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第一幕・異なる翅の世界

第弐話・未成年蝶の標本

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 大正大君シュブ=二グラスが産んだ、ジパングの建造物は、基本的に、セピア色が多く、ジパングの建造物に、この色が多いのは、その為である。

 小洒落たギンザの街を、ゆっくりと歩いている二人の若い男女がいた。ひとりは、蜂蜜色の髪の、高等學校くらいの、軍の制服姿の青年である。

 もうひとりは、翠玉すいぎょく色の波打った長髪に、揚羽蝶の簪を付けた、紫檀の袴の小柄な少女である。こちらも、高等學校の年齢である。


 二人は、ギンザの百貨店の、ケースの中の商品を、嬉しそうに見ている。青年は、大柄であり、身長差が、かえって道行く人達には、微笑ましかった。二人には、別段、買いたいものなどなかったが、こうして一緒にいる事が、何より楽しいらしく、互いに口数は少ないながらも、健やかに過ごしていた。


「ねえ、竜神りゅうじん。見て見て。蟻が、歩いてる」

 

 少女は、しゃがみ込むと、蟻の行進を、無邪気に見つめた。竜神も、それを見ている。蟻は、ヨタヨタと、歩いていた。ふたりは、それを、見守っている。


 すると、藤の色の空から、雨が突然、ポツポツと、振り始めた。


「嗚呼、どうしよう」


 二人は、百貨店に入り、濡れた躰を温める。店内を、巡る事にした。特に目を引かれたのは、鉱石薬の専門店で、特に今は、此岸世界で云うと、四月なので、花粉に弱い種族の人達は、こぞって、花粉に効く鉱石薬を、購入していた。鉱石は、古くからジパングで薬として愛用されており、親しまれている。此岸世界では、鉱石は、食用ではないそうだが、この世界では、貴重な栄養素として、重宝されているのだ。


 竜神は、傘を買ってくるといって、少女の元を離れた。少女は、鉱石薬専門店の、目玉商品である、真珠クリィムに魅了され、それを眺めていた。

 

 だが、幾ら待っても竜神は、戻ってこなかった。

 異変に気づいた少女が、警察に連絡を入れた時には、既に彼は、事件に巻き込まれていたのである。





 近年、事業を拡大している、『室井コトノハ鉄鋼グループ』の御曹司であり、ジパングでも希少な竜族の出身である|室井竜神むろい・りゅうじんが、何の脈絡もなく、行方知らずとなったのは、僅か二週間前の事である。


 マスコミ各社は、何処から発生した噂なのかは知らないが、かの御曹司の失踪を、『本命の懸想相手との駆け落ち』と報道した。


 室井竜神には、鈴木胡蝶すずき・こちょうという、こちらも同じく事業拡大中である新進気鋭の出版社『鈴ノ片脚出版』の御令嬢という、婚約者がいた。


 二人の出会いは、会社同士の合同パーティーであり、それが、政略的な婚約である事は、周知の事実であった為、恐らくライバル企業のどれかが、失墜を目論んでこのような噂話を流布したと思われるが、当然世間はそんな事情を推察できる程、両企業や、御曹司御令嬢に付いて詳しく見ている訳ではない為、そのマスコミ各社の報道を、鵜呑みにしたのである。


 特に、憂鬱新聞なる、某政治家に偏った主義のマスコミは、「かの婚約は、本人の意思や権利を無視した、未成年者に対する虐待」と辛辣なコメントを有名法律家に言わせ、『鈴ノ片脚出版社』と『室井コトノハ鉄鋼グループ』は、当然ながら、袋叩きにされた。


 両会社には、クレームや嫌がらせの無言電話などが、五百件近く寄せられたと云う。しかし、今回の失踪事件で、一番の被害を被ったのは、この両会社ではなく、室井竜神の婚約者の、鈴木胡蝶御令嬢であった。


 鈴木胡蝶御令嬢も、本人の意思を無視しての政略婚約であった事は室井竜神御曹司と何も変わらないにも関わらず、『婚約の破棄』『本命との駆け落ち』などという非日常的なフレーズが勝手に先行した。


 いつの間にやら、室井竜神と、いるかいないかもわからない架空の駆け落ち相手とのシンデレラストーリーが女性達の間で形成され、そうなると自然と、鈴木胡蝶は、我儘で、性悪な金持ちの娘という、事実とはかなりかけ離れたキャラクター付けをされてしまったのである。


 無論、普段から彼女の事をよく知っている者達からすれば、彼女が我儘どころか、非常に欲の浅い人物で、性悪どころか、まるで仏のように善良な基質の淑女で、金持ちの令嬢というよりも、ある種修道女のような風格を備えている事は、至極当然だったのである。


 だが、そんな事を、世の浪漫主義の勧善懲悪ストーリーを渇望する、一般の女性方が知る筈もない。鈴木胡蝶・『稀代の悪女』論が、またたく間に席巻してしまった。


 彼女の通う、黒蜥蜴女學院も、この話題で当然持ちきりであり、流石に上流階級の淑女達ともなると、表であからさまな嫌がらせというのはしないものであるが、裏で行われている過激な行いは、悪辣極まるものであった。


 そんなくだらない行いを、鈴木胡蝶が、カリスマ性のあるしっかりした基質の御令嬢であったならば、或いは、本当に、心根の腐った悪人であったならば、取り扱わなかったのであろうが、彼女は残念ながら、そのどれでもなく、大人しい性格の本当の『淑女』であった為、流石に反応こそはしなかったものの、日々耐え続け、ひとり落ち込む場合が多かった。


 今日も、胡蝶はそんな誹謗中傷に、耐えていた。彼女が學院に来て、席に座ってすぐに、噂話が始まった。


「貴方が胡蝶さん? あの、悪徳業者の」


 噂話に耐えていると、顔も知らない上級生が、突然、胡蝶に詰め寄ってきた。吊り上がった目尻が、如何にも怖い。


 胡蝶は、無視する。教科書を、出そうとした。

 すると、上級生達は、その教科書を取り上げる。リーダー格らしきひとりが、その教科書を、ビリビリと破りだした。


「やめて!」


 胡蝶は、抵抗するが、その反応が、彼女らには面白かったのだろう。ケラケラと笑いながら、「うるせーな、附子ぶす!」と叫び、胡蝶の躰を抑え込んだ。暴れる胡蝶に、上級生のひとりが跨り、油性マジックを、胡蝶の頬に向けた。胡蝶は、目を閉じた。


 だが、何も起こらなかった。気がつけば、胡蝶の顔の前に、腕が伸びていて、油性ペンを、払い除けていたのである。


 紫がかった纏め髪に、白銀色の垂れ目のその少女は、上級生の腕を掴むと、その躰を背負い、無駄のない動きで、彼女を投げ飛ばしたのである。

 さらには、止めようとした何人かの上級生の攻撃も躱し、次々と倒していった。


「お姉様方。下級生を虐めるなど、黒蜥蜴の淑女の名に相応しくなくてよ」


 彼女は、至って穏やかな笑みを浮かべる。それが、かえって物凄い迫力があり、周りの人間達は怯んでしまった。


 目を付けられた胡蝶を庇う、とても頼もしい女性。

 それが、菖蒲あやめであった。

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