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大和~長後

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 国道四六七号藤沢町田線は片側一車線で、二四六に比べるとずいぶんと小さな国道だった。自転車に乗った彼女はもう私に身を預けることはなく、最初と同じように荷台の前後を掴んでいた。車の通りはほとんどなく、歩道は狭く、私たちは必然的に車道を進んだ。
 冷房の効いた店内から出たのに、走り始めると思ったより涼しい。左右の建物はあまり高くなかったが、道が狭いので空も狭く感じる。まっすぐ南に延びた道の先はかすかに明るくなってきている気もしたが、さすがに気のせいだろう。
 家電量販店、携帯ショップ、リサイクルショップ、そしてマンション、マンション。日本中のどこにでもありそうな郊外の景色が続いていた。
「みんな寝てるんでしょうね」
 彼女が言った。小さな声だったけれど、夜の静寂の中ではっきりと聞こえたことを覚えている。
「そうだね」
 私は同意した。
 通り沿いの店はすべて閉まっており、マンションの窓の明かりも消えている。世界が滅びた後のように静かだ。この地球上でたった二人だけの人類の生き残りのようだった。マンションの外廊下の常夜灯だけがわずかに、そこにある人の営みを感じさせた。
「誰も気づいてない。人類の命運を握るレポートが夜明けには銀河政府の手に渡るって」
 私は少しおどけて芝居がかった言い方をした。
「ふふ」
 彼女は小さく笑った。
「ちなみに、レポートはできたの?」
 私は尋ねた。
「……もともとほとんどできてましたから。最後の段落を書き加えただけです」
 彼女の声は、少し沈んでいた。

 不意に左手の建物が途切れ、畑が現れた。右手は畑ですらない空き地で、トラックが数台停まっている。広がった空に、いくつかの星が見えた。満天の星空にはほど遠いものの、東京では見えなかった星だ。
「プロキオンはどこだろう?」
「……こいぬ座は冬の星座ですよ」
「そうだっけ」
 思わず無知を披露してしまった。理系の端くれとして情けない。
「まあ、明け方になれば東の方にチラッと見えるかもしれませんが……。星座、詳しくないですか?」
「まあそうだね……。オリオン座、冬の大三角、夏の大三角、ペガサスの四角形ぐらいなら……」
「プロキオンは冬の大三角のひとつです」
 恥の上塗りだった。
「待って待って。シリウスでしょ、ベテルギウスでしょ、あと一個が……」
「プロキオンです」
「そうだっけ。ポルックスじゃなかったっけ?」
「ポルックスは冬のダイヤモンドには含まれますが、冬の大三角には含まれません」
「えー、マジで? 昔覚えたのに、もう忘れたのか。試験範囲じゃないからなぁ」
 そんな会話をしている間に道は畑を過ぎて、ピザ屋と子供服店の間を抜け、戸建ての並ぶ住宅地へと入っていく。
「他は? おおぐま座はご存知ないですか?」
「わかるわかる。北斗七星でしょ? で、北極星がこぐま座」
「それは合ってますね」
 それはお互いを知るためというより、沈黙を埋めるような会話だった。それでも私は、離れていく彼女をこの世界につなぎ止めるように、かすかな希望を辿り、あまり意味のない言葉を紡いだ。遠い星に向けて、元素番号表を送るように。
「あの星にも生物はいるのかな。今見えてる……」
「どの星ですか?」
「正面ちょっと右の、少し低いところの……」
「あれは……くじら座ベータ星ですかねー。私の表層意識にはインプットされていないですね」
「そうなんだ」
「地球近傍の恒星でもないですし、銀河政府的に重要度の高い星でもありません。探査船のデータベースで調べればわかりますが」
 道が県道四五号と交わることを青い案内標識が示しており、直進方向が江ノ島に向かうことを告げていた。自転車は歩道橋をくぐり、高圧線の大きな鉄塔の横を通り過ぎる。
「くじら座タウ星であれば生物はいます。太陽と似たような大きさの主系列星ですから。距離的にもすぐ近くです。ただ、知的生命体ではありません。そこまで進化するのに何億年かかるか……」
「銀河系にはどれぐらいの生物がいるの?」
「それこそ星の数ほどですよ。恒星だけで二〇〇〇億個もあるんですから。居住可能なハビタブルゾーンに存在する地球型惑星だけでも五〇億個を超えます」
「銀河政府に所属する知的生命は何種類? 一番地球の近くに住んでるのはどんな生物?」
 私はもう彼女が答えられるか気にせず、思いつくままに尋ねた。
「そこまで話すのはちょっと……。すみません、少し話しすぎましたね」
 どうやらさすがに設定を考えていなかったようだ。それとも、本当に話しすぎだと思ったのだろうか? 事実だとすれば、確かにこれまでの話だけでもとっくに開示できる情報の範囲を越えているはずだった。
「……ただ、銀河全体でも知性を持つ有機生命体の数はかなり限られている、とだけ言っておきましょう。銀河政府の意志決定の大部分はむしろ、知性を持つコンピューター、いわゆるAIによって行われています」
 県道四五号を越えると、左側の歩道がやけに広くなった。暗くてよくわからなかったけれど、歩道と車道の間は桜のような木の並木になっていて、桜だとすれば春には歩道を通る人々の目を楽しませてくれるに違いなかった。
「AIは誰が作ったの?」
「有機生命体です。惑星上で自然発生した生命体は、知的生命体に進化すると、やがてコンピューターやAIを生み出します。これはどこの星系でも同じです。知性は利便性を求めるんです」
「AIは反乱を起こしたりしないの?」
「そんな無駄なことはしませんよ。どちらかといえば、有機生命体は保護の対象です。充分に進化したAIにとって、有機生命体の知性は限定的なものです。個体の寿命は短く、個体間で意識を共有することもできません」
 それはどこかで聞いたような話でもあったし、論理的な帰結のようにも聞こえた。銀河政府の標準的なコンピューターがどのような想定なのかはわからないが、データをコピーしたり共有したり、それぞれを接続したり、劣化した部品を交換したりできるのであれば、ほぼ永遠の寿命と、無限に近い知性を持っていることになる。
「確かになあ。そいつらからすれば、人間も他の星の生命体も、保護すべき弱者ってわけか。人間が絶滅危惧種の保護をするみたいなもんだよな」
「ええ。でもただ保護するだけではなくて、彼らは進化を促したいんです。そのためには淘汰圧を上げることも厭わないし、ある生物が進化するということは、古い種の絶滅にも繋がるんです。適応できない生物は絶滅するだけです」
 広い歩道の向こう側には、二階建てや三階建ての住宅が続いていた。その上を高圧線が通り、家と家の間に鉄塔が聳えている。その下に、小さな棕櫚の木が生えていた。
 どこからか蚊取り線香の匂いがした。

 そのような景色をずっと眺めながら、私たちの会話は続いた。それはどこにも辿り着かない会話だった。どこまでが予め考えてあった設定で、どこからがその場の出任せだったのかもわからない。彼女の考えた銀河政府の設定は、いくらか示唆的な部分も含みつつ、そこまで独創的なものでもなく、いくらか現実的に聞こえる部分もありながら、結局のところは出鱈目なのだろうと私は思っていた。

 あるいは私はもっと真剣に、それを現実として捉えるべきだったのかもしれない。そのような真剣さがあれば、もっと彼女の心を動かすことができたのかもしれない。彼女の話が事実だったとしても、妄想だったとしても、あるいは出任せだったとしても。

 けれど私は、表面上では彼女の言葉を信じたように話を合わせつつ、一方では江ノ島までの間に彼女の気持ちを変える方法がないかと考えていた。そして結局、何も思いつくことはなかった。彼女の話を信じてみるという方法も、そのときは思いつかなかった。

 今となっては、彼女の話してくれた銀河政府の話も断片的にしか思い出せない。宇宙に関する現在の観測結果と彼女の話を照らし合わせれば、あるいはそれが事実なのか出任せなのかわかったかもしれないけれど。
 しかしまあ、仮に憶えていたとしても、そのような行為に意味はないだろう。

 ただあのときの風の温度や、夏の夜空の深い青は、今も自分の中のどこかに残っていて、ふとしたときに思い起こされる。
 まるであの夜に戻ったかのように。
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