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馬絹~横浜青葉

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 東名高速には横浜の名を冠するインターチェンジが二つある。横浜青葉ICと、横浜町田ICだ。
 用賀で二四六と分かれた首都高渋谷線はそこから東名高速となり、二四六と平行にその北側を進んだ後、青葉区で二四六を乗り越えて南に入り込む。横浜青葉ICは、概ねその辺りにある。
 横浜町田ICはラブホテルの名所として知られているが、そこはまだずっと先だ。
 多摩川を越えた私たちは川崎市内を横浜青葉方面に進んでいた。
 川崎市といっても、西側は高級住宅街も多く、治安も良い。多少の上り坂もあったものの、問題はなにもなかった。

 彼女は『ぶちぬけ!2008!』を歌い終えた後、さらにいくつかボーカロイドのヒット曲を歌った。主に初音ミク、たまに鏡音リン・レン。今でこそ他にも多くの音声合成ソフトが発売されているが、当時はそれだけだった。厳密にいえばさらに旧世代のMEIKOとKAITOはあったけれど、使いにくいのか、使っているPは少なかった。
 歌は車の音にかき消されながら夜のマンション群の谷間に響き、仏壇屋の前を過ぎ、保育園らしき建物の脇を抜け、マクドナルドのドライブスルーに入ることもなくスルーした。落書きだらけのコンクリート塀の向こうには、団地のような建物が見えた。

 道は概ね地上だったが、土地が低くなっている場所は陸橋のようになっていた。下り坂の勢いに乗って二つ目の陸橋に入ったところで、彼女は歌うのをやめた。
「少し喉が渇きました」
 自販機で買ったペットボトルはすでに空になっていた。しかし、陸橋が終わるまではコンビニも自販機もない。
「あなたも疲れていませんか?」
「まあね。どっかコンビニでも寄る?」
 さすがに走りっぱなしで太ももも張っていたし、お尻も痛くなってきていた。とはいえ、左右はプラスチックの防音パネルと中央分離帯に挟まれ、前に進むことしかできない。
「高架下りたらコンビニぐらいあるだろうし」
「そうですね」
 道の先、陸橋のさらに上に、鉄道のものらしい鉄橋が見える。左右の防音パネルは透明で、私達は街灯の明るい大通りを越え、鉄橋をくぐった。
「何線でしょうか?」
 遠ざかっていく鉄橋を見送り、彼女は尋ねる。
「東急かな」
 実際のところはそれは横浜市営地下鉄だったのだが、まさか地下鉄が高架より上にあるとは思わなかった。すでに終電を過ぎているのか、列車の気配はない。
 続けて大きな歩道橋をくぐると、左手に青く光るローソンの看板が見えてきた。東京を出てからマンションの明かりが減ったとはいえ、幹線道路沿いでそんなに暗くはないはずなのに、コンビニの明かりを見ると妙にホッとした気持ちになる。

 都内に比べて広い駐車場はがらんとしていたが、それでも二、三台の車は停まっていた。トラック用の駐車スペースらしきものもあったが、そこは空いている。
 駐車場に面したガラスの前に自転車も一台あったので、私はその隣に自分の自転車を停めた。ガラスの向こうの雑誌コーナーに、立ち読みする人の姿はない。
「うーん……」
 自転車を降りた彼女は伸びをして、さらに腰を左右に捻った。
「女の子座りで前を見ようとすると、腰を捻ることになるんです。だからできるだけ自分の正面を見たり、たまに後ろを見たりしてたんですが」
「それは……しょうがないね」
 スカートで股を広げて前向きに座れとも言えない。しかしこのまま本当に江ノ島まで行けるのだろうか? この旅はどこまで続くのだろうか? 改めて疑問が浮かぶ。
 目的としては、彼女を相模湾まで移送することになっている。けれど仮に江ノ島まで行ったとして、それが私たちのハッピーエンドになるのだろうか?
 考えられる理想の結末としては、たどり着いた江ノ島で彼女はこれが狂言であったことを明かし、私たちは連絡先を交換して交際を始める……ということになるのだろうか。
 それもあり得ないことではないはずだ。けれど、そう都合良くはいかない気もした。
 とはいえ、だとすればどんな結末があり得るのだろう?

 あるいは江ノ島まで行かないことが正解なのかもしれない。彼女の心を開くことができれば、どこかで本当のことを話してくれるのかもしれない。さらに言えば、私が本当のことを教えて欲しいと言うべきなのかもしれない。
 私はそんなことを考えた。が、同時にそれは今ではないとも思った。まだ江ノ島までは遠い。時間はたっぷりある。体力だって少し休めばまだ保つだろう。
「なんか食べ物も買う?」
 先に立って店内への入口に向かいながら、私は尋ねた。時計は午前一時近く、さほど空腹感はなかったけれど、何かカロリーを補給した方が良さそうな気もした。
「どこで食べますか?」
「イートインコーナーがあるといいんだけど……」
 そう言いながら店内に入り、見回したものの、そんなに都合のよいものはなかった。冷房で冷やされた空気が火照った体に心地よい。
「イートインはなさそうですね」
「じゃ、やめとく?」
 中学や高校の頃、友達と寄り道したコンビニの駐車場で、立ったまま、あるいは座り込んで軽食を摂ったこともある。けれどさすがに彼女にそれを求めるのは失礼な気がした。
「まあ、その辺で座ってもいいんじゃないですか? 人も少ないし」
「……それでいいの?」
 思ったより彼女はフランクというか、体裁を気にしないところもあるようだ。話しながら私たちは店の奥へと進んでいた。
「そしたら、からあげクンとか……」
「あ、ちょっと待ってください」
 彼女は小走りに店の一番奥の冷蔵庫に近づくと、そのガラス戸を開けた。中にはビールや酎ハイの類がずらりと並んでいる。
 少し悩んでいる様子の彼女に近づくと、彼女は猫の絵が描かれたビールを手に取り、私の買い物カゴにそっと入れた。
「これにします」
「ああ……」
 少し予想外な行動だったので、私はそれしか言えなかった。
「大丈夫です。肉体年齢は二〇歳ですので」
「そうなんだ……」
 さっきは高校生だと言っていた気がするが、仮に二浪しているとすれば、二〇歳というのもあり得ない話ではなかった。
 どちらが本当なのかはわからない。もちろん、この旅のなかで背伸びをしてみたかっただけという可能性もあるし、極端な話、社会人が逆ナンのために夏期講習に来ていたという可能性だって、絶対にないとは言い切れない。宇宙人に造られたという可能性を否定できない以上、他のどんな可能性だってあり得ると私は思った。
 とにかく、私はそれを咎めることはできなかった。
「一緒に飲みます? こんなに飲めないかもしれないので」
「え……? いいけど」
 私は動揺を隠して冷静な振りをした。童貞の浪人生の精一杯だった。
「でもお茶とかも買わないとね。走ってると喉乾くし」
「それはそうですね」
 彼女は隣のガラス戸を開け、今度は麦茶を取り出した。

 レジでは何も言われなかった。私は少しドキドキしながら年齢確認ボタンを押した。しかし一歳の違いが見た目でわかるわけもなく、金髪の店員はそんなことを気にしそうにもなかった。
 六八五円を払い外に出た私たちは、駐車場の隅のほうへ歩きながら座る場所を探した。
 ベンチのような気の利いたものはない。むしろ客にここにいて欲しくないのだろう。もう暑くはないものの、冷房の効いた店内と違い、生温い空気が漂っている。
「駐車場と店の間に、ちょっと出っ張ってるところあるじゃないですか。コンクリートの……」
「あるね」
 そこに座ろうと言うのだろうか。まあ、夏だし、夜だし、悪くないかもしれない。そう思ったが、彼女は言葉を止めた。
「あっちに公園みたいなの、ありませんか?」
 彼女が見つめる先には、コンビニの駐車場と別の駐車場を隔てるフェンスに切れ目があり、その駐車場の先の大きなマンションの下に、言われてみれば公園らしきものがある。
「行ってみようか?」
「はい。ベンチがあるかもしれません」

 それは本当に小さな公園だった。
 くの字に折れ曲がった、タワーマンションと呼ぶには少し小さな一〇階建てぐらいのマンションに抱かれるように、園児向けらしき小さな滑り台と砂場、ぶら下がり健康器具のようなもの、それに水飲み場とベンチ、そしてそこに木陰を作るであろう植栽があった。
「よく見つけたね」
「なんとなく公園っぽい木があるなって。マンションとの位置関係的にも公園だろうと思いました」
「あー、なるほど……。昼間はここのマンションの子供たちが遊ぶんだろうね。小学生には退屈そうだけど、マンションの目の前にあると、入学前の子供にはちょうど良さそうだし」
「それで母親がこのベンチに座って見守るわけですね」
 彼女は目を細めて小さく笑うと、公園が一望できるベンチに腰を下ろした。私は少し間を空けて座り、二人の隙間にコンビニの袋を置いた。
 ベンチはマンションの反対側を向いていて、駐車場の脇を細い道が二四六に向かって延びている。その向こうには二階建ての民家や小さな会社のような建物があり、さらにその奥に、鬱蒼とした木々を挟んで巨大なマンションが見える。
「さっそく頂きましょう」
 彼女は袋から猫の絵のビールを取り出して、プルタブを起こした。プシュ、と小さな音が響いた。それをそのまま口に近づけ、一瞬のためらいの後、一口飲んだ。
「……なるほど。これがビールですか」
「初めて……だよね」
「任務に直接の関係はありませんし、酔ってしまうことで支障が出る可能性もありましたから」
「今は?」
「基本的なレポートは終わったので。むしろ、地球人が愛好するビールというものを飲んでみたかったのです」
「感想は?」
「なかなか刺激が強いですね。強い炭酸、冷たさ、苦味、それとおそらくアルコール分による刺激。あなたもいかがですか?」
 彼女はビールの缶を差し出した。夜の街灯の下で、その顔はやけに白く見えた。白磁のような、というのだろうか。それでも肌が汗ばんでいるのがわかった。汗で濡れた前髪が額に貼りついていた。
 私は何も言わず缶を受け取った。飲酒より回し飲みの方が気になった。
 彼女は気にしていないのだろうか? そんなに手練れには見えないが、あえてそうすることで私の気を引こうとしていたのだろうか? あるいは私を試していたのだろうか? 私の何を?
 いくつもの疑問を、ビールと一緒に流し込んだ。渇いた喉にその刺激が心地よい。慣れてはいなかったが、全くの初めてではなかった。暑さと渇きのせいか、以前飲んだときより美味い気がした。
「ぷはぁ~。生き返る」
 定番のセリフを言ってはみたが、いささかわざとらしかった気もする。
「ふふ」
 彼女は小さく笑った。
「よく飲んでるんですか?」
「いや、一口飲んだこともある程度。最近はいろいろうるさいしね」
 一昔前、昭和の終わり頃までは、高校生の飲酒は当たり前だったと聞く。私が通っていた高校でも、体育祭や文化祭の後には打ち上げと称して飲み会が行われていたらしい。しかし平成何年だかに同じ学区でちょっとした事件があり、教師たちも厳しく目を光らせるようになったという。私が入学した頃には、すでに飲酒文化は壊滅していた。
 以前は法に抵触しても社会的には黙認されていたことが、どんどん許されなくなっていく。私と彼女の小さな背伸びも、今ではもう許されないことかもしれない。令和の若者たちを可哀想に思うこともある。とはいえ、そんなことは感傷なのだろう。彼らには彼らの青春があるのだろう。
「つまみも食べる?」
 私はコンビニの袋からからあげクンを取り出して、蓋を開けた。
「いただきます」
 彼女は付属の楊枝でそれを食べ、またビールを飲んだ。私たちはしばらく、黙ったまま同じ楊枝でからあげクンを食べ、交互にビールを飲んだ。
 静かだ。
 二四六を何台ものトラックが通り過ぎていく。その音もずいぶん遠くに聞こえる。
「さっきの話ですけど、その子とはそれからどうなったんですか?」
「え?」
 唐突に聞かれて、一瞬何のことかわからなかった。でもすぐに、高校のときに好きだった女の子の話だと気づいた。
「どうもしないよ。彼女は京都の大学に行っちゃったし、もともと他に好きな男もいたし。後はただ忘れるだけ」
 最初から彼女をどうにかしようという気もなかった。私はただ、彼女の笑顔を見て、たまに言葉を交わすだけで幸せだったのだ。そしてそれももう終わっていた。
 次に会うのはずっと先、きっと同窓会か何かだろう。その頃には私も別の女性を好きになっているのだろう。そう思っていた。そしてそれはそのとおりになった。
 しかしこのとき私が考えていたのは、隣でビールを飲んでいる女の子のことだった。彼女は私をどう思っているのだろうか。そして、私は彼女をどう思っていたのだろうか。
 一目惚れというつもりはないが、最初に姿を見たときから好感を持っていた。
 それが実際に話をして、こうして五時間も一緒にいて、ますます彼女のことが気になっていた。
 私は彼女に恋をしているのだろうか?

 今にして思えば、そもそも恋愛とそれ以外の好きを分けること自体がナンセンスだ。
 人間的な好印象と、性的な好印象と、それらが重なれば長く一緒にいたいと感じるし、性的な繋がりも持ちたくなる。それだけのことだ。
 その意味では私は彼女に恋をしていたとも言える。けれどそれを恋と呼ぶには、あまりに一瞬の間の出来事だった。

「悲しくはないんですか?」
 彼女は私の顔を覗き込むように尋ねた。
「そうだね。あんまり悲しくはないかな」
 その言葉に嘘はなかったけれど、私は目をそらした。夜風が木々を揺らした。
「不思議ですね。人間の感情って。私にはよくわかりません」
 視界の隅に彼女の視線が外れたことを感じ、そちらを見ると、彼女はまっすぐ二四六の方を見ていた。なんとなく私もそちらを見るが、変わらぬ景色が広がっているだけだ。
「大学では何をされるんですか? 学部とか」
 また唐突に話が変わる。
「まだわからないよ。理学部と工学部、どっちがいいのかもわからないし、違いだってよくわからない」
 正直、入学時点で決められるのはせいぜい理系か文系かぐらいで、普通の高校生や浪人生がそこまで決められないのではないか。これは今でも思う。
「ゲームクリエイターにはならないんですか?」
 小学校の卒業アルバムに書いた、私の夢。私はここまでの道中でそんな話もしたのだった。
「それもよくわかんないんだよね。大学に入ったら考えようかって」
 そのころの私は、ゲームにも飽きていたし、ニコニコ動画の方が好きだったのだ。
「でも、できればなにか自分に向いてて、夢中になれるような仕事を見つけたいよね」
 大学に入ればきっとそんなものが見つかるのではないか。当時の私は、そんなふうに楽観的に考えていた。
 彼女はどうだったのだろうか。将来になにかの展望はあったのだろうか。
 けれどそれは彼女の設定に抵触するため、聞くことはできなかった。
 今となっては、知るすべもない。

「私、今日のこと忘れません」
 不意に彼女は言った。
「探査船とともに宇宙に行っても、あなたのこと、きっと忘れません」
「うん……。オレも忘れない」
 それ以上、何を言えば良いかわからなかった。だからただビールを飲んだ。
 ビールはもう不味くなっていた。さっきほど冷たくなかったし、炭酸も強くなかった。ただ苦みばかりを感じた。後から思えばそれはあまり苦みのないビールだったはずだけれど、私たちはビールに慣れていなかった。
「まだ飲む?」
「いえ……。あまり飲むと酔ってしまいそうです」
「だね」
 ほんの少し頬が熱い。少しだけ頭の中がふわふわしていた。二人で缶の半分ほどしか飲んでいないが、これ以上飲むのは危険な気がした。それにもう苦いだけで飲めそうにない。からあげクンもなくなっていた。
「行きましょうか」
 彼女は立ち上がった。
 江ノ島までの道のりはおそらくここで半分程度だ。ここまでかかった時間を考えると、あまり余裕はない。本当に江ノ島を目指すならだけど。

 私は再び自転車を漕ぎ始めた。残ったビールは公園の水飲み場に流し、缶はコンビニのゴミ箱に捨ててきた。
 マンション群の明かりもさらに減っていた。東京から離れたこともあるし、ほとんどの人は眠りに就いたのだろう。
 次の信号を越えると、右側に畑らしきものが見えた。そしてコンテナを積んだだけのレンタルスペース。さらに大きな交差点を越えると、私たちは東名高速の下をくぐった。

 彼女とはなにか話をしていた気がするが、どんな話だったかは憶えていない。
 道は下り坂になり、自転車はスピードを上げた。やがて側道が現れ、直進は東名高速という表示が見えたので、私は側道へと進んだ。
 実際のところ、高速へのランプは次の側道だったので直進しても良かったのだけれど、そちらはかなり上り坂なので避けて正解だった。
 上部が内側に湾曲したガードの外の道を、自転車は下っていった。
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