もできず恐縮ですが、レポートの結末についてはもう少し考えてみます。
お元気で。

人工生命体九三号より」

 手紙を読んだときの心情は、うまく説明できない。
 怒り、喜び、悲しみ、安堵、絶望。
 さまざまな感情が入り混じり、完全に脳のキャパシティを超えていた。
 全身の力が抜け、私はふらふらと彼女の座っていた花壇まで歩くと、そこにへたり込んだ。
 どうすればいい?
 どうすればいい?
 どうすればいい?
 何度自問しても答えはなかった。

 どれくらいの時間そうしていたのかはわからない。ずいぶん長かった気もするし、ほんの数分だったかもしれない。いずれにせよ溢れていた脳のメモリが次第に整理され、残ったのは彼女を探さなくてはならないという使命感だった。
 私は立ち上がり、手紙をバミューダの前ポケットにねじ込んだ。買ったばかりのペットボトルは、座った場所に置いたまま忘れていた。自転車のスタンドを上げ、ハンドルを押して向きを変えた。
 彼女がどちらに向かったのかはわからない。独りで相模湾に向かったのか、Uターンして藤沢駅方面に向かったのか。
 単純にこのゲームを打ち切って両親の住む家に帰るのだとしたら、駅に向かうのが妥当だろう。まだ始発は動いていないはずだが、藤沢にだって二四時間営業のファミレスかファストフードぐらいあるはずだ。しかし私にはそうでないように思えた。なぜそう思ったのかはわからない。宇宙に行くという彼女の話を信じていたのだろうか?
 とにかく、私には彼女が江ノ島方面に向かったように思えた。それもまた判断ミスだったのかもしれないが、すでに決着はついていた。仮に私が藤沢方面に向かっていたとしても、駅に向かう細いルートは無数にあり、どのみち彼女には会えなかった気がする。
 私は自転車にまたがり、道の左右から車が来ていないことを確認し、ペダルを踏んだ。荷台に置かれたままだった防災頭巾が滑り落ちたが、気にしていられなかった。
 独り乗りになった自転車は軽快に車道に飛び出し、私は右にハンドルを切って再び南を目指した。

 巨大なマンションやホテルなどの間を抜けて、ビルから斜めに生えた歩道橋の下の交差点を過ぎると、急に視界が開けた。どうやら左側は大きな公園になっているらしい。右手にも高いビルはなく、群青とグレーを混ぜたような空が広がっている。先ほどよりまた明るくなっていて、夜明けが近づいているのを感じた。
 急がなくては。
 でも、なんのために?

 自転車を漕ぎながら、私は手紙の内容を反芻した。長い手紙ではなかったが、私がコンビニに入っている間にあれを書く時間はなかったはずだ。彼女はいつ手紙を書いたのだろうか?
 ――あのときだ。
 私は大和のマクドナルドで席を外したときのことを思い出した。彼女はノートに何か書いていた。それがこの手紙で、私がコンビニに入ってから折り畳んだのか、あるいはあのとき手紙を折り畳んでから自分のためになにか書いていたのかはわからない。どちらでも大した違いはない。
 いずれにしても、彼女は私に人類は滅びるべきだと告げて、私は彼女に翻意を促した。彼女は聞き入れなかったけれど、あの手紙を書いた。そこにはもう少し考えると書かれていた。
 だから私はあの手紙を読んだとき、どこかホッとしたのだろう。彼女は死なない。そう感じた。
 そしてまた、手紙に書かれた楽しく幸せなひとときという言葉に、なにかあたたかいものを感じたのも事実だ。横浜町田までの旅路で私たちの共有した感情は、錯覚ではなかった。それは間違いなくそこにあった。
 一方で私は、彼女に腹を立ててもいた。なぜなにも真実を話してくれなかったのか。なぜ別れも告げずに黙って去ってしまったのか。探査船を見せるわけにはいかないなんて、嘘に決まっている。やはりなにか話せないような深刻な事情を抱えていたのではないか? あるいはただ、意気地なしな私に愛想を尽かしただけなのか?

 道はやがて川に差し掛かった。南国を思わせる背の低い椰子の木の先に橋が見えてきた。そこまでの道に何があったのかはまるで憶えていない。
 川は緩やかにカーブを描き、水面は氷のように静止して見えた。カーブの先はどこかで海に繋がっているはずだが、海はまだ見えない。川を斜めに横切る長い橋を渡り、私は自転車を漕ぎ続けた。
 手紙のことを考えつつも、私は道の左右に彼女の姿がないか探し続けていた。
 彼女が四六七をまっすぐ江ノ島方面に向かったとすれば、どこかで追いつくはずだ。手紙を見てから少しの間座り込んでいたとはいえ、歩きならそこまで遠くには行っていないだろう。そろそろ追いついてもおかしくない。けれど夜明け前の国道沿いに人影はなく、焦りだけが募った。
 やはり彼女は藤沢駅のほうに向かってしまったのだろうか。あるいは追跡を避けるために四六七とは別の道を行くことにしたのだろうか。
 しかし、私を避けつつも相模湾を目指すというのは筋が合わない。そもそも相模湾に探査船があるという話が真実でないのなら、彼女が相模湾に向かう必要はないはずだ。だとすると引き返すべきなのだろうか?
 疑念に駆られつつも、私はそのまま南に向かって走りつづけた。今さら戻ったところで彼女には会えない気がしたし、夜明けまでに海に辿り着けたら再び彼女が姿を現してくれるような気もした。非合理的な話だけれど、そのときの私は正常な判断ができなくなっていたのだろう。

 川を渡ってから、道の左右は少し寂れた街並みになっていた気がする。マンションは低くなり、戸建ての住宅が増えた。シャッターを閉じた古い商店や、カフェか何か、小洒落た店もあったような気がする。小さな人影に一瞬目を奪われたものの、犬を連れてジョギングしている中年の男だった。
 空はますます明るくなってきていた。天頂付近はまだ深い青なのに、東の空はほとんど昼間のような薄い水色になっている。
 道はやがて東へ向けてカーブした。道の先に見える雲は赤みが差してきている。急がなくては。夜が明けたら、永遠に彼女を失ってしまう。
 脚はほとんど限界だったけれど、私はただ、取り憑かれたようにペダルを踏み続けた。

 グーグルマップで見た大きな交差点にたどり着いたとき、空はもう見事な朝焼けに染まっていた。ここでまた四六七は鋭角に折れる。右斜め手前方向が江ノ島、ゴールは目前だった。
 信号は青で、私はほとんどブレーキもかけずハンドルを切った。江ノ電の線路に慌てつつもタイヤを取られるようなヘマはせず、小さなマンションやドラッグストアの間を進み、道に沿って南へとカーブする。
 緩い上り坂を進むと、国道一三四号に突き当たることを知らせる案内標識が見えて、坂を上り切ったところで灰色の海が見えた。
 最後の上りで力を使い果たした私は、そこで力が抜けた。自転車は慣性に押され、重力に引かれて、自動的に坂を下った。

 海岸に沿って走る国道一三四号、その向こうに海が広がっていた。空は明るいが、海はまだ暗い。その右側に、島が見える。中央付近に灯台の突起を生やした島影。江ノ島だった。
 信号は赤で、私は自転車を停めた。夜はまだ明けておらず、私はもう焦らなかった。思えばこの時点で、私はもう彼女に会えないことを悟っていたような気がする。
 やがて信号は青になり、私は国道一三四号を横切って、その先の歩道に自転車を乗り上げた。砂浜に降りるつづら折れのスロープがあり、自転車に乗ったままスロープを下った。
 昼間には海水浴客で賑わうこの海岸も、夜明け前は静かだ。わずかにゴミ拾いや犬の散歩をしている人がいるだけで、波の音と鳶の鳴き声だけが聞こえる。
 ――彼女は、ここにはいない。
 砂にタイヤを取られ、私は自転車を降りると、そっと砂浜に倒した。そのままふらふらと波打ち際へと歩いた。さすがに靴を履いたまま海に入るほどバカじゃなかった。だから濡れる前に立ち止まり、そこに座り込んだ。
 風が髪を揺らす。彼女は去ってしまった。もう会うことはできない。
 ――それでもいいじゃないか。
 私は自分に言い聞かせる。
 彼女の死を止めることができたのであれば、それ以上なにを望むというのだ?
 まもなく夜は明けるだろう。それまでに橋を渡り、島まで行くこともできるかもしれない。しかし彼女はそこにもいないだろう。彼女の目的地は相模湾だ。江ノ島じゃない。
 あるいは彼女はもう、探査船に乗ってしまったのかもしれない。そう考えた方が辻褄が合う気がした。
 涙は出なかった。泣くには疲れすぎていたし、泣くほどの思い出もない。
 私はそこに座ったまま、夜明けの最初の光が彼女を永遠に連れ去ってしまうのを待った。
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