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二〇二三年 八月

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 信号が赤になり自転車を停めると、片側三車線の大きな交差点の上には、四方のビルに切り取られつつもまだ広い空が広がっていた。
 青はどこまでも深く、そこに高くそびえる積乱雲。都市部にもかかわらず緑濃い街路樹からは、短い生を謳歌するかのような蝉時雨が降り注ぐ。
 自転車を漕いでいないと、あっと言う間にアスファルトから立ち上る熱気に包まれ、汗が噴き出してくる。冷蔵庫がほとんど空だったとはいえ、おそらくこんな時間に自転車で外出すべきではないのだろう。
 けれど、この暑さもあと二週間程度だ。
 緊急事態宣言がなくなったとはいえ、今年はプライベートな理由で旅行にも行けないし、大層な「帰省」をするほどの田舎も私にはない。けれどなんの予定もないからこそ、こんなときぐらい全身で夏を感じたかった。
 この最も暑い数週間こそがまさに一年のピークであり、クライマックスのように感じる。八月も下旬になれば急速にピークは過ぎ、夏が過ぎ去っていく寂しさばかりが募る。
 いや、むしろそれはピークである今、すでに始まっているのかもしれない。だから夏は郷愁を呼ぶ。過ぎ去った幾つもの夏を思い出してしまう。
 失ったもの。
 得ることができなかったもの。
 だからこそ輝いて見えるもの。
 ――そんなものを思い出してしまう。

 今、私が思い出すのは一五年前の夏だ。私はまだ一九歳で、浪人生だった。予備校の夏期講習で、一人の女の子と出逢い、別れた。たった一週間の出来事。

 彼女が言うには、彼女は銀河政府により造り出された人工生命体だった。
「この星をどうすべきか、銀河政府にレポートを送るのが私の任務です」
 市ケ谷から麹町へと続く坂道の、ありふれたチェーンの喫茶店で、彼女は私にそう告げた。そして彼女は、私に奇妙な依頼を持ちかけた。
「明日の夜明けまでに私を相模湾に移送してください」

 当時の私は彼女の話を信じていなかったし、今でもほとんど信じていない。
 けれど時を経るごとに記憶は曖昧になり、漠然とした夏のイメージに溶けていく。
 今となってはそれを確かめるすべはないし、心のどこかで彼女の話は全て事実だったのかもしれないとも思う。

 あらかじめ断っておくけれど、この物語にハッピーエンドはない。
 多くの夏の恋がそうであるように、あれはあのときにしか見えない蜃気楼のようなものだった。近づくほどに遠ざかり、決して触れることのできない蜃気楼。
 とはいえ、仮に恋人たちが結ばれて物語が終わったとしても、現実は続いていく。だからどんな恋にもハッピーエンドはないと言うこともできる。死が二人を分かつまで、あるいは何らかの事情が二人を分かつまで、彼らの現実は続き、必ず最後には別離が待っている。結ばれようと結ばれまいと、最後にたどり着く場所は同じだ。
 そう考えれば、ラブストーリーがハッピーエンドでないことは、なにも悲しむべきことではない。

 もっとも、それはラブストーリーと呼べるほど大層なものでさえなかった。
 別に初恋だったわけではないし、恋と呼べるものですらなかったかもしれない。
 ただ夏が来るたびに思い出す、おそらく多くの人にもあるような、それだけの話だ。
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