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32話「僕は弱い」

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※モブとの絡み注意


 その日もマネージャーさんに家まで送ってもらうことになった。
 
 車を取りに行こうとしたマネージャーさんを呼び止める。

「ごめん彼方。僕マネージャーさんと話があるから、先に玄関に行っててくれるかな」

 彼方は僕に何も聞かず、黙って会議室を出ていった。

 マネージャーさんと2人きりになる。事務所の突き当たりにある部屋だ。わざわざ他の人が通りかかることもない。分かっているけど、つい声が小さくなる。

 僕はマネージャーさんに頼み込んで動画を見せてもらった。

 パソコンの画面に映し出されるその映像は画質が荒く、音質もあまり良いものではなかった。

 だけど

『リコリスくん。気持ち良い?』

『んっ……あ、きもちい、です』

『ふふ、可愛いね。もっと気持ち良くさせてあげるよ』

『あ……っ』

 僕はその呼び名を知っている。この甘ったるい声を知っている。艶のある表情を、触り心地の良い肌の感触を知っている。

 間違いない。この映像は本物だ。

 これは彼方さんではない。緑さんだ。

 体から血の気が引いていくのが分かった。座り込みたくなるのを、机に手をつくことで堪える。

 僕が余程酷い顔をしていたのか、マネージャーさんはすぐに映像を止めてパソコンを閉じた。

「カイトくん。これ以上はやめておきましょう」

 きっと無理を言ってもこれ以上は見せてくれないだろう。僕としても、もう限界だった。
 
「すみません……見たいって言ったのは僕なのに」

 マネージャーさんは宥めるように僕の肩を軽く叩いた。

 マネージャーさんに促され部屋の外に出る。狭い部屋から逃れただけでも、少しだけ呼吸が楽になった気がした。でも気分はちっとも晴れやかにはならなかった。

 車の中で会話はなかった。マネージャーさんは黙ってひたすら車を走らせているし、彼方は窓の外をずっと眺めている。

 車が走る音、ウインカー、ため息、衣擦れ、咳払い。些細な音ひとつひとつが何故だか酷く耳につき、僕は焦燥感に駆られた。

 静寂が耐えられない。僕は何かを話さなくちゃいけないと思った。でも、何を話せば良いか分からない。

 あの映像が彼方ではないことを、彼方の双子の兄であることを、僕はその人と知り合いであることを、今回の件に緑さんが深く関わっている可能性があることを。

 僕は話さなくちゃいけない。でも、真実を話そうとすると喉の奥で声が詰まり、上手く話せなくなる。

 そうして代わりに、気休めにしかならない言葉が浮かんでくる。

 きっと何とかなる。ただのイタズラだ。ファンなら彼方は何も悪くないって分かってくれる。大丈夫だ。

 僕は薄々と気がついていた。僕の言葉は薄っぺらく何の価値もないということを。

 僕の言葉は、そうであってほしいという願望に過ぎない。

 笑顔を浮かべながら平気で嘘をつく人がいることも、平気で誰かを傷つけることができる人がいることも分かっている。だけど認めたくない。

 僕は良い人なんかじゃない。ただ、弱いだけだ。

「……もう秋ですね」

 気休めでもなく本質的なことでもなく、かろうじて僕が言えたのはそんなことだった。

 2人が視線だけを僕に送ってきた。

「僕、秋が好きなんですよ。並木道の紅葉が一斉に赤くなって、すごく鮮やかで綺麗で、でも何だか寂しくもあって、そんな秋が好きなんです」

 彼方がクスッと笑う。
 
「どうしたの、急に」

「急に言いたくなって……」

「あはは、変なの」

「彼方は秋好き?」

「好きだよ。ご飯が美味しく感じるよね」

「彼方くんはご飯派なんですね。僕はやっぱりスポーツの秋かな。社会人になると体を動かす機会が減るから、たまに軽く運動をするとすごく気持ちが良いんですよ」

「それなら、カイは芸術の秋だね。そんな感性してる」

「そうかなぁ」

 少しずつ、いつものような会話が戻ってきたところで彼方の住むマンションの前に到着した。

「では彼方くん。明日も頑張りましょうね」

「マネージャーも頑張って。カイも、また今度一緒に配信しよう」

 彼方が車から降りる。颯爽と去っていくその背中を見ていると、僕は急に不安に襲われた。

「マネージャー」

「どうしました?」

「ちょっと、ここで待っていてくれませんか。彼方に伝え忘れたことがあるんです」

 マネージャーの返事を待たずに僕は車を降り、彼方を追った。
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